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トランプ氏銃撃事件に思うこと [時事ニュースから]

 中学生のころ、長崎市長の本島等さんが銃撃される事件があって、それでも自分の発言を曲げない姿が報じられた。
 まだ、私は、事の恐ろしさが分かってなくて、暴力に屈しないということを単純にカッコいい、見習うべきと、それを人が見習える種類のことかどうかも考えず、そう思っていた。
 全然、分かってなかった。

 今になって、安倍元首相にしても、トランプ氏にしても、本当に恐ろしいことが起こった。
 生死は紙一重で、政治家とはいえ、人がなんでそんな目に遭わなければならないのか、とにかく恐ろしいことだと思う。
 トランプ氏の銃撃直後の写真が、歴史上かつてなく勇ましい絵だとか言われているが、私はただただ酷い話だとしか思わない。

 昼のワイドショーの記者が語っていた話では、当のトランプ氏も、今までと全く様子が違うらしい。本当に助けられた命だ、と表情も言葉も、もう今までのトランプ氏と全然違う、と。
 あのトランプ氏だって、生身の人間だから、物理的に無理な状況なら死ぬわけで、本当に大変な目に遭ったダメージは他の人と変わらない。
 命あって良かった(いや聴衆は亡くなっているから良くないが、トランプ氏に焦点を当てるならの話)し、無理なく回復に努めて欲しいとしか思えない。

 それこそ、変に神格化して見るのでなく、トランプ氏として、こんなことがなければ本来やりたかったことが出来るだけ予定通りに近くやれたらいいのだが、とだけ思う。

 命を賭して演台に上がらないといけないというなら、私なら絶対に上がらないし、誰にも上るように勧められない。
 上がる人を偉いとも言うことも控えないといけないと思う。

 警備ももちろん限界があり完璧はないが、物理的に防ぐことと、人がこういう暴力に至りにくくなるようこういう暴力を無力化する(暴力と闘うイメージでなく無力化)ためどうすれば良いのかを考える必要がある。
 
 物理的には、もうスピーカーは結界のような、透明な防弾ガラスで守られなければならないのかな。
 
 暴力を無力化という意味では、特効薬はない。
 ガンジーのような辛抱強さで対抗するしかない。
 被害者であるトランプ氏を十分にケアしつつ、この選挙をできるだけ予定通りに近く行うこと、両陣営とも本来伝えたい政策、価値観をちゃんと伝えるべく選挙活動をし、民主主義を健全に機能させること、それを国民と他国の民も応援すること、ただそれあるのみ、と思う。

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PayPayなど手数料有料化(10月1日から) [時事ニュースから]

 近年はキャッシュレス決済が普及しています。

 クレジットカード決済のほかに、PayPayなどのQRコード決済も特に最近は利用する人が増えました。PayPay利用可能の表示をしている飲食店も多くなりました。
 私は、「お金を払っている」というリアルの実感がなくなることが怖い気がするので、キャッシュレスには大変抵抗がありました。
 なので、カードもPayPayもあまり使わなかったのですが、さすがに去年のコロナをきっかけに、割と使うようになりました。
 freeeなど会計ソフトとの連携という意味でも、カード決済や、それと繋がったPayPayのほうが後々便利でもあります。

 クレジットカード決済の場合、店舗は業種や規模によっておおよそ1~5%の手数料を支払うことが多いのですが、2021年9月までは、PayPayなどのQRコード決済では手数料はかかりませんでした。

 ところが、10月1日から、主なQRコード決済の事業者(PayPayのほか、LINE Pay、d払い、auPAY、メルペイ、楽天ペイ)はそろって手数料有料化がなされています。
 手数料は2%前後、加盟店(店舗)が負担することになりました。
 これまではQRコード決済を普及するために手数料無料としていた決済業者が、有料化してこれまで投下した費用を回収していこう、という段階に入ったということになります。

 この手数料はカード決済手数料よりは安いのですが、喫茶店など小規模の店舗からすれば、2%前後といえども負担感があります。
 売上に占める利益の割合がもともと小さい、キャッシュレス決済になったからといって現金決済よりも労働力が削減できるわけでもない、となると負担感はあります。
 実はQRコード決済を導入していること自体、あまり乗り気ではないが、時代の流れに合わせて仕方なく、というケースも多くあります。
 
 では、QRコード決済の手数料を客に負担させることができるでしょうか?

 店舗からすれば、たとえば「現金なら1000円、QRコード決済の場合は20円の手数料をいただきます」ということができないだろうか?という発想が出てきます。
 しかし、これは多くの場合QRコード決済業者との間の加盟店規約で禁止されています。
 例えば、PayPay加盟店規約(2021年9月25日現在)では次のように定められています。

(PayPay加盟店規約抜粋)
第18条 禁止事項
1 加盟店は、以下の行為(商品等の提供が以下の行為に該当する場合を含みます。)を行ってはならないものとします。

⑴  正当な理由なく利用者とのPayPay残高取引を拒絶したり、現金その他の支払手段による決済を要求したり、現金その他の支払手段による場合と異なる代価を請求する等、PayPay残高取引によらない一般の顧客よりも不利となる差別的な取扱いをする行為

 要するに、PayPay払いを希望する客に対してそれを拒むことはできないし、現金払いよりも高い料金にすることや、商品代金のほかにPayPay払いの手数料を加えて支払いを求めることはできない、ということになります。

 これはクレジットカード払いの場合も同様で、通常カード会社との加盟店規約によって、加盟店が「カード会員に、追加料金を請求したり、価格を上乗せしたりすること」を禁止する規定などがおかれています。
 
 もともとは「手数料無料だから」ということで、QRコード決済を導入した店舗としては、10月からの手数料有料化は、店舗自身の負担が増えるので痛手になるというわけです。
 現金払いと別の値段設定もできないとすれば、店舗自身が手数料分の経費増を受け入れるか、または、商品代金そのものを(現金かQRコード決済かに関わらず)値上げして客に負担を転嫁するか、という選択になります。

 確かに、いつまでもQRコード決済業者としては赤字で無料サービスを提供していくことはできません。ある程度普及が進めば有料化するのは、本来の姿ではあります。
 ただ、コロナの影響が長く続き、店舗としても、特に飲食店などは入店数を減らした営業をまだまだ続けなければならない今、このタイミングでの手数料有料化は経済的負担だけでなく精神的にも大きな負担になるケースは多いはずです。
 
 有料化それ自体は仕方ないとしても、QRコード決済業者が、加盟店の情報発信や、クーポンを企画するなどして、店舗の集客を支援することにより付加価値を提供していく展開が期待されるところです。
 

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喋りのSNS Clubhouse [時事ニュースから]

