「最強の教養 不確実性超入門」 [読書するなり!]
「なぜ、エリートですらバブルと暴落に踊らされてしまうのか?」という帯のこの本。
予測不可能な出来事については、基本的に予測を「当てる」ことを期待できない。
そうである以上、個々の「当たる」「当たらない」に一喜一憂したり、過剰な意味づけをすることなく、「期待値」で物事を判断するしかないし、「起こりえる最悪」が致命傷にならないだけの備えをしておくしかない。
引いた牌が何かを当てることは基本的にできない「麻雀」なんかも、まさにこの考えで行くのが最善なのですが…
ただ、実際には、「エリートですらバブルと暴落に踊らされてしまう」し、偶然によってもたらされた成功について過剰な意味づけ(「自分の力だ」というような)をして失敗することがある。
むしろ、そのような失敗をしやすい性質が人間には備わっている。それには理由がある。
…といったことなどが、分かりやすく書かれている本です。
不確実なことに満ちている世界で、いかにして、自分のコントロールできることとできないことを区別し、コントロールできることに最善を尽くすか、また、そのための心がけや、気をつけるべきことはどんなことかを教えてくれる本でした。
少し前、「勉強」の記事でも書いたことに通じます。
・ 学校でテストの点数をとる → 不確実性を考えずに、基本的に努力でできる。
・ 社会で起こる出来事に対処する、仕事する → 不確実性への対処を避けられない。
ですので、生きるのに必要な力としては、社会に出れば、「学校のテストで点数をとる」ような考え方とは別の頭の働きが必要になってきます。(もちろん、「答えのある」問題を正解できる、ということは間違いなく一つの「強さ」そのものなのですが、しかし、それだけでは全ての課題に対処できないということです。)
それが「不確実性」への対処であって、そういう意味で、多くの人にとって興味深い内容なのではないか、と思います。
神戸シーサイド法律事務所 弁護士 村上英樹
「翔ぶが如く」 [読書するなり!]
通勤電車で長いこと読んでいた本。
やっと全巻読み終わりました。
文庫本でも、小説などは、軽いタッチのものであれば、あっという間に読み終わってしまいます。
マメに図書館で借りるなどはせず、古本でもなく、新品で買ってしまうことが多い私にとっては、例えば、大阪-神戸間を1往復したら読み終わってしまう本などはコストパフォーマンスが余りに悪くなります。
その点、司馬遼太郎作品は素晴らしい。
内容が濃いので、なかなか進みません。時には、その「進まない具合」こそが作品の表現だったりします(「坂の上の雲」に描かれる、日露戦争でのロシア・バルチック艦隊の長い長い航海など)。
さて、「翔ぶが如く」は明治初期、西南戦争前後を描いた歴史小説ですが歴史の中で、乱を起こして敗れた者が、いかにして乱を起こすに至り、敗れることが必至となった後どのような心境で居たのか、あたりに迫る記述を読むと色々考えさせられるものがありました。
ゲーム感覚でいえば、「負け戦をしたり、負け戦に乗ったりするのは愚かだ」という発想もあるでしょう。
これだけだと功利主義的ですが、私はさらに、「自分の思う理想を実現する」観点から考えても「負けたら、死んだら終わりでは?」という発想が強く、「志が高いならば尚のこと、負け戦はいけない」と思ってきました。
この本を読んだ後も、この考えそのものには変わりはありません。
しかし、大人になって分かってきましたが、「自分の存在」というのも、空を自由に飛び回るような自由な存在であることは難しい。
家族、同僚、上司、部下…との関係などは大人になれば誰でもできるもの。
それが特別な力を持った人になると、「自分の存在」に対して、時代の中に存在する何らかの「価値観」なども乗っかかってくる。
そういう中で、単なるヒロイズムで軽率にも立ち上がった、というのではなく、西郷のように、宿命に身を委ねるようにして「乱」に至る、ということの有り様を感じることができました。
なので、「負け戦」を買って出たように見えた人にも、「彼なりの理由」がある、それを抜きに「単に愚か」という見方は表面的過ぎる、と思えます。
そして、司馬遼太郎作品の素晴らしいところは、「この人にとっては、○○の事態に至ったのにこういう理由がある。」「この人の置かれた立場や、それまでの発想からは、無理もない。」というところが掘り下げられているのと、それでいて、一方で冷静に「客観的には、無邪気な楽観に過ぎなかった。」という感じで分析されているというのが両立しているところだと思っています。
要するに、「宿命に従って散る」というのを美化することもないところが好きです。
もっといえば、司馬遼太郎作品に出てくる、「この人は大人物なのに、こういうところが残念だなあ。」という記述が好きです。
大人物にも大概「決定的にダメなところ」がある、というのが、司馬遼太郎作品を読むと、実にはっきりと書かれています。
人間ってそういうものだよね、むしろ何かに突出する人間はアンバランスなことの方が多いよね、と思うと、かえって人は愛すべきもの、と感じられます。
ただ、それでもやはり、大人物であればあるほど、歴史の流れの中で自分の立ち位置や進み方はとてつもなく大きな力でもって制約されるものだろうけど、その中でこそ抗って、自分の自由な意思や、理性的に考えたときに「これが正しい」と思えることを貫く、そういう風になれないものか、そうあって欲しいものだが、と思わずにおられません。
歴史小説を読むと、やっぱり、いつもそんな風に考えてしまいます。
歴史にifがあれば、あるいは、歴史上の人物ももう一度「分岐点」に戻れれば、また違った判断ができたことも沢山あるのでしょうね。
歴史小説は、読者の年齢や経験相応に色んなことを教えてくれます。それなので、間を置いて、未だ読んでいない大作を読んでみたいと思っています。
