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他者と働く~「わかりあえなさ」から始める組織論(宇田川元一著) [読書するなり!]


他者と働く──「わかりあえなさ」から始める組織論 (NewsPicksパブリッシング)

他者と働く──「わかりあえなさ」から始める組織論 (NewsPicksパブリッシング)

  • 作者: 宇田川元一
  • 出版社/メーカー: ニューズピックス
  • 発売日: 2019/10/02
  • メディア: Kindle版



 良い本でした。

 いろんな場面で「対話」をすることがとても大切、と私はいつも思っています。
 
 その「対話」とは何か?
 どうすれば「対話」できるのか?

の最も大切な点を丁寧に教えてくれる本です。

 人と人には、

 上司   と 部下
 患者   と 医師
 相談者  と 弁護士
 市民   と 市役所の職員
 先生   と 生徒
 法務部門 と 営業部門

など、色んな関係性がありますが、相手が「分かってない」「何でそんなこと言うのか?」と感じるときにどうする?

 そこに「ナラティブ・アプローチ」という考え方を取り入れていくことが必要と筆者は言います。

 「ナラティブ」とは、誰しもが持っているもの。
 
 「ナラティブ」とは

   物語、つまりその語りを生み出す「解釈の枠組み」のこと

です。

 たとえば、医師と患者の関係性でいえば、

 医師の立場では、

   人命を預かった上で、患者を診断する対象としてのナラティブ で解釈する

 患者の立場では

   医師を、自分自身の身体の問題を正しく治療してくれる「先生」として解釈する

というものです。

 
 そして、よく起こるのが、

   自分側のナラティブに立って相手を見ていると「相手が間違ってみえる」

   相手側のナラティブに立って自分を見ると「(こちらが)間違って見える」

という現象。

 私が弁護士として、依頼者に対して、「感情は感情として、こっちの方が得策ですよ」と言っても、依頼者としては「それじゃ腹の虫が収まらないんだ!」と思っている、という状態もこれに近いわけです。

 「対話」というのは、

 自分のナラティブ と 相手のナラティブ との間に 溝がある

ときに

 その溝を見つけて

 溝に橋を架けていくこと

なのだ、ということです。

 
 一言でいえば「相手への想像力」ということなのですが、そういうときの「想像」の仕方です。

 相手の立場では、どのように感じているか? なども「想像」ですが、その洞察として、
 

 相手は、相手自身のどういう「ナラティブ」物語の中で生きているのか、物を考えているのか


に思いを致すことが有効、ということです。

 
 この「ナラティブ・アプローチ」において、重要なことは、「観察する」ことだと著者は言います。

 「観察する」のだけれども、この本を読んで「ナラティブ・アプローチ」とは何かを知って、そういう考えを頭に置けば、人を「観察する」ことも、解像度がぐっと上がりそうです。

 
 さて、政治の場面などでは、「劇場型」で、「●●を排除する」というような形で、相手のナラティブを敢えて無視するようなものの言い方をする、というのも一つの手法として用いられています。
 しかし、私は、「劇場型」は人々の注目を引く手法だとしても、それだけでは上手くいかず、やっぱり丁寧な「対話」が必要だと思います。
 そのためには、色んな利害関係者それぞれの「ナラティブ」を理解して、それを尊重して、丁寧に「橋を架けていく」ことができてこそ、多くの人の納得いく変革が可能だ、と改めてこの本を読んで感じました。

 この本を読むと、

実社会で 「この人は何でこんなことを言うのか?」 ということや

SNSでも 「この人のこういう投稿はいけ好かないなあ」 ということ

にまつわるストレスも軽減されます。
 この人のナラティブはこういうことなんだな、という理解ができ、「自分には違和感があるけど、悪いわけででも、理解できないわけでもない」という領域が広がり、人に優しくもなれます。

 冒頭にも言いましたが、とても良い本です。

 おすすめです。
 

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「成瀬は天下を取りに行く」宮島未奈さん [読書するなり!]


成瀬は天下を取りにいく 「成瀬」シリーズ

成瀬は天下を取りにいく 「成瀬」シリーズ

  • 作者: 宮島未奈
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2023/03/17
  • メディア: Kindle版



成瀬は信じた道をいく 「成瀬」シリーズ

成瀬は信じた道をいく 「成瀬」シリーズ

  • 作者: 宮島未奈
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2024/01/24
  • メディア: Kindle版



 
 本屋大賞受賞作「成瀬は天下を取りに行く」とその続編。
 一気に読んでしまいました。
 素晴らしい作品に出会いました。

 主人公は「成瀬あかり」 中学生~大学生 の時代が、「成瀬」の周りの友人、親そのほか様々な人の視点で描かれています。

 「成瀬」はかなり個性的であり、
・ 西武大津店の閉店前に、「夏休みを西武に捧げる」
・ M1予選に出る
を皮切りに、「自分がなすべきと思うこと」に真正面から取り組みます。
 周囲は、えっ!?と思うことも、本人としては至って当然のことのように行います。

 なぜか、自主的に「パトロール」を行って、地域の治安維持にも貢献していたりします。

 自分の好奇心からくる行動もあり、また、地域(大津)のためという使命感からくると思われる行動もあり。

 続編のタイトル、まさに「信じた道を行く」のとおりの人物で、読むうちにどんどんファンになっていきます。

 このブログでも、「他人との比較は幸福の毒」ということも書いたことがあります。
 他人との優劣を競うのではなく、「自分軸」で生きることこそが幸福・ウェルビーイングへの道だと思い、自分も他人もできるだけそうなれるようにと思って日々過ごしている私からみて、「成瀬」の在り方は「まさに」です。

 きっと、ここまで「自分軸」で生きられることへの憧れが、この作品がヒットした大きな要因でもあると思います。

 とにかく、爽快ですし、「成瀬」の歩みが気になって仕方なくなりますので、この本はどなたにもおススメです。

 
 また、文章表現の一つ一つが絶妙に面白く、作者の感性が私には「ツボ」である部分がたくさんありました。
 ネタバレにならず、読んだ人にはわかる範囲でいえば、
 「ぐるりんワイドの限界を感じた」
 「祝ってへんのか」
 「『はい、その気になれば、話せます』」
あたりです。

 最高のエンターテインメントであり、また、「好きに信じたままに生きていいんだよ」というメッセージもあり、元気が出る1冊(いや2冊)。

 未だの方は、是非、です。
 

 


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予言書!? ジェフ・ホーキンスら「考える脳 考えるコンピューター」2005年 [読書するなり!]