 最近急に流行しだしたSNS Clubhouseのアカウントを今日作りました。
 
 誰かが「部屋」を作って、公開の部屋であればそこに誰でも集まれる。
 しゃべれるのは部屋主が発言を許した者だけだが、見知らぬ人とでも例えば「AI」「コロナ」とか一つのテーマで話ができる。
 また、気になる人の部屋に入ると、普段、話を聞けないような人の「雑談」を聞ける。

 例えば、このブログを書きながら、乙武洋匡さんと松尾豊教授(AI)、メンタリストDaigoの話を聞いています。
 TV番組ならばTV向けのトークになるところ、制限時間もなく雑談している内容を聞けるのはとても面白い。

 思えば、コロナによって、人同士が会ってしゃべるということが封じられてしまっています。
 そんな時代だからこそ、このSNSが流行る素地があるのだな、と思います。

 私は、

「企業のDX(デジタルトランスメーション)担当者」の雑談部屋

「争族」にならない相続

日本の政治を活き活きとしたものにする方法

オードリータン(台湾IT担当相)のような人を育てる社会の作り方(日本の教育など)

神戸を盛り上げる

というようなテーマで色んな人と話してみたい、と思っています。

 もし、読者の皆様もClubhouseで私を見つけてくださったときは、どうぞよろしくお願いします。
 
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コロナで変わったこと~その6(終) リセット・リスタート [時事ニュースから]

 コロナで変わったことシリーズ、今回でいったん最終回です。


6 リセット・リスタート
 
 これまで前5回で書いた通り、コロナ禍は本当に「禍」だ。
 コロナに対する人類の対応、日本社会の対応が正しかったのかどうかは、少し時間が経ってからみなければ分からないだろう。
 それでも政府、医療の専門家、その他それぞれの立場で真剣に考えて、懸命に対応している。そして、国民も多数がベストと信じる対策を取っている。それは間違いないと思う。
 正直に言って、マスク生活、大声を控える生活、人との接触が推奨されない生活は、人間社会本来の喜びとか活力を削ぐものであり、本当に「禍」である、一刻も早く終わりにしたい、と私は強く思う。
 ただ、コロナがやってきて色んなことがストップした。
 このことを良い意味での「リセット」「リスタート」とのきっかけにすることで、また、新たな人と人との交わりをより充実したものとして再構築する、そう考えていきたいと思う。

 まず、コロナ前の私の状態はこうだった。
 
 家庭
 親戚
 職場(法律事務所)
 職業団体(弁護士会)
 奉仕団体(ロータリークラブ)
 ビジネス交流会 いくつか
 研究会勉強会 いくつか
 趣味の集まり(野球、ゴルフ、囲碁、俳句)
 同窓の集まり
 
 これらの集団に属していて、週に4~6つは何らかの集まりがあった。
 飲み会も多く、日によっては、「人と会う」用事がダブルヘッダーである日もあった。

 そんなに「外に出ていく」必要があるか?
 本当に自分が活動、ビジネスや研究で「繋がりたい」少数の人とだけ会えばよいのでは?

というのはもっともだが、人と人との関係性の発展とか、その人が何を持っているか、については意外性だらけだ。

 つまり、多くの人が「会ってみなければわからない」し、何の集まりも「行ってみなければわからない」ことが多い。
 どこに宝物のような出会いがあるか分からない。
 これは本当にそうだ。
 「何か気乗りしないなあ」と思いながら足を運んだ場所で、かけがえのない友に出会えたりすることがある。
 たとえば、去年は、どんなところかよく知らず参加したビジネス交流会がきっかけで、マレーシアに視察ツアーに行くことになり自分の視野が広がった経験がある。その交流会自体は退会してしまったが、これも「一度行ってみなければ何もなかった」の例だ。

 ただ、「外に出て人に会う」ということには次の段階があり、段階によって取捨が必要になる。

(1) まず一度行ってみる。人に会ってみる。
(2) 接触頻度を増やす。
(3) 習慣的に集まりに参加する。

 あらゆる可能性を広げる、という意味では(1)がスタートライン。
 そして(2)人と接触頻度を増やすことによって、親密度が上がり、なかなか他人には言わないような情報を得ることができるようになる。
 そのままの流れでいくと(3)習慣的に何らかの集まりに参加し続けるようになる。
 ここの(3)のあたりが曲者で、自分にとって本当に必要かどうかの見極めが大切になる。
 だが、多くは「人付き合い」であり、そんなに意味がないなあと思い出してからも断ち切れないことが多い。

 また、奉仕団体、経営者団体など集まりとしては質の高いものでも、会合・懇親会の在り方が伝統的に必要以上に時間がかかるものであったり、儀礼的・形式的なものであることも多い。

 そんなわけで、コロナ前は、

・ 自分にとって意味合いが薄くなっていると思うものの参加せざるを得ない予定
・ 参加者の多くが、それほど意味を感じていないであろう予定

がかなりあったのが事実だ。
 
 Time is lifeだ。時間は命そのものだ。
 Time is moneyという言葉があるが、私は、時間は金(交換価値)ではなくて、命そのものだと思う。
 だから、自分の時間=命の使い方として、人々との集まりに長時間を費やすことについて、整理をしなければならないということを課題に感じていた。
 きっと、多くの社会人が似たような状態にあっただろう。

 それに、私が嫌いなものの一つが「だらだら飲み」だった。
 少しの酒は打ち解けるに有効だが、それが過ぎるとグダグダ、だらだらになり時間だけが過ぎて、お互いが得るもの、与えるものが少なくなり、内臓に負担をかけるだけになり、そして翌日のパフォーマンスにまで影響を及ぼす。
 これは何とかならないものか、とずっと思っていた。

 そこにコロナが来た。
 最初、3月に各種集まりが中止になったとき、私は4月の事務所移籍に伴う引っ越し準備で忙しかったので、正直この1か月集まりが中止になるのは助かる、とだけ思っていた。
 だがコロナは拡大し、4月以降、本格的に人と会えない社会になった。

 そこで、会合の類はいったんストップした。
 6月以降、再開したもの、再開しなかったものがある。

 みんなが余り意味がないと思っていそうな集まりの多くは再開しなかった。
 つまり、コロナは各種会合を「ふるい」にかける働きをした。
 この作用そのものはプラスだっただろう。
 もちろん、会合の会場であるとか食事を提供する事業者(ホテル、飲食店など)に大いに打撃を与えることになったので、そのことを考えると複雑な気持ちはある。
 
 けれども、自分も社会も、ついつい散らかって整理がつかなくなっていた、そして、無理して内臓を酷使して人付き合いをしていた、こんな状態をコロナがいったんリセットしてくれたことは、チャンスと捉えたい。

 これからは、外へ出ての人付き合いも、

・ 本当に好きな人との時間
・ 本当に自分が学べるものを持っている人との時間

を見極めて、絞り込んで密度、充実度を上げること。

 また、「だらだら飲み」をやめて、お互い有意義な情報交換、意見交換をする。
 その意味でも密度を上げる。

 やはりTime is life だ。
 その時間あたりで、お互いが得るものの多い人付き合いを心掛ける。
 そして、相手の「その他の時間」を思いやって、ぎゅっと凝縮した良い時間を過ごしたら、サッと解散する。(もちろんよっぽど好きなら長く一緒に居たらいい。)
 