弁護士 村上英樹(神戸シーサイド法律事務所)
やっと全巻読み終わりました。
文庫本でも、小説などは、軽いタッチのものであれば、あっという間に読み終わってしまいます。
マメに図書館で借りるなどはせず、古本でもなく、新品で買ってしまうことが多い私にとっては、例えば、大阪-神戸間を1往復したら読み終わってしまう本などはコストパフォーマンスが余りに悪くなります。
その点、司馬遼太郎作品は素晴らしい。
内容が濃いので、なかなか進みません。時には、その「進まない具合」こそが作品の表現だったりします(「坂の上の雲」に描かれる、日露戦争でのロシア・バルチック艦隊の長い長い航海など)。
さて、「翔ぶが如く」は明治初期、西南戦争前後を描いた歴史小説ですが歴史の中で、乱を起こして敗れた者が、いかにして乱を起こすに至り、敗れることが必至となった後どのような心境で居たのか、あたりに迫る記述を読むと色々考えさせられるものがありました。
ゲーム感覚でいえば、「負け戦をしたり、負け戦に乗ったりするのは愚かだ」という発想もあるでしょう。
これだけだと功利主義的ですが、私はさらに、「自分の思う理想を実現する」観点から考えても「負けたら、死んだら終わりでは?」という発想が強く、「志が高いならば尚のこと、負け戦はいけない」と思ってきました。
この本を読んだ後も、この考えそのものには変わりはありません。
しかし、大人になって分かってきましたが、「自分の存在」というのも、空を自由に飛び回るような自由な存在であることは難しい。
家族、同僚、上司、部下…との関係などは大人になれば誰でもできるもの。
それが特別な力を持った人になると、「自分の存在」に対して、時代の中に存在する何らかの「価値観」なども乗っかかってくる。
そういう中で、単なるヒロイズムで軽率にも立ち上がった、というのではなく、西郷のように、宿命に身を委ねるようにして「乱」に至る、ということの有り様を感じることができました。
なので、「負け戦」を買って出たように見えた人にも、「彼なりの理由」がある、それを抜きに「単に愚か」という見方は表面的過ぎる、と思えます。
そして、司馬遼太郎作品の素晴らしいところは、「この人にとっては、○○の事態に至ったのにこういう理由がある。」「この人の置かれた立場や、それまでの発想からは、無理もない。」というところが掘り下げられているのと、それでいて、一方で冷静に「客観的には、無邪気な楽観に過ぎなかった。」という感じで分析されているというのが両立しているところだと思っています。
要するに、「宿命に従って散る」というのを美化することもないところが好きです。
もっといえば、司馬遼太郎作品に出てくる、「この人は大人物なのに、こういうところが残念だなあ。」という記述が好きです。
大人物にも大概「決定的にダメなところ」がある、というのが、司馬遼太郎作品を読むと、実にはっきりと書かれています。
人間ってそういうものだよね、むしろ何かに突出する人間はアンバランスなことの方が多いよね、と思うと、かえって人は愛すべきもの、と感じられます。
ただ、それでもやはり、大人物であればあるほど、歴史の流れの中で自分の立ち位置や進み方はとてつもなく大きな力でもって制約されるものだろうけど、その中でこそ抗って、自分の自由な意思や、理性的に考えたときに「これが正しい」と思えることを貫く、そういう風になれないものか、そうあって欲しいものだが、と思わずにおられません。
歴史小説を読むと、やっぱり、いつもそんな風に考えてしまいます。
歴史にifがあれば、あるいは、歴史上の人物ももう一度「分岐点」に戻れれば、また違った判断ができたことも沢山あるのでしょうね。
歴史小説は、読者の年齢や経験相応に色んなことを教えてくれます。それなので、間を置いて、未だ読んでいない大作を読んでみたいと思っています。
弁護士 村上英樹(神戸シーサイド法律事務所)
たけしの挑戦状!?~「新しい道徳」(北野武著)を読んでいます。 [読書するなり!]
ビートたけしこと北野武さんの著書を読んでいます。
モラルの低下→道徳教育の強化 といわれる流れの中で、武さんには「言いたいことがある!」ということで書かれた著書のようです。
「はじめに」によれば、
(引用)
結局、いいたいことはひとつなんだから。
「道徳がどうのこうのという人間は、信用しちゃいけない」
(引用終わり)
道徳の教科書にしても、子どもに道徳を説く大人にしても、「道徳をどうのこうの」いう立場の側がちゃんと道徳というものを自分のものにせずに「どうのこうの」言っているのではないか、という鋭い問題提起がなされています。
その意味で、「道徳をどうのこうの」というのに対する「たけしの挑戦状」と言って良いのかも知れません。
武さんの、一見不真面目に見える語り口調の中に、通り一遍の「道徳」のうさんくささをえぐる鋭さ、(逆説的ですが)真剣さが伝わる本で、とても読み応えがありました。
さて、話はそれますが、弁護士が、というより私が「道徳」という言葉を出すときは多くはこんな文脈でした。
特にもっと若い頃はこんな言い方をしょっちゅうしていました。
「それは道徳の問題にすぎません。」
ああ、何てモノの言いようでしょう。
「道徳」「の問題に過ぎません」なんて。
このモノの言い方自体が「不道徳」な感じで、うんざりします。
ただ、(表現はともかくとして意味としては)こういう言い方をせざるを得ないケースが実はしばしばあるのです。
つまり、弁護士が受ける相談事の中には、相談者の側も、法律問題かどうか区別がついていない、いや、区別がつかないからこそ弁護士にアドバイスを求めている(弁護士が扱えることかどうかも含めて)ことがあるのです。
これは当然のことです。
ですので、
「Aさんからカクカクシカジカのことで大変な迷惑を被っている。
こんなAさんの振る舞いはけしからんでしょう?