考える脳 考えるコンピューター〔新版〕 (ハヤカワ文庫NF)

考える脳 考えるコンピューター〔新版〕 (ハヤカワ文庫NF)

  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2023/07/22
  • メディア: Kindle版




 著者のジェフ・ホーキンス氏は神経科学とAIの研究を行う会社の共同創業者です。
 2022年に出された「脳は世界をどう見ているのか」という本も、眠れないくらいに面白い本です。

 さて、この本はまたすごい。
 2005年に出された本ですが、今日まで約20年の人工知能の発展をそのときに予言したかのような内容です。

 そのとき「まだなかった」ChatGPTの技術や画像認識などについて、これこれこういう仕組みで処理できるようになる「はず」ということが書かれています。

 人間の情報処理を司る大脳新皮質の働きについて、「知能の本質は予測である」という観点から、詳しく述べられています。
 
 これを読むと、人間の脳が行っている情報処理は、自分の持っている世界のモデルのなかで、また、自分の経験に照らして、絶えず、「次に何が起こるか」を「予測」し、「予測」と「現実」のずれを調整し続けるというものです。
 五感(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚)を通して得られる情報をもとに、そこから「パターン」を読み取って「予測」を行う、という、説明を読むと、改めて「人間の脳ってすごいなあ」と思います。

 なので、人間の脳が行っている情報処理を、コンピューターで代替するのは簡単なことではなく、また、できたとしてもとんでもないエネルギーを使うことだ、という感想になります。

 が、しかし、ホーキンス氏は、それでも人工知能技術の発展は「自分の予想も裏切る」めざましさがあるので、いずれ、人間の脳が行っていることのかなりの部分がAIによっても実現されるだろう、と予測しています。

 なので、やはり、「AI侮るなかれ」なのです。
 
 最近は「AIに仕事を奪われる?」ということが話題になりますが、その場合、「では『AIに奪われる』仕事とは何だろう?」を考えることになります。
 この文脈においても、この本を読むことは大いに参考になります。

 この本の解説は、「あの」東京大学大学院教授 松尾豊氏 です。
 
 松尾氏は「この本は私の人工知能研究者としてのキャリアとともにある本である」と書かれています。
 そして、解説の末尾でこのように述べています。
 「端的に言えば、新皮質は予測のための器官であり、AIによって実現し得る。」
 「一方で、本能や感情を司る旧脳、身体やさまざまな感覚は人間に特有のもので、コンピュータで実現することは不可能か、あるいは無意味だ。」

 
 この解説部分もとてもインパクトがありました。
 日本を代表する人工知能研究者の松尾氏は、人間存在を不要とするロボットを作ろうとしているのでは決してなく、むしろ、そんなことは「不可能か、あるいは無意味だ」と言い切っているのです。

 最先端の研究をする学者のモチベーションが、ただただ技術を高めて「人間存在を不要とする」ことを目指すことにあるのではなく、あくまで、「人間がより活きる」ためのツールの開発の研究にあることが分かります。

 
 先日、記号接地問題、今井むつみ氏ら著「言語の本質」について書いた感想と同じで、やはり、「人間に特有」のものの味わいを深くすることがますます重要だということになります。

 「AIに奪われる」部分は、「近現代に、人間が機械のようになろうと(涙ぐましい努力をして?)こなしていた」部分でしょう。
 とすれば、人間が、機械のようになることを余儀なくされるのではなく、より人間らしくある、そのためのツールとしてのAI技術の進化を喜ぶべし、と考えます。

 
 


 
 
  


 


 


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「接地」の重要性(3完)~AI時代に、人間がより人間らしく  [読書するなり!]

 夏の読書感想文を兼ねた、

「接地」の重要性(1)~AIでない人間の学習について
「接地」の重要性(2)~「強い接地」の必要性

の続きです。



8 「接地」の喜び、充実

 AIの課題として、「記号接地『問題』」といわれるけれども、人間にとってこれは「問題」というより、人間としての存在意義のようなものを示していると思う。

 「記号」である言葉が表す「意味」を、認識し、味わうことができるのは人間だけだ。

 もちろん、AIも視覚や聴覚を持つロボット、空間の3Dモデルを実装すれば、地球上に存在する物の形などと言葉を結び付けていくことができる。
 しかし、それは人間が、言葉の指す物を味わっているのと同じにはならない。

 散りゆく花びらに「もののあはれ」を感じる、これをAIが本当の意味で「接地」することは考えにくい。

 もしあるとすれば、AI自身が、自分自身の存在が時間的に限られたものである、すなわちいつか滅ぶものであることを感じ、そのことに痛みを覚えている、というSF的世界になっている(カズオ・イシグロ「クララとお日さま」では、そのような感情を持つアンドロイドが登場する)。
 そのようなAIを作ること自体が絶対不可能ではないにしても、生物である人間が機械でできたAIにそのような性質を付与する動機は自然には考えられない。
 人間にAIが融合するとき、感情についても働きを補うため、ということを考えても、それはもはや、人間の主体性がどこに残っているのか怪しい。このあたりは、AI開発と倫理の問題になってくる。
 
 また、少し話が逸れたが、つまり、こういうことだ。
 今、ChatGPTが持っていない「記号接地」という部分こそが、人の生きる上での実感であり、知的活動の喜び、醍醐味である。
 
 そもそも、言葉や数字、音符などの「記号」を生み出し、概念を他者と共有しようとした、この営みが、人間の知的活動の中でも重要な部分である。
 
 そして、他人がその「記号」の本当に意味するところを知り(すなわち「接地」し)、「記号」を活用することと、自分の実感をあわせて行い、生きていることを感じる、これができるのが人間である。

 このことは社会的動物である人間の幸福にとって、極めて重要な要素であることは疑いないと思う。 


9 AIとの共生の中で、人間が求めていきたい「強い接地」

 今までは、「多数の論文を読み、テーマに沿って、適切にまとめること」などそれ自体が、知的職業の重要な位置を占めていた。
 しかし、そのような情報の集約、要約などで対応できる部分は、最後の責任は人間がとるとしても、少なくとも膨大な時間がかかる「下準備」をAIがしてくれるようになる。
 実際、言葉を扱うというだけ、すなわち、文章としてのアウトプットを人が見ても問題ないレベルに行うだけであれば、「記号接地」していないAIが、あたかも「記号接地」しているのと同じように遂行するということはどんどん精度を増してゆくだろう。

 そうすると、人間の領域として残っていくことは「記号接地」そのものになる。
 
 たとえば、「火の効能と危険性」について問えば、ChatGPTは瞬時に正解をアウトプットする。
 このとき人間がAI(ChatGPT)を協同しようとするならば、AIのできないことを人間が担当することになる。
 それが「記号接地」だ。
 