 コロナは憎い。
 だが、「リセット」は意識的にしようと思っても相当難しい。
 だから人の集まりが「リセット」されたせっかくのチャンスを活かして、互いが、自分の時間と相手の時間を最大限尊重する付き合い方、集まり方を再構築する、そんな「リスタート」を切るべきだ。 

 私は5,6年前から積極的に事務所の外に出て人に会うようになった。
 なぜか。
 その目的は2つある。
 一つは、色んな立場(サラリーマン、会社経営、学生、高齢者)の人、色んな業種の人が、どのような考えや感覚を持って生きているのかをもっと知るべきだと思ったこと。
 これを知ることによって自分の弁護士としての仕事をするときの感覚、考え方をよりブラッシュアップしたいという目的。
 もう一つは、弁護士として15年(5,6年前)色んな事件を扱ってきて身に着けたスキルがある存在として人に会い、自分が人の役に立てる場がどこにあるかを知りたいということ。
 いわば、マーケティング的な目的だ。
 この2つの目的から、家や事務所にとどまらず、体力の許す限り人に会おう、そして学ぼうと思った。今も基本的にそれは変わっていない。
 変わっていないが、コロナをきっかけに自分の中で第二ステージに入った。
 
 コロナで中断した会合、集まりを、各プレーヤーが今度はどうやって再開するか?という段階が続いている。
 zoomを使うか、リアルでやるか、時間は?会場は?

 ここで、Time is lifeと考える同志よ、立ち上がろう!
 家族、健康、その他の趣味など皆大切なものを持っている。
 だから、人と人との集まり、会合、懇親会は「最小の時間で最大の成果を上げるための段取り」をしよう。
 そのために、積極的に会合などのセッティング役を買って出よう。

 以上は会合・集まり・懇親会・飲み会について書いたが、きっと今、同じことがあらゆる場面で問い直されていると思う。

 仕事での面談でも、たとえば東京から神戸に1日かけて面談に来なければならないか、zoomでよいか。
 Time is life の観点ですべてが見直される。

 今のリスタートは全てこれだ。

『一度きりしかない人生の貴重な時間を最大限有意義に使うには?』

 この観点で自分も他人も大切にすること。
 2020の終わりにこれを書き留めておこう。

                      (終わり)
 
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コロナで変わったこと~その5 スポーツ、音楽、文化 [時事ニュースから]

 仕事や日常生活の基本的なことが変わりましたが、人々の楽しみ、娯楽も変わりました。

5 スポーツ、音楽、文化
 
 「不要不急」という言葉には私は本当に違和感がある。
 それは、10年前の新型インフルエンザのときからだ。
 人の営みに、不要不急なものとそうでないものがあるのか?本当に。

 例えば、衣食住そのものというのは「要」「急」なのであろう。
 歌を歌ったり、野球をしたり、ゴルフをしたり、パチンコにいく、映画に行く、これは「不要不急」に分類されるのが一般的だろう。
 では、トレーニングをする、温泉浴をするというのは?「不要不急」と言われそうだが、トレーニングはリハビリの意味を持っているかもしれないし、温泉も温泉療法かもしれない。
 そうすると、歌やドラムなども、人によって、治療・セラピーの意味を持っているかもしれない。
 
 よくよく考えていくと、「不要不急」とそうでないものとの境界など本当にあるのか?ということになる。

 たとえば、4月5月は裁判が止まった。
 つまり、多くの裁判というのは「不要不急」だったということだ。
 私は訴訟を扱う弁護士の仕事は、社会に欠かせない基本的なインフラだと思っていたが、どうやら「不要不急」に分類されたらしい。

 コロナ感染拡大の原因と言われる「夜の街」。
 接待を伴う飲食店に行くことは「不要不急」の代表のように言われる。
 本当にそうか?
 色んな人が生きていく中で、その場所を必要とする人がいるから存在するはずだ。
 客であれ、そこで働く人であれ。
 そんなことはちょっと考えればすぐわかる。
 
 私は、およそ人の営みに「不要不急」なものはない、と思う。

 さて、4月5月、まだコロナの正体がよくわからず、「不要不急」かどうかはさて置いて、あらゆる人の動きをいったん止めて、フリーズして感染拡大のスピードを遅らせよう、というのは納得のいく話だった。
 そこで、スポーツや音楽イベントが中止されたのもやむを得ない。

 でも、そのときから私はいつまでもそういうわけにはいかない、と思った。

 NO MUSIC NO  LIFE という言葉がある。
 音楽は、ライフラインなのだ。
 水道・電気ではないが、音楽は人が生きるうえでなくてはならないもの。
 だから、4月5月は、ライブはなくても、みんなスマホに入っている音楽で過ごした。
 
 スポーツもそうだ。
 人が生きるうえでエネルギーチャージをしたり、健康を維持するために必要なものがスポーツだ。

 健康維持するための音楽・スポーツをいつまでも封じられたら、コロナに感染しなくても病気になってしまう。

 プロ野球、コンサートの「生」観戦は、とても貴重なものだ。
 何が良いのだろう?
 一つには、超一流のアスリート、ミュージシャンのプレーを体感できること。
 だがそれだけではない。
 日ごろ色んな立場で過ごしている人々。学生、社会人、無職の人。また、仕事の上では対立するような立場にあるかもしれない人。これがみな一緒に、同じ瞬間を、同じ喜びを共有する。
 そのことが素晴らしい。
 共に生きている、と感じあえることが素晴らしい。

 だから、やはり、人が集まらなければならない。
 昔からそうやって人は、エネルギーを互いにチャージしあって生きてきた。
 
 6月から少しずつ、スポーツ、音楽、舞台もライブが戻ってきた。
 コロナ感染防止対策、また、世間からの目などの課題を乗り越えて、関係者の努力は並大抵ではなかったはずだ。
 本当にありがたいと思う。

 さて、そんな中で、4月、5月に音楽で感動したことがある。
 世界的ジャズピアニストの小曽根真さんが、毎日、Facebook Live でライブを配信したことだ。
 約50日にわたった。これは画期的だった。
 鑑賞している人の数が画面上でリアルに更新され、互いがチャットのやりとりをしながら音楽を楽しむ。
 自分の「友人」が参加していることも表示される。
 ああ、あの人も一緒に聴いているんだな、と感じられる。
 最終日は1万人を超え、上に書いたリアルのライブのように、同じ瞬間を、同じ喜びを共有している実感を得られた。
 完全に無料のライブだが、お金を払っても惜しくない価値があった。
 