Aさんに対して、弁護士が入って、何とかできないものか。」
という相談をされることがありますが、時として、
「なるほど、『けしからん』というのはそう言えるかも知れません。
しかし、それは道徳の問題に過ぎません。
つまり、犯罪になるとか、法律に違反するとか、そういうことにはならないので、法律的にAさんに対して何か出来る手段があるわけではありません。
弁護士は、法律問題には入ることができますが、道徳の問題のような、人の心の持ちようの問題に介入することはできません。」
という回答になることがあります。
例として言えば、「娘(息子)が、父親(母親)に対して、親を親とも思わない態度を取り続ける。それを弁護士が入って改めさせることができないか。」というような話ですね。
しかし、
「弁護士ってひどい。『道徳の問題に過ぎません』だって!」
という声が聞こえてきそうです。
道徳というのは、答えが一つではありません。
たけしさんの「新しい道徳」によれば
(引用 「帯」部分)
時代を作る人は、いつだって古い道徳を打ち壊してきた。誰かに押しつけられた道徳ではなく、自分なりの道徳で生きた方がよほど格好いい。
自分なりの道徳とはつまり、自分がどう生きるかという原則だ。
今の大人たちの性根が据わっていないのは、道徳を人まかせにしているからだ。それは、自分の人生を人まかせにするってことだと思う。
(引用終わり)
とのことです。
つまり、道徳は、時代によって、集団によって、また人によって、結局は多様なわけで、画一的なものではない。
人間生活にとって道徳が大切なものには違いないのですが、日本国どこでも誰にでも適用される法律(ルール)と違って「イヤでも守らせる」ということができるわけではないのです。
つまり、道徳は、それぞれの人の心の領域でそこに(弁護士などは)踏み込めないわけです。
なので、
「道徳の問題に過ぎません」
と言わずに、
「それは道徳の問題であって、弁護士などは恐れ多くてそこにタッチする事が出来ません」
と言うべきかも知れません。
そしたら、「弁護士はひどい」とはならないかも知れません。
解説すると、「道徳の問題に過ぎません」という弁護士の言葉は、問題解決のための「強制力」を念頭に置いています。
問題解決の専門家としての表現とすれば、「道徳の問題に過ぎません」となるのです。
法律の問題 → (最終的には)強制的に解決しえる(自力で解決可能)
道徳の問題 →強制的に解決出来ない(つまり他人次第)
ゆえに
実際に弁護士が解決出来る課題か?と尺度で言えば、いうまでもなく、
法律の問題 > 道徳の問題
となるからです。
弁護士になって日が浅かった頃の私は、「自分は問題解決のプロだ」なんて思ってつい「道徳の問題に過ぎません」と言っていたのです(いや今も時々言っているかもしれません)。
いやはや、それにしても、聞き手がどう取るかもよく考えて、モノの言い方に気をつけましょう!というものです(反省こめて)。
なので、こういう風に丁寧に説明したいものです。↓
「なるほど、あなたがそれを苦痛に感じることは想像出来ます。
道徳的にAさんの行動は非常に良くないと言うのが常識的な見方でしょう。
ただ、あくまで道徳的な問題となれば、それは人の心の持ちようの問題ですから、法律によって解決するのは難しいですね。
なので、弁護士が介入することは適さない事案と言うことにならざるを得ません。」
これならOKでしょうか?
しかし、法と道徳との区別というのは重要なものですが、案外やっかいなものです。
例えば、
A 道徳のような内容を、やたらと法律や条例に盛り込もうとしたがる人もいる。
(だって、自分の信じる道徳はいいものだ、と強く思うものですから。こういう気持ちになる人の心の動きも分からないではない。でも、心の領域に強制力を働かせることは本当は怖いことだと思います。)
そうかと思えば、
B 法律さえ守れば後は何だって良い、文句を言うやつがおかしい、という人もいる。
(これが高じて、「文句を言うやつ」のほうが道徳的にも間違っているかのような言い方をする人もいる。)
さらには、なぜか、上のAとBを両方兼ね備えた人もいる(矛盾してない?と思いますが、何かしら矛盾があるのが人間なのでしょう。それにしても…)。
たけしさんも「道徳などいらん!」などとは言っていません。
先にも引用したように、道徳は自分で大切に育てるもの、ということなのです。
法は法の領域で働き(つまり弁護士は自分の守備範囲をがっちりと守り)、人々が生命・身体・財産を脅かされる恐怖から解放されて、自分なりの生き方をつくっていく(この際の原則がたけしさんのいう「道徳」)ことができる環境整備をするというものなのです。
というわけで、この環境整備の一助となるべく私もがんばっていこうということで、本稿を締めたいと思います。
弁護士 村上英樹(神戸シーサイド法律事務所)
モラルの低下→道徳教育の強化 といわれる流れの中で、武さんには「言いたいことがある!」ということで書かれた著書のようです。
「はじめに」によれば、
(引用)
結局、いいたいことはひとつなんだから。
「道徳がどうのこうのという人間は、信用しちゃいけない」
(引用終わり)
道徳の教科書にしても、子どもに道徳を説く大人にしても、「道徳をどうのこうの」いう立場の側がちゃんと道徳というものを自分のものにせずに「どうのこうの」言っているのではないか、という鋭い問題提起がなされています。
その意味で、「道徳をどうのこうの」というのに対する「たけしの挑戦状」と言って良いのかも知れません。
武さんの、一見不真面目に見える語り口調の中に、通り一遍の「道徳」のうさんくささをえぐる鋭さ、(逆説的ですが)真剣さが伝わる本で、とても読み応えがありました。
さて、話はそれますが、弁護士が、というより私が「道徳」という言葉を出すときは多くはこんな文脈でした。
特にもっと若い頃はこんな言い方をしょっちゅうしていました。
「それは道徳の問題にすぎません。」
ああ、何てモノの言いようでしょう。
「道徳」「の問題に過ぎません」なんて。
このモノの言い方自体が「不道徳」な感じで、うんざりします。
ただ、(表現はともかくとして意味としては)こういう言い方をせざるを得ないケースが実はしばしばあるのです。
つまり、弁護士が受ける相談事の中には、相談者の側も、法律問題かどうか区別がついていない、いや、区別がつかないからこそ弁護士にアドバイスを求めている(弁護士が扱えることかどうかも含めて)ことがあるのです。
これは当然のことです。
ですので、
「Aさんからカクカクシカジカのことで大変な迷惑を被っている。
こんなAさんの振る舞いはけしからんでしょう?