 そのとき、「火」というものを何となく知っているだけでは「弱い接地」に過ぎない。
 それにとどまらず、たとえば、電気もない真っ暗闇の中で松明だけをたよりに歩を進める体験をする、冬の厳しい寒さの中でたき火の熱を感じる、このような人間の原始的に近い経験を取り戻すことによって、AIにはない人間の領域(「接地」)を強化できる。
 
 もっといえば、「火」を自分で起こし、保存し、扱えるようにすること自体が、動物の行うこととして奇跡的なことであることの実感があればさらに「強い接地」になる。
 
 これからAI時代の子どもの学びの中で、「いかにAIを活用するか」の学習が必要といわれるが、AI活用そのものの技術習得は2次的なものであって、あくまで、人間として言葉や数字などの「記号」を本来の意味と「接地」させて身に着けていくこと自体をもっと重視し、「根っこ」からの知性を強化する方向性にあるべき、と思う。
 
 先ほど、「火」の例を出した。
 誤解してほしくないのは、言葉を操ることをAIに任せて、人間の子どもは原始時代のような体験ばかりすればよい、と言っているわけではない。
 人間として原始的ともいうべき「体験」を追求しつつも、やはり、それを実際に使う「言葉」と結び付けて、「強い接地」のある「言葉」を用いて、豊かな文化的活動ができることを目指したい。
 
 AIに淘汰「される」人「されない」人という、勝ち組・負け組みたいな表現を私は好きではないが、AI時代において人がより意味のある活動ができるための力は、その人の用いる「言葉」一つ一つが持つ意味について「強い接地」を持ち合わせていることだと思う。


10 これから「来る」もの

 今回の記事の締めである。
 これから「来る」、つまり、人が価値を感じる、サービスとしても成り立つ、人間が向かっていく先は、「言葉」の表される「意味」の体験そのものだ。
 あるいは、もう「来つつある」。

 日常生活を送る私たちは、そのままにしていたら、主にスマホ上に流れている大量の言葉や動画による情報の中で漂うだけになってしまう。

 言葉、情報の中で漂い、たとえ、それを最善、最速で処理できたとして、AIに及ばない。虚しい。
 だから、スマホ上で目にする一つの「言葉」、一枚の「写真」について、深く体験すること、その表す意味を本当の意味で知ること、「接地」することを、人々は強く強く求めるはずである。
 そんな暇はない、といっても、本当は心の底で求めるはずである。

 「AIのような仕事」はAIに任せればよい。

 記号接地問題の解決への研究は研究者に委ねてよいが、人間にとっては別に「問題」ではない。

 人間が生きていることを実感できる「記号接地」を深める、体験を深める、また、他者への共感を深める、こういう人本来の活動を取り戻す。

 近代、現代となり、人間が、生活のうち長い時間を機械のような活動に費やさざるを得なくなっていたのだとすれば、その部分をAIに任せればよい。
 
 そして、人間は、人間本来の体験、人間しか味わえない知的活動の喜びを感じられるようにしていくのがよい。
 AIの進化により、人間がより人間本来の在り方にあれるように進んで行ければ、人間の幸福のためのテクノロジーになるだろう。

 私がこのような記事を書こうと思ったのは、やはり、ChatGPTの「脅威」を感じたからだ。
 「間違いだらけだから取るに足りない」などとは全く思わない。
 色んなことが変容する脅威を感じたから、では、人間が人間たる所以とは?ということに改めて関心が強くなった。

 今回、取り上げた「言語の本質」(今井ら著)は、「人間が言語を用いること」「AIが言語を用いること」を深く考える入口として、私にとっては、今年出会った本の中で一番印象に乗った。
 読者の皆さんにも同じ興味があれば、同書を読まれることを是非お勧めしたい。

 そして、現時点での私の考えでは、AIが進化する中で、人間だけに与えられた特権(記号接地、ものごとを味わうこと)をもっと大切にする、遠慮なく享受することによって、人間が「知性」に対する誇りを失うことはないし、人間の幸福度は向上する、と思っている。

                                         完
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「接地」の重要性(2)~「強い接地」の必要性 [読書するなり!]

 夏の読書感想文を兼ねた前回記事

 「接地」の重要性(1)~AIでない人間の学習について

の続きです。
 

5 「接地」の強さが鍵

 小学校、中学校、高校、大学と通い、コースや学部が同じならば誰でもほぼ同じカリキュラムを履修することになる。
 だが、履修する科目、使った教材は同じでも、学習成果は人によって全然違う。
 目に見えるところでいえば、試験の成績に差が出るということでもあるが、学んだ事柄について応用が効く形で身についているか?ということに差が出てくる。

 この差を生むのは、「接地」の「強さ」である。

 高校で数学の勉強をするとき、たとえば、三角関数の分野を勉強するとして、色々なバリエーションの練習問題を行う。
 沢山の練習問題を行う本来の目的は、問題のバリエーションを全て覚えることではない。
 基本原理の理解の仕方、どのように活用するのか、ということについて、「身体で覚える」ための練習をしているのである。そして、見たことのない未知の問題に対しても、基本原理を応用して取り組めるようにトレーニングをしているのである。
 すなわち、ここでは「強い接地」を得る目的で、問題演習を行っているのである。
 
 勉強するときに、この目的 - 「強い接地」を得ること - を常に意識していることが何より大切である。
 つまり、「問題集を今日中に何ページまで終わらせる」こと、とか、「宿題を提出して先生に怒られない」ことなどを「目的」と思っては学習効果はあがらない。
 問題をこなすスピードも人それぞれでよいから、とにかく、集中して、勉強するべきことがらについて「強い接地」を得ることを意識することが大切だ。
 
 難しい数学の問題を解ける人というのは、「沢山の問題や解き方を知っている」のではなく、どの教科書にでも載っている基本原理について「強い接地」を得て、応用が効く状態になっている人である。
 
 数学が一番分かりやすいので例に挙げたが、基本的にどの科目も同じことである。
 
 「強い接地」、いいかえると「腹に落ちる」感覚がなく、表面的に「覚えるだけ」という暗記で対応しようとすると、覚えることが多すぎてとても対応しきれない。
 「強い接地」を増やすことで「表面的な暗記」(言い換えると、最も「弱い接地」)の必要を減らすことができれば、「勉強」では最も成果があがる。

 そして、何より「強い接地」をしながらする勉強は楽しい。
 何も、数学、英語だけではない。
 誰でも、「強い接地」ができる分野があるのではないか。
 音楽やスポーツであったり、または、趣味であったり。
 ポケモンのモンスターの種類、属性、得意技について、単に「暗記」しているだけでなく、十分に味わった上でばっちり頭に入っている状態があるのなら、それは「強い接地」をしている。