 音楽も本当は「生」でこそ、というのは変わらない。
 だが、新しい形ももっと普及していくのではないか。
 リアルタイムのライブであればオンラインも、十分、入場料のとれる形になることを実感した。

 GOTOトラベル、GOTOイート。
 これは確かに、コロナで痛手を受けた観光、飲食への救済として、ニーズのあった支援策だ。

 だが、次の業種はどうだろう。
 スポーツジム、ライブハウス、映画館、美術館、博物館…
 コロナで大変な痛手を受けているが、支援をほとんどうけていない。
 上記の通り、スポーツ、音楽、芸術は人が生きる上で必要なものだ。
 スポーツジム、ライブハウスは、確かにクラスターが発生するなどのことがあり、感染防止対策が重要だ。
 だが、映画館、美術館、博物館などは、そこで飛沫を飛ばしまくる人はまずいない。
 今の「GOTO」があるのなら、「GOTOスポーツ」「GOTOアート」「GOTOカルチャー」があっても良いはずだ。

 さて、私はスポーツは、日々のジムでのトレーニング、野球、ゴルフをする。
 4,5月にすべて中断したが、6月ころから復活した。
 4,5月中は「なわとび」をしていた。
 ジムでマシンを使って体が動かせるようになったとき、本当に体中に血が流れている感じがした。
 草野球は、コロナ前は「勝ち負け」や自分の成績にもこだわる気持ちがあったが、コロナ後に久しぶりに対外試合をしたとき、本当に野球できることそのものの喜びを実感した。
 ただ、試合後の整列の時、にこやかに相手チームの選手に握手を求めに行ったとき、相手チームの選手が戸惑っていた(それでも3人握手してくれた)のが、「ああコロナ下では握手はしないのか。さびしいことだ。」と感じた出来事だったが。
 ゴルフは本来人が集まらないので安全なはずだが「自粛」ムードだった。
 「誰と誰との、どういう経路での感染を防ぐのか」が分かってきてからは、ゴルフ場は盛況だ。
 人が密集しない山、海、大自然の中はそもそも気持ちがいい。
 「コロナを避ける」ということは「人の密集を避ける」ことだから、大自然の良さを感じに行く、というのが大正解。

 今回は、まとまりのない話になったが、人が生きる上での「栄養」は、一見「不要不急」なように思えるものに沢山ある。
 「コロナにかかって死なない」ために生きているのではない。
 憲法13条にも幸福を追求する権利とある。
 
 4,5月あらゆるものをストップさせたことによって、かえって、スポーツ、音楽などのありがたみを実感できた。
 良い方向に向けていくにはこう考えたらどうだろう?

 スポーツにしても、部活などでは、もう「仕事」であるかのように、勝利至上主義的になってしまう状況もあったはずだ。これは、勝負事の場合どうしてもそうなりがちなことである。誰が悪いわけでもない。
 けれども、スポーツ本来の機能は、人を健康にすること、人生の喜び・彩りになることだ。
 強制的にストップさせられて、その後、練習を再開したときの感動が新しい原点になるのではないか。
 
 音楽・芸術も、どうしても商業主義的な要素に強く影響されて、本来やりたかったことができない状況がもともとあったはずだ。
 コロナ下での制限された中での活動、また、苦労して再開したときの活動で感じられた、音楽・芸術本来の喜びのコアな部分。
 今は痛手を受けていても再興していくときに、「本質的な喜び」からの再構築ができるのではないか。
 音楽・芸術にビジネスが介在することも当然ではあるが、その在り方の再構築によって、もっと多くの人々の心から求めるものが滑らかに行き渡る世の中になるのではないか、と思う。

 4,5月は「モノクロ」の世の中だった。
 それを経験したからこそスポーツ、音楽、文化の「彩り」の大切さ、その「彩り」の本質を感じられた。
 これ活かして、すぐには難しいが、やがてより豊かな「彩り」の世界に、と思う。


 以上、今回は、私の大好きなスポーツ、音楽とコロナについて書きました。
 それにしても、文化・芸能という分野は、コロナ下で苦しい立場に置かれているのに支援の対象から外れていることは良くない、と思います。
 まだそこまで支援の手が回らない、ということかもしれませんが、何か自分にもできることを考えていきたいです。

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コロナで変わったこと~その4 仕事、職場、面談 [時事ニュースから]

 コロナで変わったことを感覚がビビッドなうちに書き留めておくシリーズも4回目。
 今回は、仕事について書いてみます。

4 仕事、職場、面談
 まず、4月に入って、職場はスプリット体制をとった。
 スプリット体制というのは、事務所スタッフを2班にわけて、交代で出勤し、異なる班は接触しないとするものだった。
 それで、半分の日は私もテレワークになった。

 私は昔からオフィスに行って仕事をするのが当たり前だったし、自分のスイッチが入るのもオフィスにいってこそ、だった。
 家にいるときに、なんかだるいなあ~、とか、疲れているな~という時があっても、オフィスに入ればシャキッとする、そういう感覚だ。今もそう。
 
 なので、家で仕事をするというのは、どうもスイッチオンの瞬間がはっきりしなくて気持ちが悪かった。
 ワイシャツに着替えることで、スイッチオンとしていたのだが、やはり同じではない。

 4月5月の緊急事態宣言が終了した後は、通常のオフィス業務に戻った。

 で、何がコロナ前と変わっただろう?
 
 世の中全体もそう、事務所としても、考え方がずいぶん変わったように感じる。
 
 つまり、働くというのは「職場に出るのが本物」という考え方からは自由になった。
 確かに最近、リモートワークなども言われるようになっていたが、コロナ前は「例外的オプション」という位置づけだった。「本物」という扱いではなかった。
 子育て、介護などライフステージは色々あり、人には様々な事情がある。
 それでも、コロナ前は、私も「毎日出勤できるメンバーこそがレギュラーメンバーだ」という考えだった。
 それは変わった。

 「すみません。村上は本日自宅勤務でして…」

という電話案内を4月の最初はしていたことがあったが、

 「『すみません。』は要らない。堂々と、自宅勤務・テレワークと案内しよう。」

と事務所スタッフと話した記憶がある。

 顧客と打ち合わせをするとき、例えば、私ともう一人の弁護士(仮に、「H弁護士」としよう)の二人が担当で、私は事務所に出所しているがH弁護士は自宅、ということがある。
 事務所では、顧客と私。H弁護士の自宅とzoomやスカイプでつなぐ。
 初めての顧客であれば、私が自分の名刺とH弁護士の名刺を渡す。
 実際にこういう場面があったが、その顧客からは、
「こういうスタイルは今風ですね。」
との前向きな反応をいただいた。

 ほかの場面でも、zoomと会議用カメラを使ってリモートを含めた打ち合わせをすると、顧客の方からは、(コロナ前からすれば意外な)良い反応をいただく。
「進んでいますね。」という言葉や、機材などについて自社の参考のためにとご質問をいただく。

