たけしの挑戦状!?~「新しい道徳」(北野武著)を読んでいます。 [読書するなり!]
ビートたけしこと北野武さんの著書を読んでいます。
モラルの低下→道徳教育の強化 といわれる流れの中で、武さんには「言いたいことがある!」ということで書かれた著書のようです。
「はじめに」によれば、
(引用)
結局、いいたいことはひとつなんだから。
「道徳がどうのこうのという人間は、信用しちゃいけない」
(引用終わり)
道徳の教科書にしても、子どもに道徳を説く大人にしても、「道徳をどうのこうの」いう立場の側がちゃんと道徳というものを自分のものにせずに「どうのこうの」言っているのではないか、という鋭い問題提起がなされています。
その意味で、「道徳をどうのこうの」というのに対する「たけしの挑戦状」と言って良いのかも知れません。
武さんの、一見不真面目に見える語り口調の中に、通り一遍の「道徳」のうさんくささをえぐる鋭さ、(逆説的ですが)真剣さが伝わる本で、とても読み応えがありました。
さて、話はそれますが、弁護士が、というより私が「道徳」という言葉を出すときは多くはこんな文脈でした。
特にもっと若い頃はこんな言い方をしょっちゅうしていました。
「それは道徳の問題にすぎません。」
ああ、何てモノの言いようでしょう。
「道徳」「の問題に過ぎません」なんて。
このモノの言い方自体が「不道徳」な感じで、うんざりします。
ただ、(表現はともかくとして意味としては)こういう言い方をせざるを得ないケースが実はしばしばあるのです。
つまり、弁護士が受ける相談事の中には、相談者の側も、法律問題かどうか区別がついていない、いや、区別がつかないからこそ弁護士にアドバイスを求めている(弁護士が扱えることかどうかも含めて)ことがあるのです。
これは当然のことです。
ですので、
「Aさんからカクカクシカジカのことで大変な迷惑を被っている。
こんなAさんの振る舞いはけしからんでしょう?
Aさんに対して、弁護士が入って、何とかできないものか。」
という相談をされることがありますが、時として、
「なるほど、『けしからん』というのはそう言えるかも知れません。
しかし、それは道徳の問題に過ぎません。
つまり、犯罪になるとか、法律に違反するとか、そういうことにはならないので、法律的にAさんに対して何か出来る手段があるわけではありません。
弁護士は、法律問題には入ることができますが、道徳の問題のような、人の心の持ちようの問題に介入することはできません。」
という回答になることがあります。
例として言えば、「娘(息子)が、父親(母親)に対して、親を親とも思わない態度を取り続ける。それを弁護士が入って改めさせることができないか。」というような話ですね。
しかし、
「弁護士ってひどい。『道徳の問題に過ぎません』だって!」
という声が聞こえてきそうです。
道徳というのは、答えが一つではありません。
たけしさんの「新しい道徳」によれば
(引用 「帯」部分)
時代を作る人は、いつだって古い道徳を打ち壊してきた。誰かに押しつけられた道徳ではなく、自分なりの道徳で生きた方がよほど格好いい。
自分なりの道徳とはつまり、自分がどう生きるかという原則だ。
今の大人たちの性根が据わっていないのは、道徳を人まかせにしているからだ。それは、自分の人生を人まかせにするってことだと思う。
(引用終わり)
とのことです。
つまり、道徳は、時代によって、集団によって、また人によって、結局は多様なわけで、画一的なものではない。
人間生活にとって道徳が大切なものには違いないのですが、日本国どこでも誰にでも適用される法律(ルール)と違って「イヤでも守らせる」ということができるわけではないのです。
つまり、道徳は、それぞれの人の心の領域でそこに(弁護士などは)踏み込めないわけです。
なので、
「道徳の問題に過ぎません」
と言わずに、
「それは道徳の問題であって、弁護士などは恐れ多くてそこにタッチする事が出来ません」
と言うべきかも知れません。
そしたら、「弁護士はひどい」とはならないかも知れません。
解説すると、「道徳の問題に過ぎません」という弁護士の言葉は、問題解決のための「強制力」を念頭に置いています。
問題解決の専門家としての表現とすれば、「道徳の問題に過ぎません」となるのです。
法律の問題 → (最終的には)強制的に解決しえる(自力で解決可能)
道徳の問題 →強制的に解決出来ない(つまり他人次第)
ゆえに
実際に弁護士が解決出来る課題か?と尺度で言えば、いうまでもなく、
法律の問題 > 道徳の問題
となるからです。
弁護士になって日が浅かった頃の私は、「自分は問題解決のプロだ」なんて思ってつい「道徳の問題に過ぎません」と言っていたのです(いや今も時々言っているかもしれません)。
いやはや、それにしても、聞き手がどう取るかもよく考えて、モノの言い方に気をつけましょう!というものです(反省こめて)。
なので、こういう風に丁寧に説明したいものです。↓
「なるほど、あなたがそれを苦痛に感じることは想像出来ます。
道徳的にAさんの行動は非常に良くないと言うのが常識的な見方でしょう。
ただ、あくまで道徳的な問題となれば、それは人の心の持ちようの問題ですから、法律によって解決するのは難しいですね。
なので、弁護士が介入することは適さない事案と言うことにならざるを得ません。」
これならOKでしょうか?