6 人間は良くも悪くも「接地」がなければ前に進めない

 ChatGPTに話を戻すと、ChatGPTは記号接地していなくても、どこまでも、ある言葉の次に続く可能性が高い言葉をデータから選んで文章を作っていくことができる。
 そして、言葉が意味するものを理解していなくても、ほぼ正解と言ってよい回答を作ることができる。本物の「わらびもち」を知らずして、正しい「わらびもち」の説明ができる。

 ChatGPTは記号接地していない状態で、無限に進んで行けるという、人間には決して真似できない特徴を持っている。記号接地問題はChatGPT、AIの今のところの限界としてとらえることもできるが、むしろ記号接地せずとも「どこまでも進める」ことが強さでもある。
 
 対して、人間は、記号接地しなければほとんど前に進めない。
 すなわち、「意味を理解していない言葉」を続けて文章を作れ、と言われたとき、1文、2文を頑張って書いたとしても、とても書き続ける気力を維持できるものではなく、普通は400字も書けずに挫折するだろう。
 実際の「わらびもち」を食べたことも見たこともない人が、「わらびもち」の説明を400字書くのは、よほど珍しい環境(「わらびもち」を入手できないが、「わらびもち」に対する強いあこがれだけがある状態)にでもない限りありえない。
 
 これは、「学び」でも一緒である。
 先ほどの分数の例を出すとこうだ。
 小学校時代に分数を学んだ。一応分からないわけではないが、「接地」が弱かった。要するに、あまり「腹落ち」していないが、分数という記号を扱うことは辛うじてできる状態だった。
 中学生になって、分数だけでなく、小数だけでなく、負の数も出てきて、方程式、不等式など扱うものが増えた。
 そうすると、もともと「接地」が弱かった分数の概念について、他に考えないといけないことが増えたせいで、ますます理解があやふやになり、正確に使えなくなった。
 そうなってくると、まだまだ新しい概念、平方根(ルート)や虚数などがでてきても、「強い接地」どころか、「接地」を得る余裕はない。すなわち、数学を学ぶ気力が失せてしまう。
 
 少し、脱線するが、ピアノなど楽器を習っている子は「分数」の概念について、「強い接地」を得るチャンスに恵まれている。
 基本的に、楽譜の1小節は4分の1、8分の1、16分の1に分割される(もちろん、これに限らない。いわゆる「3拍子」は3分の1に分割されるし、5分、7分されるものもある)。
 楽器演奏は、1小節という共通時間を、異なるプレーヤーによって共有する必要があるので、「その中で何拍」という「分数」の考え方を採用する必要がある。
 手足を動かして楽器を演奏し、自分や他人が奏でる音を耳で確認しながら、「分数」の考え方で分けられた時間のどこに自分がいるのかを常に意識することになる。
 音符を読むときも、常に、「4分音符が3つあれば、あと4分音符が一つ分」という意識を持ちながら読むことになる。
 目、耳、手足とを一緒に動かしながら、「分数」を感じ取るトレーニングをしていると言い換えることもできる。
 もっとも、目的は「分数」の習得ではなく、「音楽を奏でる」というより楽しいことであることがさらに良い。
 ということで、「東大生のやっていた習い事」などという記事があると、大抵「英語」よりも「ピアノ」の方が上に来るのは、全く不思議のないことだ。子どもにとって「強い接地」をしながら、分数のことも音にまつわる色々、記号の解釈、処理そのほかを学べる習い事だからだ。
 
 さて、話を戻そう。
 算数、数学が、学年が進むにつれ、わけがわからなくなり、全く面白くなくなるのは、「強い接地」が得られなくなり、「弱い接地」さえできなくなり、「記号」の表面をなぞることが精いっぱいになったときである。
 なので、挫折気味になったら、学年のことを気にせず、自分にとって「強い接地」が得られるところまで一旦戻るしかない。これが心情的になかなかできないことであるが、しかし、もしそこまで一旦戻って「強い接地」で学ぶ感覚を取り戻せば、結局はその先にも速く進んで行けるようになる。


7 「接地」という比喩は優れている

 「接地」、「強い接地」という言葉を使ってきたが、この比喩表現は本当に優れている。
 それこそ、私の頭の中では、「強い接地」が得られる表現に感じる。
 
 スポーツで一流の選手がプレーする様子を想像してみよう。
 野球の大谷翔平選手、テニスの大坂なおみ選手、卓球の伊藤美誠選手 … 
 例を挙げればきりがないが、皆、文字通り、「強い接地」をしながらプレーしている。
 
 野球、テニスも卓球も全て球技であり、直接には、「手」で球を投げるか、「手」で持つ「道具」を使って球を打つ。
 なのに、大谷選手たちのプレーの姿、全身の姿を想像すると、しっかりと地面を踏みしめている姿が目に浮かぶ。
 
 その種目に詳しくなくても、私たちは、「強い接地」をしながらプレーするアスリートの姿を想像できる。

 これと比較すると、例えば、ほのぼのした草野球の光景では、プレイヤーの下半身が地面を捉える度合いは大谷選手とは比べようもなく弱い。
 そこに立ってはいるが、強い「接地」をしているわけではない。
 むしろ、この頼りなさが、素人の野球の「ほのぼの」した感じを醸し出しているともいえる。
 この様子も、野球の素人でも簡単に想像できる。
 
 「記号接地問題」というのは、AIについて語られるとき「接地」しているか否かの問題として語られるのが普通であるが、人間については「接地」の有無だけではなく、「程度(強弱)」あるいは「内容」が重要になってくる。
 そして、「強い接地」が得られることが、人間にとって知的な喜びにとって重要な要素だと思う。
 

つづき
 「接地」の重要性(3)~AI時代に、人間がより人間らしく 
 

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「接地」の重要性(1)~AIでない人間の学習について [読書するなり!]