 つまり、世の中全体が、デジタルを使って「時間」「空間」から自由になろうとしている、そういう働き方をしようとしている、ということだ。

 その目指す先は、ダイバーシティ(多様性)の実現、ひいては「才能を活かすこと」なのだと思う。

 特に女性の学業と仕事のことを考えるとわかる。
 女性で学業に熱心な生徒、進学校では医師を志望する割合が非常に高い。
 医師などはエッセンシャルワーカーそのものだが、仮に、出産育児等で仕事を離れる時期があっても医師免許があればその後も仕事は必ずある、と考えられている。
 だから女子にとって医師になるのは良い選択、というわけだが、ちょっと待て。
 それはすなわち、医師を除いて一般に、女子が出産・育児をするライフステージにおいてどうしてもキャリアが大きく遅れてしまう、という現状の反映に他ならない。
 これはひどい話だ、と思う。
 例えば、10歳~22歳まで一生懸命勉強したとして12年。その努力は男子ならそう迷いなくストレートに活かせる。
 だが、女子にとって、出産・育児期は明らかにハンデになる。そのことを思うと心が痛い。
 私は男子だが、やはり家族・親族の女子の育ち方を見ていると、とても感じることがある。

 そこで。
 「テレワーク」「リモートワーク」が本物の働き方、と認知されたことは、本当にコロナがきっかけで可能性が開けたことだ。
 「世の中として、いずれ、そうしなければならないだろう」と多くの人が思っていたのだが、テレワーク・リモートワークに「市民権」を与えるきっかけが必要だったというわけだ。

 才能を持ちながら、意欲も持ちながら、やむなくキャリアをあきらめ家庭にとどまった人がこれまで沢山いたはずだ。
 
 もちろん女性だけではない。
 男性も、子育てに積極的にかかわりながら、また、親の介護などを自分の思うようにやりながら、「リモートワーク」を活かして、仕事も遅れを取らない、そんな可能性が広がる。

 単身赴任も不要になる、と言われている。
 家族と一緒に暮らせない孤独は、辛い人には辛いと聞くが、それも少なくなるなら良いことだ。

 急にコロナで、在宅勤務が増えたり、オンライン会議が増えたから、色々不具合も起こっている。

・ オンライン会議中に家族が映ってしまう「放送事故」みたいな出来事。
・ リモート接続(VPN接続)がサイバー攻撃の標的になる。
・ テレワーク中の勤怠管理ができにくい。

などなど。

 だが、こんな「不具合」などあぶり出されさえすれば、すぐに手当てされ、スムーズにできるよう進化する。そのスピードは現在はとても速い。
 zoomのセキュリティが弱いことが指摘されたら、確か数日でセキュリティが強化された。

 「もうやるしかない」状態にコロナで追い込まれたから、トライ&エラーが急サイクルで行われるようになった。
 
 もちろん、自分のビジネスや人生にとって致命的なリスクは避けなければならないが、コロナ前思っていたよりも、

「やってみること」
「トライ&エラーを許容すること」
「リスクを取ること」

の重要性に気づき、これまでどうしてもまじめな人ほど、

「リターンの過小評価と、リスクの過大評価」

をする傾向にあったことに気づいたのではないか、と思う。

 本当の「まじめ」というのは、「失敗を避ける」ことだけに意識を集中するのではなくて、「進歩、発展への努力を怠らないこと」「可能性の扉を無駄にしない」ことだ。
 
 そして、このコロナでの劇的な変化をよい経験に、普段は「現状維持が快適」という感覚に支配されやすいということを自覚して、これからの時代は、意識的に「変化に強くなる」「変化を楽しむ」ような在り方でいくほうがよいのだろう、と思う。

 DX(デジタルトランスフォーメーション)、ペーパーレス化、オンライン、リモートワークなどの発達は、家族や生活を大切にするということに活かせると思う。
 
 ただ、私自身は、それで「楽になる」という気はしていない。
 デジタル技術、新しい技術を駆使して、「もっともっと欲張れるようになる」のだ、と思っている。
 今までも欲張ってきた。勉強、仕事も好きだが、家庭、スポーツ、趣味、遊び。やりたいことを何も我慢した記憶がない。
 それが、「時間」「空間」にとらわれない活動がより可能になる結果、もっと欲張れる、となれば、きっと自分は欲張るだろう、という気がする。
 なので、要注意は、今後、人の活動が多くなりすぎて、心身の健康を害することにならないようにしなければならない、ということにあるとも思う。

 逆に、「ゆったりとした時間の流れを楽しむ」ことや、「デジタルデトックス(デジタル機器を一定期間遠ざけること)」をわざと取り入れるなどしなければ、活動過多になりそうだ。少なくとも私は。

 前3回でも書いたが、私は、同じ空間での生身の人間と人間の触れ合いを本当に尊いものだと思っている。
 だから、コロナ前はスカイプなどがあっても、「直に」会うことを重視した。
 それゆえデジタルツールは最小限しか使わなかった。
 なんとなく「デジタルは体に悪い」と思っていた。
 本なんかも、電子書籍は味気なく、紙でなければ読書した気がしない。
 
 だが、コロナをきっかけに、「デジタルを駆使しよう」と意識は変わった。

 いや、それでもやっぱり、「人と直に」が好きで、「紙」で読まなければ頭に入る気がしないし、ペンからでるインキが知的活動の印という感覚そのものは私の中に染みついていて変わりそうにはない。
 けれども、今「デジタルが可能性の扉を開く」ということをすごく感じるから、私の昭和育ちの感覚とデジタル感覚の「折り合い」をつけて、二つの感覚が互いを認めあって次の時代へ進んでいけるように、と思っている。
 それは何よりも、若者や子供たち、明日の子供たちが大人になるころ、才能が埋もれない世の中であってほしいから、だ。

 テレビで、台湾のIT担当相オードリータン氏などをみると、日本を才能が開花しやすい社会にしたい、と強く思う。
 きっと日本にもオードリータン氏のような才能を持った人がいるはずなのに、でも、発掘できず、国の要職に起用できていないのではないか、という気がする。
 おそらく、デジタルを駆使して技術的に「才能」が埋もれないように、というだけでなく、多様性を認める社会の空気が必要だ。
 「角を矯めて牛を殺す」ようなことをせず、人が「伸びる」ことをただ邪魔をしない、互いが「伸びる」環境を社会全体で大切にすることが肝要だ。
 
 私自身も、自分が働く職場を未来の形に変えていくことを目下最大の課題として捉えている。
 上のような考えの中にいるが、自分はもちろん、自分だけでなく働く者皆の「才能」が余すところなく開花する職場にしたいと強く思う。