Aさんに対して、弁護士が入って、何とかできないものか。」
という相談をされることがありますが、時として、
「なるほど、『けしからん』というのはそう言えるかも知れません。
しかし、それは道徳の問題に過ぎません。
つまり、犯罪になるとか、法律に違反するとか、そういうことにはならないので、法律的にAさんに対して何か出来る手段があるわけではありません。
弁護士は、法律問題には入ることができますが、道徳の問題のような、人の心の持ちようの問題に介入することはできません。」
という回答になることがあります。
例として言えば、「娘(息子)が、父親(母親)に対して、親を親とも思わない態度を取り続ける。それを弁護士が入って改めさせることができないか。」というような話ですね。
しかし、
「弁護士ってひどい。『道徳の問題に過ぎません』だって!」
という声が聞こえてきそうです。
道徳というのは、答えが一つではありません。
たけしさんの「新しい道徳」によれば
(引用 「帯」部分)
時代を作る人は、いつだって古い道徳を打ち壊してきた。誰かに押しつけられた道徳ではなく、自分なりの道徳で生きた方がよほど格好いい。
自分なりの道徳とはつまり、自分がどう生きるかという原則だ。
今の大人たちの性根が据わっていないのは、道徳を人まかせにしているからだ。それは、自分の人生を人まかせにするってことだと思う。
(引用終わり)
とのことです。
つまり、道徳は、時代によって、集団によって、また人によって、結局は多様なわけで、画一的なものではない。
人間生活にとって道徳が大切なものには違いないのですが、日本国どこでも誰にでも適用される法律(ルール)と違って「イヤでも守らせる」ということができるわけではないのです。
つまり、道徳は、それぞれの人の心の領域でそこに(弁護士などは)踏み込めないわけです。
なので、
「道徳の問題に過ぎません」
と言わずに、
「それは道徳の問題であって、弁護士などは恐れ多くてそこにタッチする事が出来ません」
と言うべきかも知れません。
そしたら、「弁護士はひどい」とはならないかも知れません。
解説すると、「道徳の問題に過ぎません」という弁護士の言葉は、問題解決のための「強制力」を念頭に置いています。
問題解決の専門家としての表現とすれば、「道徳の問題に過ぎません」となるのです。
法律の問題 → (最終的には)強制的に解決しえる(自力で解決可能)
道徳の問題 →強制的に解決出来ない(つまり他人次第)
ゆえに
実際に弁護士が解決出来る課題か?と尺度で言えば、いうまでもなく、
法律の問題 > 道徳の問題
となるからです。
弁護士になって日が浅かった頃の私は、「自分は問題解決のプロだ」なんて思ってつい「道徳の問題に過ぎません」と言っていたのです(いや今も時々言っているかもしれません)。
いやはや、それにしても、聞き手がどう取るかもよく考えて、モノの言い方に気をつけましょう!というものです(反省こめて)。
なので、こういう風に丁寧に説明したいものです。↓
「なるほど、あなたがそれを苦痛に感じることは想像出来ます。
道徳的にAさんの行動は非常に良くないと言うのが常識的な見方でしょう。
ただ、あくまで道徳的な問題となれば、それは人の心の持ちようの問題ですから、法律によって解決するのは難しいですね。
なので、弁護士が介入することは適さない事案と言うことにならざるを得ません。」
これならOKでしょうか?
しかし、法と道徳との区別というのは重要なものですが、案外やっかいなものです。
例えば、
A 道徳のような内容を、やたらと法律や条例に盛り込もうとしたがる人もいる。
(だって、自分の信じる道徳はいいものだ、と強く思うものですから。こういう気持ちになる人の心の動きも分からないではない。でも、心の領域に強制力を働かせることは本当は怖いことだと思います。)
そうかと思えば、
B 法律さえ守れば後は何だって良い、文句を言うやつがおかしい、という人もいる。
(これが高じて、「文句を言うやつ」のほうが道徳的にも間違っているかのような言い方をする人もいる。)
さらには、なぜか、上のAとBを両方兼ね備えた人もいる(矛盾してない?と思いますが、何かしら矛盾があるのが人間なのでしょう。それにしても…)。
たけしさんも「道徳などいらん!」などとは言っていません。
先にも引用したように、道徳は自分で大切に育てるもの、ということなのです。
法は法の領域で働き(つまり弁護士は自分の守備範囲をがっちりと守り)、人々が生命・身体・財産を脅かされる恐怖から解放されて、自分なりの生き方をつくっていく(この際の原則がたけしさんのいう「道徳」)ことができる環境整備をするというものなのです。
というわけで、この環境整備の一助となるべく私もがんばっていこうということで、本稿を締めたいと思います。
弁護士 村上英樹(神戸シーサイド法律事務所)
「親鸞」五木寛之著 講談社文庫 [読書するなり!]
最近読んでいる本はこれです。
親鸞上人(浄土真宗の始祖)の生涯がテーマです。
歴史小説としてとても面白いのですが、とても読み応えがあります。
親鸞は、高貴な存在として山の上にいる、というのではなくて、世の中のありとあらゆる人と関わります。
貧しい人、罪人、業を負う仕事をする人…
「清い」などという在り方からは程遠い人でも、懸命に生きているし、救いを求めていることを肌身で感じ、何をすべきか考え、行動する波瀾万丈の生涯。
また、五木寛之さんが描く親鸞像は、とても人間らしい部分が生き生きと描かれており、人が人を救わんとすることは、言うは易くとも、実際行うとなると捨て身で、ドロドロになりながらなのだ、と教えられます。
話は変わって、中学生などとお話しすると
「なぜ弁護士は悪い人を弁護するのか?」
という質問をいつも頂きます。
この問いと答えに通じるものを小説「親鸞」に感じました。
確かに、中学生の時は、「悪いことをして捕まったら終わり!」という感覚だったと思います。
私は刑事弁護がメインでないので、それほどの経験がありませんが、私の接した多くの人は、
罪を犯したくて罪を犯したわけではない(できれば罪を犯さず生きていたい)
し、また、
その人にとって、刑事裁判が終わりではなく、その後、如何に良く生きるべきかという課題が残っている
のです。
弁護士もそうですが、それだけでなく世の中全体が、「自分の意に反して、理想の状態から外れてしまった。」という人(罪を犯した人もそうですし、その他、社会的に弱い立場に立つことになったあらゆる人)に対して、排除するなどという態度ではなく、「その人がこれから如何に良く生きることができるか」という視点で関われるようになっていけば、と思わせられました。
ま、深く考えずとも、単純に、親鸞上人の「波瀾万丈伝」として捉えても大変面白い(史実との関係は詳しくは私には分かりませんが…)ので、あらゆる年齢層の方にこの小説はオススメです。
弁護士 村上英樹(神戸シーサイド法律事務所)
読書録~「非ユークリッド幾何の世界」(講談社) [読書するなり!]