 このブログでは毎年ではありませんが、「夏の読書感想文」というのが恒例になっています。

 今や、ChatGPTが「読書感想文」を書いてくれる、それをそのまま学校に出したら?という時代。

 今年はまさに、それがテーマ。

 AIと、人間が使う言語とを掘り下げた本。


言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか (中公新書)

言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか (中公新書)

  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2023/05/24
  • メディア: Kindle版



 この読書感想文という意味と、私が、ChatGPTなど生成AIの発達のなかで、人間の知的活動について考えたことを書いてみたいと思います。

1 はじめに

 今、ChatGPTが注目されている。
 私も、試しにChatGPTを使ってみて驚いた。
 「弁護士事務所のBCP(事業継続計画)について必要なことを教えてください」と打ち込めば、数秒で、4項目にわたって、災害や疫病による非常事態に備えてリモートワークの体制を作っておくことその他の対策が整理した文章で回答されてきた。
 このようにChatGPTに、様々な質問を投げかけると、「まず間違いではない」と思われる回答が、一瞬で返ってくる。
 そして、ChatGPTなどAI自体もまだまだ発展の入口に居る状態だから、今後バージョンアップすれば、回答の精度もどんどん上がっていく。

 そんな現在、未来に、「知能を使う動物」である人間は、どうやって生きていけばよいのか。
 教育現場でも、ChatGPTをどう活用するか、は世界中で議論の対象になっており、文科省も先日「小中学校向け生成AIガイドライン」を公開した。
 子どもたちの学びにおいて、ChatGPTなどの生成AIを用いれば一瞬で課題が終わってしまう。それを禁止するのか、または、そもそもそのような課題に子どもが取り組む意味がないと考えるのか、計算機と同じで一定条件で「使用可」とするのが正解か?
 多くの人が、もやもやを抱えながら迷っているのが現状であると思う。

2 私の直感したこととこの本「言語の本質」

 一方で、私は、ChatGPTを試しに使ってみたとき、次のようなことを感じた。
 現時点では、ChatGPTは、アイデア出しや要約などには活用できるが、責任を伴う事柄について正確性を期さなければならない部分などにおいては、まだまだ使い物にはならない。
 法律の分野では、ありもしない裁判例をさも存在するかのように回答するなどの報道がなされている。
「ハルシネーション」(幻覚)と呼ばれる現象だ。
 確かに、ChatGPTに質問をしたとき、種類によっては「明らかに間違っている回答」が断定的になされることがある。
 私は「ピタゴラスの定理の証明」をChatGPT(このときはGPT-3.5)に問うたが、全く証明になっていない、意味不明の回答が返ってきた。
証明になっていないことを指摘しても、それに対してChatGPTから返ってくる答えも答えになっていなかった。

 もちろん、正確性の部分でも、生成AIの精度は上がっていく。
 たとえば、「数学の証明」が何たるかのルールを学習させた生成AIを作れば、この「ピタゴラスの定理」などはちゃんと回答できるようになるだろう。
 
 しかし、それでも、全く間違いがないと言い切ることはできない。
A Iが出した回答が正しいとして採用する責任そのものは、ほとんどの場合人間が負わなければならない(これは、それを用いる場面における「契約」の問題である。AIの回答をそのまま採用することで当事者がよしとするならそれはOKである。とはいえ、当面、生命身体や重要な財産に関わる問題について、「人間が正誤の点について責任を負わない」ことに同意する人は少数と思われる)。 
 
 そうしたとき、AIに何らかの作業をさせるとして、作業を「させる」という主体は人間であるから、最終的には、人間自身が「厳密さ」を実現できる知能を実現できる範囲、言い換えれば、人間がAIの成果物を正しく評価できる範囲でしか、AIを活用できないのではないか。
 
 逆に、本当の意味で、AIが人知を超えて動く場合には、もう人間は「主体」でなくなっている。この場合、その事柄にかかわる人間の運命は(極端の場合、生死さえ)人間のコントロール下にはなくAIに委ねられるのであるから、その「諦め」が必要となる。
 
 さて、これからの時代に、AIを利用する、あるいはAIとともに活動する人間は、どのように学びを進めて行くべきだろうか。
 私は、これからの時代こそ、鉛筆で紙に文字や数字や図を書きながら、そんな身体の実感を伴いながら頭を動かす学びこそが重要になると直感した
 AI時代であるからパソコン、タブレットを利用する機会が増えるだろう、だから、敢えてそこにない要素である「身体性」が重要、というような感覚で。

 そういう直感をした後に、「言語の本質」(今井むつみら著 中公新書)を読んだ。
 この本を読み、またAIや人間の頭脳に関する本や記事を読み、考えるなかで、これは「接地」の問題なのだと思った。


3 記号接地問題
 AI(人工知能)の限界といわれる課題として、「記号接地問題」がある。
 たとえば、私たち人間が「わらびもち」という言葉を聞けば、透明のゼリー状のかたまりであり、崩れてしまいそうで崩れないくっつき具合、箸や爪楊枝でこれを扱おうとするときに少し器用さの必要な感じや、口に入れたときのとろんとした感触、甘さがあるが清涼感のある味わいなどをたちまち想起する。
 このように人間であれば、「わらびもち」という単語が身体感覚とつながって理解される、このことを「記号」である言葉が身体感覚や経験を伴う意味と「接地」しているという。
 そして、人間ではないAIでは「記号接地」ができないという「問題」があるとされる。
 ChatGPTは、実物の「わらびもち」を知らぬままに、「わらびもち」という言葉を扱っているし、「わらびもち」の説明もほかの言葉を用いて行う(そして、その説明はおそらく正しい。けれども、やはり、ChatGPTは「わらびもち」本体を知らない。「記号接地」していない。)


4 「接地」をしながら進んで行けるかどうか

 AIではない人間の「学び」の鍵は、そのプロセス、プロセスにおける「接地」である。

 前掲書「言語の本質」では、1/2 + 1/3に最も近い整数を0、1、2、5のうちから選べという問いに対して、中学生の正解率が38.5%だったという調査結果が紹介されている。

 日本の子どもの学力低下、がテーマではない。
 小学校で分数の単元を履修していて、中学校に行ってからも当然分数を扱っていても、分数の意味の「接地」ができていない子どもの割合は意外と大きいということである。
 「分数」のように小学校で履修する概念が「接地」できていない場合には、当然、中学校、高校に行って、より複雑な演算や方程式の方法を習っても、十分に使いこなすことは難しくなる。

 算数、数学の学びにとってまず重要なことは、例えば私立中学校の入試問題にあるような難問を解けるようになることではなくて、「分数」の意味などの基礎概念を、ちゃんと「接地」しながら学びを進めて行くことである。
 私は、算数、数学に苦手意識を持たない子は、学校のカリキュラムより「1学年だけ」先取りで勉強を進めていくくらいがちょうどよいと思っている。よほど得意な子はそれ以上先取りするのも悪くはないが、「1学年だけ」先というのがより多くの子どもにとって無理なく、確実な「接地」を得ながら学びやすいという気がする。 
 もちろん先取りしなくてもよい。その学年の勉強を確実に「接地」しながら進んでいけば本来十分である。

 AIも学習する。しかし、人間のように、「記号」である言葉の真の意味と「接地」しなければならないわけではない。
 これに対して、人間の学習は、学ぶ概念を本当の意味に「接地」しなければ前に進んで行けない。


つづき
 「接地」の重要性(2)~「強い接地」の必要性
 

 
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「限りある時間の使い方」(オリバー・バークマン著) [読書するなり!]





