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「接地」の重要性(2)~「強い接地」の必要性 [読書するなり!]

 夏の読書感想文を兼ねた前回記事

 「接地」の重要性(1)~AIでない人間の学習について

の続きです。
 

5 「接地」の強さが鍵

 小学校、中学校、高校、大学と通い、コースや学部が同じならば誰でもほぼ同じカリキュラムを履修することになる。
 だが、履修する科目、使った教材は同じでも、学習成果は人によって全然違う。
 目に見えるところでいえば、試験の成績に差が出るということでもあるが、学んだ事柄について応用が効く形で身についているか?ということに差が出てくる。

 この差を生むのは、「接地」の「強さ」である。

 高校で数学の勉強をするとき、たとえば、三角関数の分野を勉強するとして、色々なバリエーションの練習問題を行う。
 沢山の練習問題を行う本来の目的は、問題のバリエーションを全て覚えることではない。
 基本原理の理解の仕方、どのように活用するのか、ということについて、「身体で覚える」ための練習をしているのである。そして、見たことのない未知の問題に対しても、基本原理を応用して取り組めるようにトレーニングをしているのである。
 すなわち、ここでは「強い接地」を得る目的で、問題演習を行っているのである。
 
 勉強するときに、この目的 - 「強い接地」を得ること - を常に意識していることが何より大切である。
 つまり、「問題集を今日中に何ページまで終わらせる」こと、とか、「宿題を提出して先生に怒られない」ことなどを「目的」と思っては学習効果はあがらない。
 問題をこなすスピードも人それぞれでよいから、とにかく、集中して、勉強するべきことがらについて「強い接地」を得ることを意識することが大切だ。
 
 難しい数学の問題を解ける人というのは、「沢山の問題や解き方を知っている」のではなく、どの教科書にでも載っている基本原理について「強い接地」を得て、応用が効く状態になっている人である。
 
 数学が一番分かりやすいので例に挙げたが、基本的にどの科目も同じことである。
 
 「強い接地」、いいかえると「腹に落ちる」感覚がなく、表面的に「覚えるだけ」という暗記で対応しようとすると、覚えることが多すぎてとても対応しきれない。
 「強い接地」を増やすことで「表面的な暗記」(言い換えると、最も「弱い接地」)の必要を減らすことができれば、「勉強」では最も成果があがる。

 そして、何より「強い接地」をしながらする勉強は楽しい。
 何も、数学、英語だけではない。
 誰でも、「強い接地」ができる分野があるのではないか。
 音楽やスポーツであったり、または、趣味であったり。
 ポケモンのモンスターの種類、属性、得意技について、単に「暗記」しているだけでなく、十分に味わった上でばっちり頭に入っている状態があるのなら、それは「強い接地」をしている。


6 人間は良くも悪くも「接地」がなければ前に進めない

 ChatGPTに話を戻すと、ChatGPTは記号接地していなくても、どこまでも、ある言葉の次に続く可能性が高い言葉をデータから選んで文章を作っていくことができる。
 そして、言葉が意味するものを理解していなくても、ほぼ正解と言ってよい回答を作ることができる。本物の「わらびもち」を知らずして、正しい「わらびもち」の説明ができる。

 ChatGPTは記号接地していない状態で、無限に進んで行けるという、人間には決して真似できない特徴を持っている。記号接地問題はChatGPT、AIの今のところの限界としてとらえることもできるが、むしろ記号接地せずとも「どこまでも進める」ことが強さでもある。
 
 対して、人間は、記号接地しなければほとんど前に進めない。
 すなわち、「意味を理解していない言葉」を続けて文章を作れ、と言われたとき、1文、2文を頑張って書いたとしても、とても書き続ける気力を維持できるものではなく、普通は400字も書けずに挫折するだろう。
 実際の「わらびもち」を食べたことも見たこともない人が、「わらびもち」の説明を400字書くのは、よほど珍しい環境(「わらびもち」を入手できないが、「わらびもち」に対する強いあこがれだけがある状態)にでもない限りありえない。
 