私は、高校受験を一生懸命やったので、幾何についてはかなりやりこみました。
中学生がやる
「幾何の証明」
などです。
合同や相似、三平方の定理などを使って、また、定理と定理を組み合わせて、一見複雑な問題を解くというパズルのような世界です。
一種のパズルみたいなものなので、数学の分野としては比較的楽しい分野です。
ここでいう「幾何」というのが、いわゆる
ユークリッド幾何
ですが、この本で扱うのは、「非」ユークリッド幾何、また別物の「幾何」なのです。
ユークリッドというのは人の名前ですが、すごい偉い人なんだなあ、と思います。なんといっても、「非ユークリッド幾何」なんていうものが存在する位ですから。「ユークリッド対その他もろもろ」という感じです。
ですので、私も精進して、「非ムラカミ○○学」が生まれるくらいに何かを極められたら、と思います。
さて、冗談はさておき。
ユークリッド幾何と違った「非ユークリッド幾何」というものがあるということは前から知っていて何となく気にはなっていたのですが、特に、数学を専攻するような機会もなかったので、気になったまま放って置いたところに、本屋でこの本を見つけて買ってみたというところです。
簡単に言うと、
平行線は交わらない というのがユークリッド幾何
なのです。
ですが、
平行線が交わる という幾何があったら?
というのが「非ユークリッド幾何」の話と思えば、大体合っています。
ドラえもんの「もしもボックス」の世界のような感じです。
そんな世界が、「老先生」と「生徒」の対談方式で、「非ユークリッド幾何」発見の数学者の歴史を交えて、物語感覚で読めるように工夫された本です。
なので、理系の人でなくても読めます。
ただし、ちゃんと理解しようとすれば、紙とペンを持ちながら読まないといけない。私はそれをせず流して読んだので、何となくの雰囲気が分かった、というにとどまります。
で、
平行線が交わる という幾何があったら?
などというのが、中学数学を勉強した者にとっては、
「非常識」
「そんなことあるはずがない」
「そんなことを考えても意味が無い」
と思いがちなところですが、「あながちそうでもないよ」ということが老先生と生徒の対談によって明らかにされてきます。
たとえば、
「この世界で、平行な2本のレールをレールの間に立って見たら、遠くで交わっているように見えるでしょ」(シベリアの平原のイメージで)
ということについて、説明できる幾何があったら、といえば、少し違ってくるのではないでしょうか。
それを翻ってみれば、
私たちが中学で習った「幾何」(ユークリッド幾何)も虚構に満ちているのでは?
ということになったりするのです。
虚構というか、現実世界であり得ない仮定で成り立っているわけです。
・ 「直線」には端が無いというのも
・ 「点」は長さを持たないというのも
・ 「線」には幅が無いというのも
これも、あくまで「頭の中」のものだ、ということです。
だから、数学の教科書に書いてある「図」はどれも正確ではない。
教科書に書いてある「点」は正しくは「円を黒く塗りつぶしたもの」だし、「線」も「細長い長方形を塗りつぶしたもの」。(それは当然、本来の意味での「点」「線」は書くことすらできない。)
もちろん、「ユークリッド幾何」で考えたことが、現実にモノを作るときなどに大いに役立つので、幾何の勉強は有用なことなのです。
ですが、私たちの知っている「ユークリッド幾何」が唯一絶対のものではなく、一つの思考モデルである、と位置づけることで、その外の世界に考えが広がる、というわけです。
実際、かなり非常識に思われた「非ユークリッド幾何」というのは相対性理論の発見とともに有用性が認められるようになっていった、というのが歴史のようです。
ということで、自分の現時点での「常識」の幅を広げてくれた本、でした。
弁護士 村上英樹(神戸シーサイド法律事務所)
夏の読書感想文~「誰も書かなかった武豊 決断」(島田明宏 徳間書店) [読書するなり!]
今年もこの季節がやってきました。
夏休みもあと1週間、小中学生の皆さんの何割かは、最後に残ってしまった読書感想文をどうしようかと考えておられると思います。
というところで、私の読書感想文を。
私は、昔から武豊騎手が憧れの存在でした。
飄々とした雰囲気の天才、という感じで、表には、苦労も見えないし、また、レース運びも余り強引なことをせずに、それでいて馬群の中から凄いところをすーっと通って勝ってしまう、という余りにかっこいい騎手、というイメージでした。
そんな武豊騎手の栄光と、その後成績が低迷しリーディングから陥落した後復活までの苦しい日々などについて書いた本です。
私は読書するとき、良いな、と思う文章があるところに「折り目」をつけて読むのですが、この本で「折り目」をつけた箇所2カ所を紹介します。
その1
騎手につきものの怪我について書いたところで、
(本から引用)
…彼の基本的な考え方は、「苦労や挫折は必要なものではなく、せずに済むならしないほうがいい」というものである。それでも、怪我をしてしまったら受け入れるしかない。くどいようだが、彼の口から「怪我をしてよかった」という言葉は絶対に出ない。「怪我をしてよかった」というのは、一見ポジティブなとらえ方に思えるが、実は「現実逃避」の発想ではないか。彼はそうした考え方をよしとしない。
(中略)
よしとしないが、受け入れて、行動を起こす。受け入れるが、けっしてよしとしない-ということを、強い気持ちで繰り返しているのだ。
(引用終わり)
これを読んだときに思ったのは、ちょっと飛躍していると思われるかも知れませんが、戦争です。
『君に友だちはいらない』(講談社 滝本哲史著) [読書するなり!]
何というタイトルだ!