 今年の夏の読書感想文はこれ!という一冊でした。

 私は、

time is moneyではなく、time is life

時間は交換価値ではなく、命、人生そのもの

と思っています。

 この本は、いわゆるタイムマネジメントや時間節約術の話ではありません。
 むしろ、時間をコントロールしようと思うと、時間のなさにいっそうストレスを感じる。これを、「制約のパラドックス」と表現して、この発想から自由になることを説いています。

 先日から、私は、人が「スマホに気を取られること」が幸せを味わうことの邪魔になること、そこから自由になることについて、

「繋がらない権利」
https://h-m-d.blog.ss-blog.jp/2022-08-04
https://h-m-d.blog.ss-blog.jp/2022-08-05

「デジタル・ミニマリスト」
https://h-m-d.blog.ss-blog.jp/2022-08-09

と題して記事を書いていますが、この本もそれに関係します。

 スマホだけではありませんが、何かに意識を乗っ取られながら時間を過ごすと、「意味のある体験」ができない。
 つまり、限られた時間をよく生きることができない、ことが述べられています。
 この本は、「ミシュラン星付きレストランでの最高の食事も、心がどこか別の場所にあれば、インスタントラーメンと変わらない。」としていますが、大変分かりやすいたとえです。
 さらにいえば、無意識レベルから集中した状態で味わえば、ミシュラン星付きでなくても、日常の食事でも美味しくなるはずだ、と私は思います。

 先日紹介した「デジタル・ミニマリスト」(カル・ニューポート著)は、SNSサービス業者の「注意を乗っ取る」仕掛けに主な原因があるという点に重点を置いていますが、この本は少し違う切り口から論じています。

 この本曰くは、

「敵は内部にいる。
 人の心のなかには、SNSに限らず、気を紛らわせてくれる何かを求める傾向があるようだ。」

として、それぞれの個人の心の傾向にスポットを当てています。

 自分自身が、「気を紛らわせてくれる何か」を求めるのではなくて、今この瞬間に注意を集中させるためにはどうすればよいのか?その心持の在り方に迫っています。

 この本は、いかなる時間も、何か「本番」のための「準備時間」ではなくて、その瞬間こそが「本番」であるべきだ、という考え方に立っています。

 私の解釈が入りますが、次のようなことです。 

 楽しいことでも成長につながることでも、やりたいことをいつかやろう、『でも今は何かの準備時間』という意識で過ごしていては、いつまでも『本番前の準備時間』が続くのみ。
 今日、今この瞬間こそが、『本番』。それが、受験勉強中とか部活の練習日であっても、それはそれで『本番』の時間であるべきだ。
 これは心の持ちようのことですが、「どうせ今は準備時間だ。」と考えて、真剣に、時間に向き合わないのは勿体ない、真正面からその時間に向き合えば在り方が変わってくるはず、ということだと思います。

 スマホ自体に、スクリーンを見ている時間を管理する機能も備えられるようになりました。
 テクニック的に、スマホ依存をやめる方法というのも大切です。
 が、それとともに、

心の「内側」がどうあろうとするのか
本心は、どのような時間の過ごし方をしたいのか

というこの点を、もう一度見つめなおすということが根本的に大切、というのはその通りだと思います。

 
 命そのもの、人生そのものというべき、何より大切な時間を、心から大切にする、そのための心持ち、勇気をくれる本です。
 誰に遠慮することなく、自分が本当に「大切にしている」と思う時間の過ごし方をしていいんだよ、と背中を押してくれる感じがします。

 そして、多くの人にとって、この本を読む『時間』がとても良い時間になるだろう、と思えます。

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「デジタル・ミニマリスト」(早川書房 カル・ニューポート) [読書するなり!]

 このところ、「繋がらない権利」について記事を書いていますが、これに通じる話です。



デジタル・ミニマリスト スマホに依存しない生き方 (ハヤカワ文庫NF)

デジタル・ミニマリスト スマホに依存しない生き方 (ハヤカワ文庫NF)

  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2021/04/01
  • メディア: Kindle版



 
 気づけば、一日中スマホばっかりみている、ということが多くないでしょうか?

 「繋がらない権利」は、職場との関係でオフの時間を確保するという権利、自由の話です。
 
 しかし、職場との関係はオフでも、そのオフ時間をスマホばっかりみて暮らすことにならないか?
 放っておくと多くの人はそうなってしまいます。
 それは別に、個人の心がけが悪いからではありません。
 「アテンション・エコノミー」(注意経済)と言って、画面上で、どんどん人の注意を惹きつける仕掛け、それによって儲かるサービスに支配されているからです。
 私も使っている、Facebook、Twitterが代表例として本では挙げられています。

 ポイントは、「時間の使い方」で、自分が本当に幸せを感じられる時間の使い方は何だろう?ということ。
 もし、「スマホを一日中見ていたけれども、それが本当にやりたいことで、充実感、幸福感がある」のなら何の問題もないのです。
 が、スマホがなかった時代に比べて、「やりたいことが進まず、結局スマホをみて大半の時間を過ごしたけれども、空虚な感じだ」ということが増えているのではないか?
 それは、本当に自分がスマホやデジタルサービスを使うか使わないかを「選択している」のではなくて、「依存」させられているだけではないか?
 それにより結局、全体として人生の充実度が下がり、幸福感が低下していないか?
 こういうテーマです。

 「デジタル・デトックス」は、たとえば、まる一日など、一時的にスマホ等から離れることです。
 「デジタル・ミニマリスト」とは、常の暮らし方として、デジタルの利用をミニマムにするあり方のことです。

 Facebookに書き込んだら、「いいね」が増えていないかをチェックしてしまう、というような依存習慣をどうやったらやめられるか。
 方法論もいくつも紹介されています。Facebook、Messenger、LINEなどのサービスを仕事でも使っている人が、それをやめるわけにもいかないので、サービスの「よいところだけ」を活用するにはいかにすればよいか、を考える手助けになります。

 この本の一節に、
「デジタル・ミニマリズムの有効性を支えているのは、利用するツール類を意識的に選択する行為そのものが幸福感につながるという事実だ」
とあります。

 そうなんです。
 本当に、自分が最善と思ったものを「意識的に選択」できていれば、自己肯定感も上がるし、実際に悔いのない時間を過ごせる。
 これは、デジタルに限らず、仕事、勉強、趣味なんでもそうです。
 人に決められたわけでも、何かに流されたわけでもない。
 (できるだけ純粋に)自分でしたいと思って意識的に決めたことができているなら、それは幸せですよね。