 これは、「学び」でも一緒である。
 先ほどの分数の例を出すとこうだ。
 小学校時代に分数を学んだ。一応分からないわけではないが、「接地」が弱かった。要するに、あまり「腹落ち」していないが、分数という記号を扱うことは辛うじてできる状態だった。
 中学生になって、分数だけでなく、小数だけでなく、負の数も出てきて、方程式、不等式など扱うものが増えた。
 そうすると、もともと「接地」が弱かった分数の概念について、他に考えないといけないことが増えたせいで、ますます理解があやふやになり、正確に使えなくなった。
 そうなってくると、まだまだ新しい概念、平方根(ルート)や虚数などがでてきても、「強い接地」どころか、「接地」を得る余裕はない。すなわち、数学を学ぶ気力が失せてしまう。
 
 少し、脱線するが、ピアノなど楽器を習っている子は「分数」の概念について、「強い接地」を得るチャンスに恵まれている。
 基本的に、楽譜の1小節は4分の1、8分の1、16分の1に分割される(もちろん、これに限らない。いわゆる「3拍子」は3分の1に分割されるし、5分、7分されるものもある)。
 楽器演奏は、1小節という共通時間を、異なるプレーヤーによって共有する必要があるので、「その中で何拍」という「分数」の考え方を採用する必要がある。
 手足を動かして楽器を演奏し、自分や他人が奏でる音を耳で確認しながら、「分数」の考え方で分けられた時間のどこに自分がいるのかを常に意識することになる。
 音符を読むときも、常に、「4分音符が3つあれば、あと4分音符が一つ分」という意識を持ちながら読むことになる。
 目、耳、手足とを一緒に動かしながら、「分数」を感じ取るトレーニングをしていると言い換えることもできる。
 もっとも、目的は「分数」の習得ではなく、「音楽を奏でる」というより楽しいことであることがさらに良い。
 ということで、「東大生のやっていた習い事」などという記事があると、大抵「英語」よりも「ピアノ」の方が上に来るのは、全く不思議のないことだ。子どもにとって「強い接地」をしながら、分数のことも音にまつわる色々、記号の解釈、処理そのほかを学べる習い事だからだ。
 
 さて、話を戻そう。
 算数、数学が、学年が進むにつれ、わけがわからなくなり、全く面白くなくなるのは、「強い接地」が得られなくなり、「弱い接地」さえできなくなり、「記号」の表面をなぞることが精いっぱいになったときである。
 なので、挫折気味になったら、学年のことを気にせず、自分にとって「強い接地」が得られるところまで一旦戻るしかない。これが心情的になかなかできないことであるが、しかし、もしそこまで一旦戻って「強い接地」で学ぶ感覚を取り戻せば、結局はその先にも速く進んで行けるようになる。


7 「接地」という比喩は優れている

 「接地」、「強い接地」という言葉を使ってきたが、この比喩表現は本当に優れている。
 それこそ、私の頭の中では、「強い接地」が得られる表現に感じる。
 
 スポーツで一流の選手がプレーする様子を想像してみよう。
 野球の大谷翔平選手、テニスの大坂なおみ選手、卓球の伊藤美誠選手 … 
 例を挙げればきりがないが、皆、文字通り、「強い接地」をしながらプレーしている。
 
 野球、テニスも卓球も全て球技であり、直接には、「手」で球を投げるか、「手」で持つ「道具」を使って球を打つ。
 なのに、大谷選手たちのプレーの姿、全身の姿を想像すると、しっかりと地面を踏みしめている姿が目に浮かぶ。
 
 その種目に詳しくなくても、私たちは、「強い接地」をしながらプレーするアスリートの姿を想像できる。

 これと比較すると、例えば、ほのぼのした草野球の光景では、プレイヤーの下半身が地面を捉える度合いは大谷選手とは比べようもなく弱い。
 そこに立ってはいるが、強い「接地」をしているわけではない。
 むしろ、この頼りなさが、素人の野球の「ほのぼの」した感じを醸し出しているともいえる。
 この様子も、野球の素人でも簡単に想像できる。
 
 「記号接地問題」というのは、AIについて語られるとき「接地」しているか否かの問題として語られるのが普通であるが、人間については「接地」の有無だけではなく、「程度(強弱)」あるいは「内容」が重要になってくる。
 そして、「強い接地」が得られることが、人間にとって知的な喜びにとって重要な要素だと思う。
 

つづき
 「接地」の重要性(3)~AI時代に、人間がより人間らしく 
 

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