孤高の人として生きてゆけというのか。そうだとすれば、それはそれで一つの魅力か。
というのが、本屋で目にしたときの第一印象ですが、帯に
「打倒ブラック企業!脱コモディティ!! 武器としてのチームづくり」
とあり、孤高の人を目指す本ではない、ということが次に分かります。
この本は面白い本でした。
簡単に言えば、旧来型の「なあなあ」の組織人として生きるのではなく、共通の目標を持って人と繋がろう、そういう「おともだち」ではない目的をもったチームをつくろう、その方が活き活きと活動できるし成果も上げやすい、という、主に若者に向けたメッセージでした。
何より素晴らしいのは、「『武器としての』チーム作り」を提唱している点です。
大人がいくら理想を言っても、あるべき姿を説いても、それだけでは若者にはなかなか響かない。
生きていくための具体的な「武器」(武器というのが語弊があれば、防具でもよい。「道具」「ツール」でもよい。)を提示することが大切。
それこそが真に若者の立場を考えている、と感じます。
この本を読むと、私も、自分の理想とすることの何か一つでも共有し実現しようとするチームをつくりたい、という気持ちになってきました。
仕事や社会内での活動で、どういう風に人と繋がったらいいのか、ということを考えている人にはお勧めの一冊です。
村上英樹(弁護士、神戸シーサイド法律事務所)
PHP研究所「コメントする力」(竹田圭吾氏著)を読書中~憲法改正について3冊読むなら [読書するなり!]
今読んでいる本。これです。
情報のとらえ方などについて非常に勉強になる本なのですが、この本の中に、
「ワンテーマにつき三冊読むのが読書の基本」
という章があり、
(同書より引用)
①網羅的、体系的にそのテーマを採り上げた概論のようなもの
②多角的、多面的、複層的に検証や解説をしたもの
③海外の事例などを比較したもの
④重要ポイントに絞ってリポートや解説をしたもの
⑤批判的な観点から意見を述べたもの
⑥ユニークな視点から分析や問題提起をしたもの
(引用終わり)
これらのうちから3つを選んでそれに該当する本を読むのが筆者の考える読書方法とのことです。
そして、次のように続きます。
(同書より引用)
たとえば、テーマが憲法改正であれば、次の三冊を選ぶのではないかと思います。
・網羅的な概論として『憲法改正試案集』(井芹浩文著/集英社新書)
・批判的に検証したものとして憲法九条を中心に思想的な背景を探った『ルポ 改憲潮流』(斎藤貴男著/岩波新書)
・海外との比較として、アジアや欧米諸国の憲法を紹介して違いを考察した『比較憲法』(君塚正臣著/ミネルヴァ書房)
(引用終わり)
たぶん私はどの本も読んだことはないのですが、紹介されると実になるほど、という感じのチョイスです。
最後の「比較憲法」については、ちょうど先日、私も、灘校土曜講座で憲法についてお話ししたときに、憲法を考える上で非常に参考になる分野であることを、中高生のみなさんにも紹介させていただいたところでした。(私が参考文献にあげたのは別の本でしたが。)
「比較憲法」が著者のチョイスに入っているのは、特にさすが、と感じました。
あるテーマについて考えたいと思ったときに、似通った意見や、自分に近い意見の本だけを3冊読んでも、それはあまり情報の効率的なつかみ方とは言えないので、反対意見などをもバランスよくチェックすることはとても大切だと思います。
それだけではなく、この本の言う、①~⑥の視点から本をチョイスする、というのは大変採用しやすい本の選択法で、使わせてもらいたい、と思いました。
なお、ご紹介した本(「コメントする力」)は、タイトル通り、憲法を扱った本ではなくて、情報を処理する方法や、コメントをする上で大切なことなどを書いた本です。
その点で、私には大変勉強になる本です。
村上英樹(弁護士、神戸シーサイド法律事務所)
情報のとらえ方などについて非常に勉強になる本なのですが、この本の中に、
「ワンテーマにつき三冊読むのが読書の基本」
という章があり、
(同書より引用)
①網羅的、体系的にそのテーマを採り上げた概論のようなもの
②多角的、多面的、複層的に検証や解説をしたもの
③海外の事例などを比較したもの
④重要ポイントに絞ってリポートや解説をしたもの
⑤批判的な観点から意見を述べたもの
⑥ユニークな視点から分析や問題提起をしたもの
(引用終わり)
これらのうちから3つを選んでそれに該当する本を読むのが筆者の考える読書方法とのことです。
そして、次のように続きます。
(同書より引用)
たとえば、テーマが憲法改正であれば、次の三冊を選ぶのではないかと思います。
・網羅的な概論として『憲法改正試案集』(井芹浩文著/集英社新書)
・批判的に検証したものとして憲法九条を中心に思想的な背景を探った『ルポ 改憲潮流』(斎藤貴男著/岩波新書)
・海外との比較として、アジアや欧米諸国の憲法を紹介して違いを考察した『比較憲法』(君塚正臣著/ミネルヴァ書房)
(引用終わり)
たぶん私はどの本も読んだことはないのですが、紹介されると実になるほど、という感じのチョイスです。
最後の「比較憲法」については、ちょうど先日、私も、灘校土曜講座で憲法についてお話ししたときに、憲法を考える上で非常に参考になる分野であることを、中高生のみなさんにも紹介させていただいたところでした。(私が参考文献にあげたのは別の本でしたが。)
「比較憲法」が著者のチョイスに入っているのは、特にさすが、と感じました。
あるテーマについて考えたいと思ったときに、似通った意見や、自分に近い意見の本だけを3冊読んでも、それはあまり情報の効率的なつかみ方とは言えないので、反対意見などをもバランスよくチェックすることはとても大切だと思います。
それだけではなく、この本の言う、①~⑥の視点から本をチョイスする、というのは大変採用しやすい本の選択法で、使わせてもらいたい、と思いました。
なお、ご紹介した本(「コメントする力」)は、タイトル通り、憲法を扱った本ではなくて、情報を処理する方法や、コメントをする上で大切なことなどを書いた本です。
その点で、私には大変勉強になる本です。
村上英樹(弁護士、神戸シーサイド法律事務所)
いいこと言う!ホリエモン~夏の読書感想文 [読書するなり!]
学生、生徒の皆さん。夏休みの宿題は終わりましたか?
やはり、読書感想文、残っている人が多いでしょうか?