 私は、このブログもそうですし、事務所HPやFacebook、Twitterでの発信が多い方だと思います。
 なので、デジタルツールのヘビーユーザーだと思います。
 
 考えてみると、
・ 記事などを書いている時間
・ そのために情報を収集している時間
は画面を見ていても、「有意義な時間」です。

 が、
・ いいね、やコメントが増えたかな と思って何度もチェックする時間
・ 単に暇つぶしのようにFacebookのニュースフィールドをスクロールする時間
・ 何かをしている最中に、スマホの通知が目に入ってしまい、意識をもっていかれる時間
は「良くないなあ」と思いながらも、ついついそうなりがちでした。

 後者の方を「自分でコントロールする」工夫が必要、ということです。

 この本を読みながらいくつか実践したことがあります。

1 ランチタイムに、スマホを持たずに外出する。
2 食事中はスマホをみえる位置に置かない。
3 外出中、移動中も、「電車に乗ったらスマホ」「タクシーに乗ったらスマホ」、「歩きながらでもスマホ」という癖になっていることに気づいた。
 → その癖をやめる。
   「スマホチェック」したくなったとき、意識的に「チェックしない」ようにする。
4 逆に「スマホチェック」する時間帯を決める。
  午前9時とか、昼食後とか、帰宅後すぐ、とか。
5 Facebook等の投稿をしても、次の「スマホチェック」時間まで「いいね」「コメント」を確認しようとしない。
 → 最初、反応を確かめたい気持ちがあるが、抑える。
   次の「スマホチェック」時間まで放置。
6 (屋内の活動として)スマホではなく、紙の本、テレビ画面で見るものを増やす。
  時間ができたら、体を動かして行うこと(片付けなど)をする。

 1週間くらいでこの本を読んでいましたから、この本のエッセンスを意識しながら、実際に上記のことにちょっとずつ取り組んでいます。
 
 ちょっとしたことなのですが、心も体も楽になり、頭がよく働くようになることに気づきます。
 一人で考えること、風やにおいを味わうこと、その場に集中することが人間にとっていかに大切かがわかります。 

 気づけば、日常の仕事、私の場合は訴訟等の案件の書面を書くこと、契約書を作ることなどもはかどり、「溜まっている仕事」がゼロになっています。
 ほんの1週間~10日の取り組みでの変化です。

 とはいえ、癖になっていることは簡単にはなくならず、気づけば、メールソフトの送受信ボタンを何度も押している、とか、そういうこともあります。
 まだまだ、改善の余地はあります。
 
 デジタル・ミニマムであること、本当に大切なことに集中すること。
 これは、今、多くの人にとって見つめなおすべき最重要なことです。
 自由業である私だから「デジタル・ミニマム」化しやすい、と思われるかもしれませんが、会社員や公務員、その他組織に属する人でも、その立場における「デジタル・ミニマム」を考えることは同様に可能です。
 「自分でツールを使うかどうかを選んでいる」ことが幸福であるというエッセンスは全く同じです。

 もし、職場などで、「人の集中を妨げる」「オフの時間を乱す」ツールの使い方が横行する環境になっているならば、今一度、「個人個人が、必要なことに集中できる」という価値に重点を置いた環境づくりを考えてみるべきだと思います。
 その価値と共通するのが、「繋がらない権利」(時間外の連絡を受けないという労働者の自由)の考え方です。
 「オン」の時間内の集中が非常に大切です。
 それには、「オン」の時間内に、できるだけスマホやPCから発せられる色んな通知に必要以上にさらされない(もちろん、リアルの人の声かけも同じですが)ことと、「オフ」の確保・真の充実によって「オン」の時間の集中力を高めることの両方が必要。

 私が今、関心があり、取り組みたいことの一つが、この「すべての人が、本当に大切なことに集中できる」環境づくりです。

 ともかく、この本は、この本に書いてあるとおりにするかどうかは別として、「本当に大切なこと」と「デジタルとの付き合い方」を考えるヒントになりますので、大変おススメです。
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「不寛容論」~アメリカが生んだ「共存」の哲学 新潮新書・森本あんり氏 [読書するなり!]


不寛容論―アメリカが生んだ「共存」の哲学―(新潮選書)

不寛容論―アメリカが生んだ「共存」の哲学―(新潮選書)

  • 作者: 森本あんり
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2020/12/16
  • メディア: Kindle版



 私は、リアルでも、ネット上でも「攻撃的な言葉」を見たくない気持ちが強い。
 価値観は人それぞれだし、違う考えの人を人格攻撃するかのように攻撃するようなことは決してしてはならないと思う。
 価値の多様性こそ、民主主義の前提である。
 大抵のことは「攻撃せず」「怒らず」に、「見解の相違ですね」と紳士的に対応したい。
 とはいえ、私でも、「これは許せん!」という風に思うこともあるし、また、もう一つ難しい問題が、「『価値観の多様性』を認めない考え方に対してはどうするか?」。
 それも、考え方の違いとして、相手の立場を尊重できるか?
 
 「寛容」ということについても、色々パラドックスがある。

 たとえば、他人の不寛容を非難して、『寛容になれ』という。
 しかし、これは、寛容を強制する、という不寛容になる。

などなど、考えれば考えるほど「寛容」は深いテーマ。
 ということで、読んでみました。以下、読後の感想。

 『寛容』というのが、漢字の雰囲気のように、大らかで気持ちいい、というものでは、実際にはなかった、という新大陸開拓時代の話でした。
 ロジャー・ウィリアムズという、あらゆる宗教への寛容、先住民との共存を唱え実践した人の話が中心。
 しかし、先住民の宗教、キリスト教の中でも他の宗派も否定せず、その在り方に介入しないというのは、すごく進歩的な在り方だ。
 ところが実際それは全然心地よいものではなく、ウィリアムズ自身にとっても「ブチ切れ案件」が続出するし、市民社会秩序とぶつかり合いまくることになった。

 やっぱ、人間相手なので、ムツゴロウさんみたいにあらゆる生き物と笑い合える感じには到底ならない。

 こういう歴史も踏まえて、この本が分析するには、『寛容』とは、みんな違ってみんないい、みたいな単にいい感じのものでなくて、『最低限の礼節』がそのエッセンスである、と。

 不愉快な隣人の行う不愉快な儀式があったとして、それを決して邪魔しない、その点において尊重する。
 そういう忍耐を伴う『最低限の礼節』だという。

 さて、現代において。
 多様性、ダイバーシティの尊重は、本当の意味では『きれいごと』ではない。やっぱり、忍耐、不愉快との戦い、自分との戦い、自分がバージョンアップできるかの修行だ。

 私も、正直言って、感性が9割くらいあう人とだけ時間を過ごす方が心地よいし、それで一生終わって何が悪いか、とも思う。

 が、社会で生きるのは、現実、そうもいかない。
 不愉快な隣人を排除し続けるのにも色々支障が生じる。
 例えば、ビジネスなどは、どうしても嫌な人とだって付き合う必要があるのが常だ。

 もともと人は『不寛容』なもので、『最低限の礼節』という意味での『寛容』は、色んな考え、立場の人がいる社会で『生きやすく』あるためのスキル、と理解しよう。

 以上のようなことが実感とともに学べる本で、「社会で生きる」あらゆる人におすすめできる本です。
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『実力も運のうち 能力主義は正義か?』マイケル・サンデル [読書するなり!]