しかし、法と道徳との区別というのは重要なものですが、案外やっかいなものです。
例えば、
A 道徳のような内容を、やたらと法律や条例に盛り込もうとしたがる人もいる。
(だって、自分の信じる道徳はいいものだ、と強く思うものですから。こういう気持ちになる人の心の動きも分からないではない。でも、心の領域に強制力を働かせることは本当は怖いことだと思います。)
そうかと思えば、
B 法律さえ守れば後は何だって良い、文句を言うやつがおかしい、という人もいる。
(これが高じて、「文句を言うやつ」のほうが道徳的にも間違っているかのような言い方をする人もいる。)
さらには、なぜか、上のAとBを両方兼ね備えた人もいる(矛盾してない?と思いますが、何かしら矛盾があるのが人間なのでしょう。それにしても…)。
たけしさんも「道徳などいらん!」などとは言っていません。
先にも引用したように、道徳は自分で大切に育てるもの、ということなのです。
法は法の領域で働き(つまり弁護士は自分の守備範囲をがっちりと守り)、人々が生命・身体・財産を脅かされる恐怖から解放されて、自分なりの生き方をつくっていく(この際の原則がたけしさんのいう「道徳」)ことができる環境整備をするというものなのです。
というわけで、この環境整備の一助となるべく私もがんばっていこうということで、本稿を締めたいと思います。
弁護士 村上英樹(神戸シーサイド法律事務所)
モラルの低下→道徳教育の強化 といわれる流れの中で、武さんには「言いたいことがある!」ということで書かれた著書のようです。
「はじめに」によれば、
(引用)
結局、いいたいことはひとつなんだから。
「道徳がどうのこうのという人間は、信用しちゃいけない」
(引用終わり)
道徳の教科書にしても、子どもに道徳を説く大人にしても、「道徳をどうのこうの」いう立場の側がちゃんと道徳というものを自分のものにせずに「どうのこうの」言っているのではないか、という鋭い問題提起がなされています。
その意味で、「道徳をどうのこうの」というのに対する「たけしの挑戦状」と言って良いのかも知れません。
武さんの、一見不真面目に見える語り口調の中に、通り一遍の「道徳」のうさんくささをえぐる鋭さ、(逆説的ですが)真剣さが伝わる本で、とても読み応えがありました。
さて、話はそれますが、弁護士が、というより私が「道徳」という言葉を出すときは多くはこんな文脈でした。
特にもっと若い頃はこんな言い方をしょっちゅうしていました。
「それは道徳の問題にすぎません。」
ああ、何てモノの言いようでしょう。
「道徳」「の問題に過ぎません」なんて。
このモノの言い方自体が「不道徳」な感じで、うんざりします。
ただ、(表現はともかくとして意味としては)こういう言い方をせざるを得ないケースが実はしばしばあるのです。
つまり、弁護士が受ける相談事の中には、相談者の側も、法律問題かどうか区別がついていない、いや、区別がつかないからこそ弁護士にアドバイスを求めている(弁護士が扱えることかどうかも含めて)ことがあるのです。
これは当然のことです。
ですので、
「Aさんからカクカクシカジカのことで大変な迷惑を被っている。
こんなAさんの振る舞いはけしからんでしょう?