 コロナ禍は本当に「禍」だ。
 そのおかげで、なんて言い方は絶対したくない。
 どれだけ人が苦しんだか。今も苦しんでいるか。
 マスクも、自粛も、正直まっぴらごめんだ!早く終わりにして欲しいの一念だが、我慢している。
 だから、「おかげで」とは絶対に言わないが、それでも平時に気づかないことの「気づき」はあるし、それを明日に繋げていくことはできる。
 夜が暗いほど星は輝きを増す(宝塚歌劇団「黎明の風」の歌詞より)、と自分を周りを励ましやっていくしかない。

 
 以上、今日は仕事について書きました。
 デジタル化、オンライン化は、コロナ前「これから10年でしなければならない変革」と言われていたのがコロナをきっかけに「3年でしなければならない変革」になったとも言われています。
 時代の進歩が早まったのなら、今の苦境を乗り越えた暁には、人々の幸福追求がもっと実現する、そういう明日がきっとある、それを同時代の多くの人々と一緒に見たい気持ちでいっぱいです。
 次回「その5」は、スポーツ、音楽、芸術など文化活動について書いてみたいと思います。
 
 
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コロナで変わったこと~その3 人と会う、会わない、オンライン [時事ニュースから]

 コロナで変わったことを忘れないうちに書き留める、その続きです。

3 人と会う、会わない、オンライン
 人とリアルで会う機会が減った。
 4月、5月はもちろんのこと、今に至っても、会合や飲み会の機会は激減した。
 
 ビジネスにしても、交友関係にしても、どうやって可能性を広げればよいのだろうか。

 私は、この4月に事務所を移籍した。
 より、企業法務に力を入れて、自分の仕事の幅を拡大する、その拡大スピードを段違いに上げるためだ。
 コロナ前のイメージは、この4月からはますます人との交流に力を入れ、事務所にとって、自分にとってのビジネス上のチャンスを拡大したいと思っていた。
「こんな勉強会があるけど、どうする?」
「○○社の▲▲さんとご飯に行く機会があるけど、君も来る?」
「□□さんといって、今とても面白い取り組みをしている人がいるけれども、会ってみる?」
 こんなメッセージが来たら、私の行動基準は常に、
「より可能性の広がる選択をする」
だ。
 だから、時間と体力の許す限り人には会う。
 また、私の人脈の中で、繋がったら面白い人同士に出会いの機会を作る、これも心掛けてきた。

 「会う」のは第一歩。
 まず会わないとはじまらない!

 確かに、初対面は、いくらか精神的負担がある。
 「人見知り」は誰にでもある。
 気心知れた人だけで暮らすほうが楽だし、その心持ちそのものが悪いわけではない。
 だが、ビジネスを拡大したり、人生を楽しむチャンスを増やしたいなら、「がんばって」「会う」ほうがいい。

 さて、そうだったはずが、コロナが来て。
 人に会うことがすごく難しくなってしまった。
 
 4,5月。
 どう考えても、zoomなどオンラインに活路を見出すしかない、と思った。
 私はそれまでは、空気を共有することに意味があると思っていたので、Skypeなども滅多に使わなかった。
 しかし、リアルに会えなくなった社会では、zoomやMessengerやSkypeなどで人と「会う」しかない。
 それでも顔を見て話せるだけありがたい、と思った。

 私の所属する神戸モーニングロータリークラブは毎週1回の例会を行っていたが、3月ころからコロナの影響で例会をすべて休会にしていた。
 しかし、いつまでもそのままでは灯が消えてしまう。
 幹事だった私は、zoom例会の形でミーティングを再興した。
 最初は参加者も少なかったが、それでも馴染みのメンバーの顔をみて少しずつでも話しできたとき、感慨深かったのを覚えている。

 zoomミーティングもあるだけありがたい。
 ただ。
 でもやはり、人と直に会ったときの心の充足感にはどうしても遠かった。
 なんか寂しい、そんな気持ちはずっとしていた。

 そんな中、私の近所の喫茶店で「読書会」がリアルで再開された。
 コロナ、緊急宣言になってからはじめてのリアル会合参加だった。
 参加者が本を持ち寄り、数分ずつ、好きな本を紹介するイベントだ。
 小規模だが、老若男女問わずの集まりだ。
 私はその「読書会」に2回目の参加で、そのときは懇意にしている人も少なかったのだが、それでも、この会合に出たとき、何とも言えずうれしかった。
 「人に直に会う」というのは、こんなにも心温まるものなのか、と。

 コロナ感染拡大防止。
 人と人とが密にならないように。
 私は、人と人は密でこそ、と思って暮らしてきたから、やっぱり居心地が悪い世の中。

 そして、たとえば、甲子園球場など観客が入れるようになってからがまた異様な光景。
 家族で応援に行っている人も、席を離して座らなければならない。
 飲食店もそう。
 「いったい誰と誰との間の感染を防止したいのか?」と不思議に思った。
 案の定、「ここは空けて」という札は9月ころから「柔軟に」移動させられることが多くなった。

 オンラインミーティング。
 講演などは、聴衆にとっては全く不都合がない。もともとこれで良かったのでは、と思えるくらい。
 パワーポイント、資料も見やすい。
 ただ、講師の立場では、聴衆の反応が分からず不安になる。ギャグが受けたか、スベッたかもわからない。
 
 しかし、オンライン飲み会は正直言ってかなり物足りない。
 飲み会、懇親会は何をする場だろう?
 お酒も飲んで、おいしいもの食べて、リラックスして本音を話す場。
 たわいもないトークもしつつ、リラックスしているからこそ本質的な話がでて、そこから可能性が広がるかもしれない場。
 合コンでなくても、自分がしゃべりたい相手の隣を確保して、人間関係にビジネスに、「好きな人」と「密」に話せるチャンスの場。
 これが本来だったはずだ。フリーに移動できるスペースならこれができる。
 ただ酒を飲んで酔っ払うのではない。活きた時間にする。ちゃんと「意味のある名刺交換」をするために目的意識をもって動くのだ。
 だが、zoom飲み会は今のところほとんど、上記のような「飲み会」の歩き方を許してくれない。
 みんなが一人一人話したとして、それは「御歓談」ではなくて、一人一人の「挨拶」だ。
 全体に向けて言う「挨拶」しかできない。
 隣の人と「密」に話し込むことはできない。
 全体に向けていうような話じゃない、という他愛もないトークもできない。
 そんなわけで、zoom飲み会は物足りなかった。
 でも!「ない」「ない」言っていては始まらないので、zoomの背景に名刺のQRコードを置いてオンライン名刺交換などをしてみたりもした。

 4~6月、zoom会議はあるだけよかったけれど、やっぱり人と会いたい気持ちが強かった。
 10月からはリアルの会合、飲み会も増えた。今思うと、第2波と第3波の狭間。
 このころ出会った人との名刺交換。
「あ、zoomでお目にかかりましたが、リアルでは初めてですね」
 これは、zoomがあって良かったなあ、と思った。