さて、私の夏の読書感想文、これ。
堀江さんの本を読んだのは初めてですが、実に、本質をつく記述が多く、(本当に意外にも、失礼、堀江さん)ためになりました。
私からすると根本的な価値観が違う部分はあるのです。しかし、価値観の部分を離れて、それ以前の、物事の本質をストレートに捉えて、(いわれてみればごく当たり前という)論理的・本質的な記述をしておられるところは、本当に感心しました。
で、私は仕事の中で「投資」被害などに関わってきたので、堀江さんが、Q&Aコーナーで、「投資」「資産運用」で回答しておられることを紹介します。
(引用)
Q よく「貯金はしない」とメールや著書等で述べられていますが、「一般人が貯金するお金で株などの投資をしてきた」ということでしょうか。もしそうなら、資産運用を始めた時期と、その時行った運用の種類(投資信託など)をぜひ知りたいです。
A 私が「貯金はしない」というのは、稼いだお金を意識的に貯蓄にまわさないということで、使い切れなくて貯金で貯まっているお金はもちろんありますよ。
で、いわゆる普通の資産運用は大して儲からないので、基本的に手元流動性で必要な額以外は新規事業投資に全部まわします。新規事業は自分でやることもあるし、別の人に任せることもあります。これが一番期待リターンが大きいですね。
(引用終り。太字下線は村上による。)
要するに、自分自身は、銀行や証券会社に任せて運用するという資産運用は基本的に得策と考えていない、というようです。
自分で事業をやって増やす方が良い、という大変明快な考え方です。
次いきます。
(引用)
Q 会社員35歳です。3年後に独立する予定です。現在の会社は10年在職しているので住宅ローンが簡単に組めますが、これから先は難しいということもあり、今のうちにマンションを買おうか悩んでいます。たまたま、都心に一人暮らし用のマンションが売り出していて立地的にも資産形成するうえでもメリットがあると思いますが、転職・独立という不安定な時期に住宅ローンを組むのはどうなのか?というのもあります。
堀江さんは賃貸派かとは思いますが、現在のこの状況で買うべきか、買わないべきかアドバイスをお願いします。
A てか、そもそもなんでわざわざ不動産という固定資産に、現金のような流動性の高い資産からチェンジしようとするのかが理解不能です。おそらく、不動産は値上がりするとでもおもっているのでしょうか?ファンダメンタルズで言えば、高齢少子化日本では経済発展は見込めず不動産が大幅に値上がりする要素はあまりありません。
そもそも資金力に乏しい個人が大手の不動産取引業者に勝てるはずもなく、本当の優良物件はあなたのような一介の個人のところにまわってくるわけがありません。
お金を使ってしまうのが嫌で貯蓄したいのなら、普通に定期預金でもしていたほうがマシだと思いますよ。
(引用終り。太字下線は村上による。)
全く同感です。
金儲けの「極」にいるような堀江さんがこのようにズバッと言い切ってくれることは、大変心強いです。
堀江さん自身は、金儲けOK(これは村上も同意)というのはもちろんのこと、そのための手段の選択について、私(村上)は間違っていると思うことでも「別にいいんじゃない」という感覚でこの本も書かれているように思いますから、私と価値観において大いに違いがあります。
ですが、「金儲け」そのものについて、儲からないものは儲からない、とハッキリ言っています。その点で、誠実な方だと思います。
ここが、普通の経済本と随分違うところです。
「金儲け」社会の本質(おそらく堀江さん自身分かっているであろう、その「破綻した」あるいは、そもそもの矛盾を抱えた本質)に言及することにも、全く躊躇いがありません。
投資被害、投資トラブルは後を絶ちません。(もちろん、ライブドア事件は大トラブルでした。)
だから、資産をお持ちの方には、ぜひ、堀江さんの本を読んで、堀江さんの本音、堀江さんの語りから垣間見える「金儲け」社会の本質を知って、資産運用について考えてみていただければ、と思います。
自分が投資しようとしているもの(株でも、投資信託でも、デリバティブ商品、仕組債…でも)が、
「本当に自分の得になる仕組みになっているか(なるはずがあるか)」
「誰か他の人が得をするようにできているのではないか(そういう風に設定されているのではないか)」
「内容をわかっているか」
「本当に買わないといけない必然性があるか」
ということを、じっくり考えて頂ければ、と思います。
「いつ買うの?今でしょ」というノリに対しては、「そもそも、いつまでも買わないという選択肢がある」ことを忘れないで下さい。
そして、ホリエモンおすすめは「普通に定期預金」であることを覚えておかれたほうがいい、と思います。
その他でも、
「金持ちってなろうと思ってなれるもんじゃない気がする。お金持ちというのは、あくまで結果。」
「『文系だから知りません、できません』というのは単なる言い訳。」
などなど、本当にそうだなあ、と思う記述がたくさんでした。
村上英樹(弁護士、神戸シーサイド法律事務所)
やはり、読書感想文、残っている人が多いでしょうか?
さて、私の夏の読書感想文、これ。
堀江さんの本を読んだのは初めてですが、実に、本質をつく記述が多く、(本当に意外にも、失礼、堀江さん)ためになりました。
私からすると根本的な価値観が違う部分はあるのです。しかし、価値観の部分を離れて、それ以前の、物事の本質をストレートに捉えて、(いわれてみればごく当たり前という)論理的・本質的な記述をしておられるところは、本当に感心しました。
金持ちになる方法はあるけれど、金持ちになって君はどうするの?