Aさんに対して、弁護士が入って、何とかできないものか。」
という相談をされることがありますが、時として、
「なるほど、『けしからん』というのはそう言えるかも知れません。
しかし、それは道徳の問題に過ぎません。
つまり、犯罪になるとか、法律に違反するとか、そういうことにはならないので、法律的にAさんに対して何か出来る手段があるわけではありません。
弁護士は、法律問題には入ることができますが、道徳の問題のような、人の心の持ちようの問題に介入することはできません。」
という回答になることがあります。
例として言えば、「娘(息子)が、父親(母親)に対して、親を親とも思わない態度を取り続ける。それを弁護士が入って改めさせることができないか。」というような話ですね。
しかし、
「弁護士ってひどい。『道徳の問題に過ぎません』だって!」
という声が聞こえてきそうです。
道徳というのは、答えが一つではありません。
たけしさんの「新しい道徳」によれば
(引用 「帯」部分)
時代を作る人は、いつだって古い道徳を打ち壊してきた。誰かに押しつけられた道徳ではなく、自分なりの道徳で生きた方がよほど格好いい。
自分なりの道徳とはつまり、自分がどう生きるかという原則だ。
今の大人たちの性根が据わっていないのは、道徳を人まかせにしているからだ。それは、自分の人生を人まかせにするってことだと思う。
(引用終わり)
とのことです。
つまり、道徳は、時代によって、集団によって、また人によって、結局は多様なわけで、画一的なものではない。
人間生活にとって道徳が大切なものには違いないのですが、日本国どこでも誰にでも適用される法律(ルール)と違って「イヤでも守らせる」ということができるわけではないのです。
つまり、道徳は、それぞれの人の心の領域でそこに(弁護士などは)踏み込めないわけです。
なので、
「道徳の問題に過ぎません」
と言わずに、
「それは道徳の問題であって、弁護士などは恐れ多くてそこにタッチする事が出来ません」
と言うべきかも知れません。
そしたら、「弁護士はひどい」とはならないかも知れません。
解説すると、「道徳の問題に過ぎません」という弁護士の言葉は、問題解決のための「強制力」を念頭に置いています。
問題解決の専門家としての表現とすれば、「道徳の問題に過ぎません」となるのです。
法律の問題 → (最終的には)強制的に解決しえる(自力で解決可能)
道徳の問題 →強制的に解決出来ない(つまり他人次第)
ゆえに
実際に弁護士が解決出来る課題か?と尺度で言えば、いうまでもなく、
法律の問題 > 道徳の問題
となるからです。
弁護士になって日が浅かった頃の私は、「自分は問題解決のプロだ」なんて思ってつい「道徳の問題に過ぎません」と言っていたのです(いや今も時々言っているかもしれません)。
いやはや、それにしても、聞き手がどう取るかもよく考えて、モノの言い方に気をつけましょう!というものです(反省こめて)。
なので、こういう風に丁寧に説明したいものです。↓
「なるほど、あなたがそれを苦痛に感じることは想像出来ます。
道徳的にAさんの行動は非常に良くないと言うのが常識的な見方でしょう。
ただ、あくまで道徳的な問題となれば、それは人の心の持ちようの問題ですから、法律によって解決するのは難しいですね。
なので、弁護士が介入することは適さない事案と言うことにならざるを得ません。」
これならOKでしょうか?
しかし、法と道徳との区別というのは重要なものですが、案外やっかいなものです。
例えば、
A 道徳のような内容を、やたらと法律や条例に盛り込もうとしたがる人もいる。
(だって、自分の信じる道徳はいいものだ、と強く思うものですから。こういう気持ちになる人の心の動きも分からないではない。でも、心の領域に強制力を働かせることは本当は怖いことだと思います。)
そうかと思えば、
B 法律さえ守れば後は何だって良い、文句を言うやつがおかしい、という人もいる。
(これが高じて、「文句を言うやつ」のほうが道徳的にも間違っているかのような言い方をする人もいる。)
さらには、なぜか、上のAとBを両方兼ね備えた人もいる(矛盾してない?と思いますが、何かしら矛盾があるのが人間なのでしょう。それにしても…)。
たけしさんも「道徳などいらん!」などとは言っていません。
先にも引用したように、道徳は自分で大切に育てるもの、ということなのです。
法は法の領域で働き(つまり弁護士は自分の守備範囲をがっちりと守り)、人々が生命・身体・財産を脅かされる恐怖から解放されて、自分なりの生き方をつくっていく(この際の原則がたけしさんのいう「道徳」)ことができる環境整備をするというものなのです。
というわけで、この環境整備の一助となるべく私もがんばっていこうということで、本稿を締めたいと思います。
弁護士 村上英樹(神戸シーサイド法律事務所)
2015-10-22 19:22
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コメント(4)
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きちんと整理された文で感心しました。
うちは日頃からこういうのを書いています。
「保守派」や道徳宗教右翼(うちの造語)による人権侵害を問題にしてきました。
これらの方は他律が強いのです。
まさしくこの記事で取り上げられている道徳のような内容を、やたらと法律や条例に盛り込もうとしたがる人もこの中に入ります。
他律でなく自律(同調圧力がない状態で)
強制でなく共生と思います。
by ayu15 (2015-10-23 11:29)
ayuさん
ナイス・コメントありがとうございます。
少年事件などの場面で大切になってくるのが、
他に流されないようにする
ということだったりします。
そうすると、協調性も育てながら、間違ったことには頑として協調しない、という心を育てなければならないのですが、それじゃ、「大人はそれが出来ていますか?」という問いにぶつかったりします。
なので、ayuさんの言われるように、ちゃんと「自律」にならなければならない、というのですが、これは法律に書き込んだからと言ってできるものではなく、より丁寧な働きかけが必要だと思います。
by hm (2015-10-26 09:05)
心如さん shiraさん
ナイスありがとうございます。
by hm (2015-10-26 09:05)
拙ブログへの御訪問、ありがとうございます。
とても奥深いブログ記事ですね。
今まで道徳に無関心でしたが、法律(特に民事訴訟法)や道徳について知識を深めたいと思います。
by yogawa隼 (2015-11-10 17:01)