 私は、やっぱり、直接会えるなら直接会うということが圧倒的に人と人とのふれあいとして本物だと思う。それを改めて感じたくらい。
 ただ、たとえば東京の人とか、外国の人とか、zoomなどを使えばこんなに身近に話せるのだ、というのも感じた。自宅療養中などでも、顔を見て話せる、これはいい。
 もともとある程度信頼関係のある者同士ならば、zoomなど駆使して、時間を有効に会談できる。
 つまり、「複線」があるということだ。
 リアルに会うのに支障がなければそれが一番、でも、毎回そうでなくてもよい、便利にオンラインも使って、時間の使い方、時間の価値を最大化できる。
 うまくやれば、コロナ以前より、同じ時間でたくさんのひとに会えて、可能性を何倍にも広げることができる。
 
 私は、「実際に会う」機会を改めて貴重なものと実感し、その貴重な機会をこれまでよりもっと大事にしよう、当たり前のものではないのだから、と強く思っている。
 もっともっと思慮ある実りのある会話をし、もっともっと自然に人と会える喜びを表情いっぱいに伝え、もっともっと共有する空気を暖めて絆を深める。
 人とリアルに会う機会を、こんな風に新鮮に感じ続けていたい。
 もっとも、そのときでも「マスク」はもどかしいが。少なくとも、「心のマスク」は外して、人と接したい。


 さて、コロナで変わった「人と会う」ことについて書きました。
 一言でいえば、会えるとは貴重なことだ、に尽きます。
 次は、仕事・職場・テレワークなどについて書いてみたいと思います。
 
 
  
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コロナで変わったこと~その2 声、話、歌 [時事ニュースから]

 今書いておかないと忘れてしまいそうな変化、特に、感覚の変化について書いています。

2 声について
 
 「お客様どうしの会話はご遠慮ください」
 「食事中は小声で」(小池都知事の5つの小)
などというのが一般的な注意になった。

 さて、小学校に入ったころを思い出すと、だれしも、
「ハッキリ大きな声で自分の名前を言いましょう」
と習ったはずだ。
 就職活動でも何でも、
「明るく、ハキハキと、よく聞こえる声で」
というのが基本だった。
 若者は特に快活であること、あるべし、というのが社会の通念だったはずだ。
 しかし、それはまさに一番飛沫を飛ばすことであって、コロナ感染蔓延防止には良くないとされる。

 コロナ蔓延の初期、ライブハウスでクラスターが発生した。
 また、舞台演劇でも感染者が出た。
 
 声は元気の源だったけれど、それがイコール飛沫を飛ばす=コロナ下ではNGとは。
 何が好ましくて、何が好ましくないかの価値観さえも、コロナは変容させるようだ。

 確かに、電車の中でも、全く周りに無頓着な人がマスクなしで会話をしていたりすれば、私でも、
「しゃべるのならマスクをして欲しい」
と思う。
 
 ただ、やっぱり人に何かを伝えるなら、声に魂を込めることはとても大切だ。
 歌だって、MISIAの声、桑田佳祐の声、TMレボリューション西川さんの声、uruの声、やしきたかじんの声、小椋佳の声、あいみょんの声。すべて一発で聴き分けられるし、曲以前に、その声自体が表現だ。森本レオさんのナレーションも。
 単に大きい声が良い、というのではないが、例えばか細いように思われる声でも、良い声の持ち主はここぞというときにパワフルな声も持っている。
 そして、そんな素晴らしい声の持ち主こそ、飛沫を飛ばさない、というわけにはいかない。
 だから、アーチストはみなコロナ下で活動を、表現をものすごく制約されているに違いない。
 ライブは出来ないし、マスクがあれば普段の声の通り方と違う。
 
 歌が歌えない。
 これは、多くの人にとって辛いことだ。
 お年寄りの歌の集まりでクラスター発生、というニュースが何度かあった。
 高齢者はリスクが大きいのになぜ集まって歌など歌うのか?という感想を言う人があるが、私は気持ちが本当によくわかる。
 高齢になって何もしなければ体力が衰える、そういうときこそ、歌は力を持っている。
 しかも、仲間と歌えばなおさらだ。
 それが「生きること」という実感なのだ。
 
 例えば、震災でも不況でも、しんどいときこそ「歌」だった。
 「しあわせ運べるように」もそう。
 コロナ下では、歌で励ましあうこともリアルにはできない。
 
 私も、自分が大切にしてきた「明瞭な声で人にしっかり伝えること」が、コロナで推奨される様式とは違う方向性にあることに、これまでにない心地悪さを感じてきた。

 だが、リアルでの声は飛沫の元になるので要注意としても、たとえば、オンラインでも明瞭に心地よく相手に聞こえる声を伝える工夫など、精神は変えずにやっていきたい。
 自分がハッキリした声を出すこともそうだし、マイク・通信環境を整えることもプラスして。

 また、「大声」を控えなければならない今は、新たな表現を磨く期間と思うようにしたい。
 ハッキリ大きな声で、明るい声で、だけでなく。

 数年前ボーカルスクールで歌を習っていたとき、音大出の若い歌の先生は「声というのは、自分がコンプレックスと思っていたところが長所であることも多くあるものです」と言われていた。
 「か細い声」「息交じりの声」「ささやき声」などにもまた表現のヒントがある。
 一見、弱弱しそうな声の性質の中に、今ある自分の声の表現の幅を広げ、パワーを生む鍵もまた潜んでいると思う。ピアニシモあってのフォルテシモかもしれない。uruさんの歌のような。
 このコロナ禍は、あえて「制約」の中で、「勢い」で胡麻化さず色んなことを丁寧に確かめ、再構築していく時期、そういうチャンスととらえよう。

 
 さて、今回は「声」について書きました。
 またも、なかなか長くなってしまいました。
 次回は、これと関連して、「zoom講演」について書いてみたいと思います。
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コロナで変わったこと~その1 マスク [時事ニュースから]

 今年の正月には全く予想だにしなかった展開、コロナの蔓延。

 そんな中で色んな事が変わらざるを得なかった。
 元に戻りつつあることもあれば、戻らないこともある。
 また、コロナ前は良しとされたこと、努力してそうしようとしていたことが、推奨されなくもなる。
 
 そんなことを、「第三波」の入り口と言われる今だが、忘れないように記しておこうと思います。

1 マスクと顔、心
 顔の半分以上をマスクで覆ってしまうことは物凄く抵抗があった。
 言葉を色々重ねるよりも、表情で、笑顔で、相手に対して気持ちを伝えることができる。
 表情が持っている力はとても大きい。
 目ももちろんだが、口の動きもかなりの表現力を持つ。
 歯列矯正もホワイトニングも、金も時間もかけてやった。
 また、人と話すとき、口の周り、特に口角のあたりには常に幾分か神経を生き渡らせている。
 それは「作り笑い」ということではなくて、口角のあたりに柔らかく神経を走らせると、ちょっと優しい気持ちになれるからだ。
 造形の美醜ということではなくて、顔全体で、ウェルカムな気持ちだったり、仕事の場面では「私が力になります」という気持ちを伝えるようにしていた。意識して。
 だが、4月からは鼻から下はマスクで覆われ、最初は本当に調子が狂った。
 