- 作者: 堀江貴文
- 出版社/メーカー: 徳間書店
- 発売日: 2013/04/26
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
で、私は仕事の中で「投資」被害などに関わってきたので、堀江さんが、Q&Aコーナーで、「投資」「資産運用」で回答しておられることを紹介します。
(引用)
Q よく「貯金はしない」とメールや著書等で述べられていますが、「一般人が貯金するお金で株などの投資をしてきた」ということでしょうか。もしそうなら、資産運用を始めた時期と、その時行った運用の種類(投資信託など)をぜひ知りたいです。
A 私が「貯金はしない」というのは、稼いだお金を意識的に貯蓄にまわさないということで、使い切れなくて貯金で貯まっているお金はもちろんありますよ。
で、いわゆる普通の資産運用は大して儲からないので、基本的に手元流動性で必要な額以外は新規事業投資に全部まわします。新規事業は自分でやることもあるし、別の人に任せることもあります。これが一番期待リターンが大きいですね。
(引用終り。太字下線は村上による。)
要するに、自分自身は、銀行や証券会社に任せて運用するという資産運用は基本的に得策と考えていない、というようです。
自分で事業をやって増やす方が良い、という大変明快な考え方です。
次いきます。
(引用)
Q 会社員35歳です。3年後に独立する予定です。現在の会社は10年在職しているので住宅ローンが簡単に組めますが、これから先は難しいということもあり、今のうちにマンションを買おうか悩んでいます。たまたま、都心に一人暮らし用のマンションが売り出していて立地的にも資産形成するうえでもメリットがあると思いますが、転職・独立という不安定な時期に住宅ローンを組むのはどうなのか?というのもあります。
堀江さんは賃貸派かとは思いますが、現在のこの状況で買うべきか、買わないべきかアドバイスをお願いします。
A てか、そもそもなんでわざわざ不動産という固定資産に、現金のような流動性の高い資産からチェンジしようとするのかが理解不能です。おそらく、不動産は値上がりするとでもおもっているのでしょうか?ファンダメンタルズで言えば、高齢少子化日本では経済発展は見込めず不動産が大幅に値上がりする要素はあまりありません。
そもそも資金力に乏しい個人が大手の不動産取引業者に勝てるはずもなく、本当の優良物件はあなたのような一介の個人のところにまわってくるわけがありません。
お金を使ってしまうのが嫌で貯蓄したいのなら、普通に定期預金でもしていたほうがマシだと思いますよ。
(引用終り。太字下線は村上による。)
全く同感です。
金儲けの「極」にいるような堀江さんがこのようにズバッと言い切ってくれることは、大変心強いです。
堀江さん自身は、金儲けOK(これは村上も同意)というのはもちろんのこと、そのための手段の選択について、私(村上)は間違っていると思うことでも「別にいいんじゃない」という感覚でこの本も書かれているように思いますから、私と価値観において大いに違いがあります。
ですが、「金儲け」そのものについて、儲からないものは儲からない、とハッキリ言っています。その点で、誠実な方だと思います。
ここが、普通の経済本と随分違うところです。
「金儲け」社会の本質(おそらく堀江さん自身分かっているであろう、その「破綻した」あるいは、そもそもの矛盾を抱えた本質)に言及することにも、全く躊躇いがありません。
投資被害、投資トラブルは後を絶ちません。(もちろん、ライブドア事件は大トラブルでした。)
だから、資産をお持ちの方には、ぜひ、堀江さんの本を読んで、堀江さんの本音、堀江さんの語りから垣間見える「金儲け」社会の本質を知って、資産運用について考えてみていただければ、と思います。
自分が投資しようとしているもの(株でも、投資信託でも、デリバティブ商品、仕組債…でも)が、
「本当に自分の得になる仕組みになっているか(なるはずがあるか)」
「誰か他の人が得をするようにできているのではないか(そういう風に設定されているのではないか)」
「内容をわかっているか」
「本当に買わないといけない必然性があるか」
ということを、じっくり考えて頂ければ、と思います。
「いつ買うの?今でしょ」というノリに対しては、「そもそも、いつまでも買わないという選択肢がある」ことを忘れないで下さい。
そして、ホリエモンおすすめは「普通に定期預金」であることを覚えておかれたほうがいい、と思います。
その他でも、
「金持ちってなろうと思ってなれるもんじゃない気がする。お金持ちというのは、あくまで結果。」
「『文系だから知りません、できません』というのは単なる言い訳。」
などなど、本当にそうだなあ、と思う記述がたくさんでした。
村上英樹(弁護士、神戸シーサイド法律事務所)
「舟を編む」(三浦しをんさん著) [読書するなり!]
久しぶりに、読書感想文です。
この本、カバーがいいです。
辞書風のカバー。
内容は、新しい国語辞典を編纂するために心血を注いだ人たちの物語。
「舟」とは国語辞典(「大渡海」という辞書のタイトル)のことです。
うわ、地味ー、という声が聞えてきそうですが、辞書を作る人たちの熱い心や笑える日常がコメディタッチで描かれている、笑いあり感動ありの小説です。
それますが、「大渡海」という辞書のタイトルも素敵です。
数学の参考書も、私は、「チャート式」(チャートは「海図」の意味)が大のお気に入り(というか、チャート式が数学勉強のほぼ全て)でした。
海、舟にちなんでいるのがいい。「世界に漕ぎだそう」という積極的な気持ちになります。
この小説、映画化されます。間もなく公開で、主演は松田龍平さんや宮﨑あおいさん。GWあたりに観に行こうと思っています。
私も、家庭の事情で、今年何十年かぶりに国語辞典を買いました。
三省堂「新明解国語辞典」ですが、この辞典は知る人ぞ知る、面白い解説オンパレードの大変「癖のある」辞典です。
この小説中でも紹介されますが、新明解の「恋愛」などは面白く、「特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情を抱き、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念を生じれば不安になるといった状態に身を置くこと。」(確かこれは第7版。版によって多少違いあります。)とあります。
辞書って面白いものだなあ、と思っていた矢先に、この小説の存在を知り買って読むに至ったのでした。
言葉への扱いは、時代の進歩、特にネット社会の進歩のせいで、一般にはどんどん「軽く」なっている感じは否めません。
が、一方で、言葉に対して物凄く思い入れのある人が活き続けている(小説中にも、現実の中にも)ことは、なんだかほっとさせられます。
対して、私の仕事の日常。特に、「裁判」の場では、結構、「言葉」にとっては無慈悲な場面が多いです。
つまり、ぴったりくる「言葉」を選びに選んだとしても、「そんなの関係ねえ」(もう古いですか…)とバッサリ斬られてしまう場面が非常に多く、言葉に対するみずみずしい感性を持ちつつ仕事をすれば、心痛むことがしょっちゅうです。
それでも!言葉を使って仕事をする私は、言葉にとって無慈悲な現実のなかで感性を殺すことなく、やはり、丁寧に、よりふさわしい言葉を選ぶ存在でありたい、とこの本を読んで思いました。
村上英樹(弁護士、神戸シーサイド法律事務所)