「翔ぶが如く」 [読書するなり!]
通勤電車で長いこと読んでいた本。
やっと全巻読み終わりました。
文庫本でも、小説などは、軽いタッチのものであれば、あっという間に読み終わってしまいます。
マメに図書館で借りるなどはせず、古本でもなく、新品で買ってしまうことが多い私にとっては、例えば、大阪-神戸間を1往復したら読み終わってしまう本などはコストパフォーマンスが余りに悪くなります。
その点、司馬遼太郎作品は素晴らしい。
内容が濃いので、なかなか進みません。時には、その「進まない具合」こそが作品の表現だったりします(「坂の上の雲」に描かれる、日露戦争でのロシア・バルチック艦隊の長い長い航海など)。
さて、「翔ぶが如く」は明治初期、西南戦争前後を描いた歴史小説ですが歴史の中で、乱を起こして敗れた者が、いかにして乱を起こすに至り、敗れることが必至となった後どのような心境で居たのか、あたりに迫る記述を読むと色々考えさせられるものがありました。
ゲーム感覚でいえば、「負け戦をしたり、負け戦に乗ったりするのは愚かだ」という発想もあるでしょう。
これだけだと功利主義的ですが、私はさらに、「自分の思う理想を実現する」観点から考えても「負けたら、死んだら終わりでは?」という発想が強く、「志が高いならば尚のこと、負け戦はいけない」と思ってきました。
この本を読んだ後も、この考えそのものには変わりはありません。
しかし、大人になって分かってきましたが、「自分の存在」というのも、空を自由に飛び回るような自由な存在であることは難しい。
家族、同僚、上司、部下…との関係などは大人になれば誰でもできるもの。
それが特別な力を持った人になると、「自分の存在」に対して、時代の中に存在する何らかの「価値観」なども乗っかかってくる。
そういう中で、単なるヒロイズムで軽率にも立ち上がった、というのではなく、西郷のように、宿命に身を委ねるようにして「乱」に至る、ということの有り様を感じることができました。
なので、「負け戦」を買って出たように見えた人にも、「彼なりの理由」がある、それを抜きに「単に愚か」という見方は表面的過ぎる、と思えます。
そして、司馬遼太郎作品の素晴らしいところは、「この人にとっては、○○の事態に至ったのにこういう理由がある。」「この人の置かれた立場や、それまでの発想からは、無理もない。」というところが掘り下げられているのと、それでいて、一方で冷静に「客観的には、無邪気な楽観に過ぎなかった。」という感じで分析されているというのが両立しているところだと思っています。
要するに、「宿命に従って散る」というのを美化することもないところが好きです。
もっといえば、司馬遼太郎作品に出てくる、「この人は大人物なのに、こういうところが残念だなあ。」という記述が好きです。
大人物にも大概「決定的にダメなところ」がある、というのが、司馬遼太郎作品を読むと、実にはっきりと書かれています。
人間ってそういうものだよね、むしろ何かに突出する人間はアンバランスなことの方が多いよね、と思うと、かえって人は愛すべきもの、と感じられます。
ただ、それでもやはり、大人物であればあるほど、歴史の流れの中で自分の立ち位置や進み方はとてつもなく大きな力でもって制約されるものだろうけど、その中でこそ抗って、自分の自由な意思や、理性的に考えたときに「これが正しい」と思えることを貫く、そういう風になれないものか、そうあって欲しいものだが、と思わずにおられません。
歴史小説を読むと、やっぱり、いつもそんな風に考えてしまいます。
歴史にifがあれば、あるいは、歴史上の人物ももう一度「分岐点」に戻れれば、また違った判断ができたことも沢山あるのでしょうね。
歴史小説は、読者の年齢や経験相応に色んなことを教えてくれます。それなので、間を置いて、未だ読んでいない大作を読んでみたいと思っています。
弁護士 村上英樹(神戸シーサイド法律事務所)
やっと全巻読み終わりました。
文庫本でも、小説などは、軽いタッチのものであれば、あっという間に読み終わってしまいます。
マメに図書館で借りるなどはせず、古本でもなく、新品で買ってしまうことが多い私にとっては、例えば、大阪-神戸間を1往復したら読み終わってしまう本などはコストパフォーマンスが余りに悪くなります。
その点、司馬遼太郎作品は素晴らしい。
内容が濃いので、なかなか進みません。時には、その「進まない具合」こそが作品の表現だったりします(「坂の上の雲」に描かれる、日露戦争でのロシア・バルチック艦隊の長い長い航海など)。
さて、「翔ぶが如く」は明治初期、西南戦争前後を描いた歴史小説ですが歴史の中で、乱を起こして敗れた者が、いかにして乱を起こすに至り、敗れることが必至となった後どのような心境で居たのか、あたりに迫る記述を読むと色々考えさせられるものがありました。
ゲーム感覚でいえば、「負け戦をしたり、負け戦に乗ったりするのは愚かだ」という発想もあるでしょう。
これだけだと功利主義的ですが、私はさらに、「自分の思う理想を実現する」観点から考えても「負けたら、死んだら終わりでは?」という発想が強く、「志が高いならば尚のこと、負け戦はいけない」と思ってきました。
この本を読んだ後も、この考えそのものには変わりはありません。
しかし、大人になって分かってきましたが、「自分の存在」というのも、空を自由に飛び回るような自由な存在であることは難しい。
家族、同僚、上司、部下…との関係などは大人になれば誰でもできるもの。
それが特別な力を持った人になると、「自分の存在」に対して、時代の中に存在する何らかの「価値観」なども乗っかかってくる。
そういう中で、単なるヒロイズムで軽率にも立ち上がった、というのではなく、西郷のように、宿命に身を委ねるようにして「乱」に至る、ということの有り様を感じることができました。
なので、「負け戦」を買って出たように見えた人にも、「彼なりの理由」がある、それを抜きに「単に愚か」という見方は表面的過ぎる、と思えます。
そして、司馬遼太郎作品の素晴らしいところは、「この人にとっては、○○の事態に至ったのにこういう理由がある。」「この人の置かれた立場や、それまでの発想からは、無理もない。」というところが掘り下げられているのと、それでいて、一方で冷静に「客観的には、無邪気な楽観に過ぎなかった。」という感じで分析されているというのが両立しているところだと思っています。
要するに、「宿命に従って散る」というのを美化することもないところが好きです。
もっといえば、司馬遼太郎作品に出てくる、「この人は大人物なのに、こういうところが残念だなあ。」という記述が好きです。
大人物にも大概「決定的にダメなところ」がある、というのが、司馬遼太郎作品を読むと、実にはっきりと書かれています。
人間ってそういうものだよね、むしろ何かに突出する人間はアンバランスなことの方が多いよね、と思うと、かえって人は愛すべきもの、と感じられます。
ただ、それでもやはり、大人物であればあるほど、歴史の流れの中で自分の立ち位置や進み方はとてつもなく大きな力でもって制約されるものだろうけど、その中でこそ抗って、自分の自由な意思や、理性的に考えたときに「これが正しい」と思えることを貫く、そういう風になれないものか、そうあって欲しいものだが、と思わずにおられません。
歴史小説を読むと、やっぱり、いつもそんな風に考えてしまいます。
歴史にifがあれば、あるいは、歴史上の人物ももう一度「分岐点」に戻れれば、また違った判断ができたことも沢山あるのでしょうね。
歴史小説は、読者の年齢や経験相応に色んなことを教えてくれます。それなので、間を置いて、未だ読んでいない大作を読んでみたいと思っています。
弁護士 村上英樹(神戸シーサイド法律事務所)
2016-03-15 18:37
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