 調子が狂うというのは、それ以前の感覚を残しているからであって、次第にマスクに慣れてしまう。
 鼻、口は見えないもの、に慣れてしまう。
 これこそが怖い。
 10月だったか美容室にいって、馴染みの美容師さんと話した。
「マスクの下、頬の筋肉、口回りの筋肉がさぼっていると、垂れ下がってきますよ」
 そんな気がしていた。
 その会話以降、家でマスクを取るときは口回りの筋肉を意識して動かし、また、屋外でも人がいなければマスクを外し空気を吸い込み、また、表情筋もできるだけ動かすようにした。
 表情筋を動かすと、心も動く気がした。本調子に少し近づく感じ。
 逆に言えば、マスクの下で顔がさぼり、また、心も幾分無表情になっていた、ということだからこれは余計恐ろしいことだ。

 実は、5月に、スターバックスで透明マスクをみつけてから、すかさず購入した。
 仕事で実戦投入してみたが、やはり、飛沫を飛ばさない効果、防ぐ効果ともに不安を感じたので、長く実用はしなかった。
 また、声が普通のマスク以上にくぐもるのも不満だった。
 うまくいかないなあ、と思ったものだ。

 さて、マスクの影響は大きい。
 意識しなければ、顔も心もサボってしまう。
 来春まではおそらくみんなマスク生活だろうが、その中でも、人に見えずとも、活き活きと顔を動かしておいたほうがよいと思っている。
 いつマスクを取ってもよいようにすることが大事、と。
 逆に、マスク生活を利用して美容整形をする人もいるが、こちらは賢明な作戦だと思う。

 考えてみれば、今までは、互いに飛沫を飛ばしあっていた。
 それでも互いに近距離で語り、笑いあい、一緒に飲み食いをした。
 インフルエンザウィルスやそのほかの病原菌もいくらか交換しあっていたのだろうが、それは「生きている以上仕方ないもの」として、よほど咳き込んでいる人というのでなければ、互いにそんなことは考えずに触れ合っていた。
 屈託なく触れ合っていた、その自然な状態にみんなが果たしてすぐに戻れるのだろうか。
 たぶん、今度「マスクなし」に戻るときにちょっと逆の抵抗があると思う。
 けれどもその「逆の抵抗」を超えるとき、意味としては、「人と病原菌、ウィルスも共生している」ことを受け入れて超えることになる。
 こぎれいに見える人、若い人だって、普通に菌やウィルスを持っている。その意味で、変に人を選別せずに触れ合える、ボーダーレスな感じに変わっていけたらいいな、と思う。
 
 私は、やっぱりマスク生活は不自然なことだと思うし、オープンにいきたい。
 やっぱり表情全体で人に私の気持ちを伝えたい。
 この心の在り方は、マスクに変容されたくない。
 うっかり変容させられそうになったこともあるが、それに気づいた私はちゃんと抵抗し続ける。
 いつマスクレス解禁になってもよいように。 

 「マスクの下は笑顔です」と張り紙のある店がある。
 この張り紙はいいと思う。
 お客さんにそう伝えて安心してもらう意味もあるし、従業員が、マスクに隠れていても笑顔をさぼらないようにしよう、と思い出すことができる。

 根本を問い直すと、コロナに対して、みんながここまでマスクをする必要があるかどうかには議論の余地があると思う。
 ただ、社会全体として「飛沫を飛ばさないようにしよう」という作戦を選んだのだから、この冬が終わるまではマスク作戦の一員として、また、エチケットとしてこのルールは守る。
 それは各自が主体的に、社会を守るために行うこと。
 その中で、やはり、くれぐれも「マスクに心や顔を支配されないこと」を心掛けたいと思う。

 マスクに心や顔を支配されたくない、は私の感性。
 ここも人それぞれだ。
 「マスクでうまく顔も心も隠して生きよう」「そのほうが楽だ」と思う人がいてもおかしくない。
 でも、それは悲しい、さびしい。
 「隠して生きよう」というにはそう思う理由もあって、そのほうが生きやすいからだろう。
 そこでは、私のような「マスク嫌い派」も考えなければならない。
 人がマスクで顔や心を覆い隠さなくても、自由に表現してもよい社会であるのかどうかを。
 互いの立場や思いを想像し、尊重し、認めあえる、安心できる社会にならなければ、コロナが去ってもマスクを外せない人がおおいだろう。
 うまくすれば、コロナ終わりが、人と人とが認めあえる社会に変わるきっかけになるのかもしれない。
 そんな風な社会に変えていけるかどうかも、今、これからを生きる私たち次第だ。
 
 
 コロナで変わった諸要素をいくつも書き留めておこうと思い、最初に「マスク」について書きましたが、思いのほか長くなり、第一回はこれだけで終わり、というくらいになりました。

 「会話と声、歌うこと」「人と出会うこと」「飲み会」「テクノロジー」「職場」などについても思うことが沢山ありますので、次回から書いていきたいと思います。
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「結婚したら退職!?」のニュースにコメントしました [時事ニュースから]

 弁護士ドットコムニュースにコメントさせていただきました。

「役場内結婚」なら夫婦のどちらか退職を… 人口2500人の町の「慣習」が話題に
https://www.bengo4.com/c_5/n_11590/

 
 古くからの慣習については、たとえ現代の考え方からみればどうか?と思うものであっても、それに従って暮らしてきた人々の思いや歴史があります。
 なので、あまり一面的に「断じる」というのも抵抗があります。

 なのですが、私は身近に女子学生がいることもあって、女性のキャリア問題についてはとても関心があります。
 まず人生が100年時代になって、結婚して、出産、子育の時期があっても、それ以外にも人生の「時間」が長くなっています。
 公務員になるまでに子どもの時から一生懸命勉強してきたわけですし、また、私が仕事をする中でも頭が下がる思いがするくらい真摯に公務に従事されている女性をたくさん知っています。

 やはり、どう考えても、せっかく勉強、キャリアを積み上げてきたところで、「結婚」でいったん白紙になる、というのはその後のキャリアにおけるリカバーにおいて苦労するでしょう。
 
 昨年、とあるきっかけで、人材派遣会社の方に話を伺ったところによると「女性は40代が人材の宝庫」と言われていました。
 これは、過去の「結婚したら退職」の「慣習」の結果であって、本当は力を持っているのに仕事とマッチングできていない方が多いということです。

 というわけで、これまでは「役場内結婚は退職」の慣習の中で生きてきた地域の方々も、
「あなたがたは若いんだから、結婚してもキャリアを大切にして」
と若者にエールを送っていただけるようになれば、と思います。


 
 
 
 
 
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