 久しぶりの夏の読書感想文、今年はこの一冊。

 私の子どもの頃、祖父はいつも「能ある豚はヘソを隠す」の格言を口にしていました。
 もちろん、「能ある鷹は爪を隠す」のもじりですが、いつも何か「ひねらなければ」気が済まない祖父は、好んで「能ある豚」と言っていました。
 当時は、この格言(ことわざ?)、「謙虚」というのが生きる知恵、「出る杭は打たれる」を反対から言っているということと理解していました。
 しかし、この本を読んだ今、「能ある豚はヘソを隠す」のは、自分が謙虚なることが生存戦略であるだけではなく、世の中を本当に良くする知恵ではないか、と思えてきました。

 さて、「能力主義」の何がいけないのでしょうか?
 コネなどではなく、人種差別、性差別でもなく、「能力」で成功がきまる社会は公平そのものでは?

 日本国憲法にはこんな条文があります。

憲法26条

すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。

 「ひとしく教育を受ける権利」の前に、「その能力に応じて」とあるのです。
 憲法も「能力主義」を認めているではありませんか?

 しかし、

「能力ある者」  ⇔ 社会的地位が高い、稼ぎが多い
「能力のない者」 ⇔ 社会的地位が低い、稼ぎが少ない

という図式はどうでしょうか。
 こうなると、違和感か、反感か、余りプラスではない感情を抱く人が多いのでは?
 
 そもそも社会に出て職業に就くというときにいう「能力」とは何でしょう?
 プロ野球選手とかよほど一芸に特化した職種を除けば、「学業成績」一辺倒で判断されがち。
 本来の人間の能力はそんな単純なものではないはずですが。

 マイケル・サンデルは、アメリカ社会の中で
・ 大卒者
・ 非大卒者
が完全に「分断」されており、いわゆる「ブルーカラー」(肉体労働などの現業を中心とした労働者)が社会的に軽んじられていると感じていることを強調します。

 そして、強者と弱者の格差を是正する政策を掲げるはずの「リベラル派」「中道左派」こそが、実際には「エリート」支配の考え方に支配されている、そのために「ブルーカラー」の票はそこに集まらず、ポピュリズムが隆盛する、と指摘します。

 確かに、日本でもそういう違和感を感じることが常にあります。
 格差是正を訴える野党の幹部は、ほとんどが名門大卒の「エリート」で占められています。
 そのこと自体が別に悪いことではありませんが、「偏差値輪切り型」の物の考え方から抜け出せない人の割合が高いことは、物事の発想を狭めているのではないか?という感もあります。
 
 もっと深刻なのは、日本でもアメリカでも、格差是正を訴えているはずの「リベラル」政治家が、言葉の端々にエリートくさい「能力主義」を出してしまうことで、多くの労働者から本当の味方と信じてもらえないことでしょう。


 この本は、能力主義は「労働の尊厳をむしばむ」と指摘します。

 これはよくわかります。
 私が大学生の頃、塾講師をしていたころ、母親が子供に
「しっかり勉強すれば、○○先生のように○○のような職業に就けるのよ。そうしなければ、○○か、せいぜい○○にしかなれへんのよ。」
と、本当に言っているのを目の当たりにして驚いたことがあります。
 それも何回も。
 こういう母親に悪気はありません。
 しっかり努力した、能力を磨いた証が「○○先生の○○の職業」だから尊い、と励ましているのです。
 でも、「そうしなければ○○」の「労働の尊厳」は?
 そんな「身分社会」みたいな発想は悲しくないか?
 
 能力を一直線で、偏差値のようなもので輪切りにする発想ではなく、それぞれが持ち味を発揮して助け合えばよいのではないのか。
 「能力」というのも、学業成績だけでなく、対人能力だけでなく、もっと広く捉えて、持ち味を尊重して活かすべきではないか。
 いわゆる多様性(ダイバーシティ)というのは、一辺倒な感じの「能力主義」を打ち破ることではないか、と思えます。
  
 アメリカは日本よりもさらに苛烈な「能力主義」社会のようです。
 日本には、「能ある豚」ならぬ「能ある鷹」のようなことわざもあり、謙虚は美徳であるという伝統もあり事情は違うかもしれません。
 ただ、20,30年前と違って、「試験の順位、点数」が良ければプロフィールに書かなければならない(書かなければ損)という時代になってきたように思います。
 昔は、余りそういうことを書くのは「品がない」という感覚がありましたが。
 一直線型の「能力主義」は、昔より顕著になっていると感じます。

 次世代の子に対してどういうメッセージを発するかはデリケートです。
 力が伸びる若いうちに、勉強して吸収できることはしっかりやってほしい。
 成績が上がるのも、目標の学校に入れるのも、励みになるから、結構なことだ。
 そこまではいい。
 続けて、「『序列』はない。成績が良いとき人を見下すことは決してしてはならないし、良くないとき卑屈になることも必要ない」と言いたいが、そのメッセージは「嘘くさく」なってしまわないか。その懸念はある。
 だが、懸念はあれど、「嘘くさく」聞こえようが、大切なメッセージは臆せず伝えることこそが大人の役割のように思います。

 それにしても「偏差値」分布表の罪は大きいですね。
 あれを見ると、そりゃ「東大理Ⅲ」が日本人の頂点、金メダル、一番偉い人に見えますから。
 そんなの関係ねえ(古すぎる)、と心から思える人は一握り。
 確かに、進路選択のツールとして偏差値を参考にしなければ受験生にとって基準がなくて怖いのですが。
 ツールだっただけのものが「順位表」になってしまって久しい世の中で、一直線型「能力主義」を脱して、社会全体の中で、互いが互いの労働の尊厳を心から認め、「優劣」「序列」でなく「持ち味の違い」で助け合える世になるようにするには、教育機関も、経済界も、国や自治体も、大人のすべてが考え方を変えていく、たとえば、ちょっとずつ日ごろの言葉遣いから変えていくしかないように思います。
 その「道しるべ」を示してくれる内容の濃い一冊です。
 
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