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「接地」の重要性(1)~AIでない人間の学習について [読書するなり!]

 このブログでは毎年ではありませんが、「夏の読書感想文」というのが恒例になっています。

 今や、ChatGPTが「読書感想文」を書いてくれる、それをそのまま学校に出したら?という時代。

 今年はまさに、それがテーマ。

 AIと、人間が使う言語とを掘り下げた本。


言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか (中公新書)

言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか (中公新書)

  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2023/05/24
  • メディア: Kindle版



 この読書感想文という意味と、私が、ChatGPTなど生成AIの発達のなかで、人間の知的活動について考えたことを書いてみたいと思います。

1 はじめに

 今、ChatGPTが注目されている。
 私も、試しにChatGPTを使ってみて驚いた。
 「弁護士事務所のBCP(事業継続計画)について必要なことを教えてください」と打ち込めば、数秒で、4項目にわたって、災害や疫病による非常事態に備えてリモートワークの体制を作っておくことその他の対策が整理した文章で回答されてきた。
 このようにChatGPTに、様々な質問を投げかけると、「まず間違いではない」と思われる回答が、一瞬で返ってくる。
 そして、ChatGPTなどAI自体もまだまだ発展の入口に居る状態だから、今後バージョンアップすれば、回答の精度もどんどん上がっていく。

 そんな現在、未来に、「知能を使う動物」である人間は、どうやって生きていけばよいのか。
 教育現場でも、ChatGPTをどう活用するか、は世界中で議論の対象になっており、文科省も先日「小中学校向け生成AIガイドライン」を公開した。
 子どもたちの学びにおいて、ChatGPTなどの生成AIを用いれば一瞬で課題が終わってしまう。それを禁止するのか、または、そもそもそのような課題に子どもが取り組む意味がないと考えるのか、計算機と同じで一定条件で「使用可」とするのが正解か?
 多くの人が、もやもやを抱えながら迷っているのが現状であると思う。

2 私の直感したこととこの本「言語の本質」

 一方で、私は、ChatGPTを試しに使ってみたとき、次のようなことを感じた。
 現時点では、ChatGPTは、アイデア出しや要約などには活用できるが、責任を伴う事柄について正確性を期さなければならない部分などにおいては、まだまだ使い物にはならない。
 法律の分野では、ありもしない裁判例をさも存在するかのように回答するなどの報道がなされている。
「ハルシネーション」(幻覚)と呼ばれる現象だ。
 確かに、ChatGPTに質問をしたとき、種類によっては「明らかに間違っている回答」が断定的になされることがある。
 私は「ピタゴラスの定理の証明」をChatGPT(このときはGPT-3.5)に問うたが、全く証明になっていない、意味不明の回答が返ってきた。
証明になっていないことを指摘しても、それに対してChatGPTから返ってくる答えも答えになっていなかった。

 もちろん、正確性の部分でも、生成AIの精度は上がっていく。
 たとえば、「数学の証明」が何たるかのルールを学習させた生成AIを作れば、この「ピタゴラスの定理」などはちゃんと回答できるようになるだろう。
 
 しかし、それでも、全く間違いがないと言い切ることはできない。
A Iが出した回答が正しいとして採用する責任そのものは、ほとんどの場合人間が負わなければならない(これは、それを用いる場面における「契約」の問題である。AIの回答をそのまま採用することで当事者がよしとするならそれはOKである。とはいえ、当面、生命身体や重要な財産に関わる問題について、「人間が正誤の点について責任を負わない」ことに同意する人は少数と思われる)。 
 
 そうしたとき、AIに何らかの作業をさせるとして、作業を「させる」という主体は人間であるから、最終的には、人間自身が「厳密さ」を実現できる知能を実現できる範囲、言い換えれば、人間がAIの成果物を正しく評価できる範囲でしか、AIを活用できないのではないか。
 
 逆に、本当の意味で、AIが人知を超えて動く場合には、もう人間は「主体」でなくなっている。この場合、その事柄にかかわる人間の運命は(極端の場合、生死さえ)人間のコントロール下にはなくAIに委ねられるのであるから、その「諦め」が必要となる。
 
 さて、これからの時代に、AIを利用する、あるいはAIとともに活動する人間は、どのように学びを進めて行くべきだろうか。
 私は、これからの時代こそ、鉛筆で紙に文字や数字や図を書きながら、そんな身体の実感を伴いながら頭を動かす学びこそが重要になると直感した
 AI時代であるからパソコン、タブレットを利用する機会が増えるだろう、だから、敢えてそこにない要素である「身体性」が重要、というような感覚で。

 そういう直感をした後に、「言語の本質」(今井むつみら著 中公新書)を読んだ。
 この本を読み、またAIや人間の頭脳に関する本や記事を読み、考えるなかで、これは「接地」の問題なのだと思った。


3 記号接地問題
 AI(人工知能)の限界といわれる課題として、「記号接地問題」がある。
 たとえば、私たち人間が「わらびもち」という言葉を聞けば、透明のゼリー状のかたまりであり、崩れてしまいそうで崩れないくっつき具合、箸や爪楊枝でこれを扱おうとするときに少し器用さの必要な感じや、口に入れたときのとろんとした感触、甘さがあるが清涼感のある味わいなどをたちまち想起する。
 このように人間であれば、「わらびもち」という単語が身体感覚とつながって理解される、このことを「記号」である言葉が身体感覚や経験を伴う意味と「接地」しているという。
 そして、人間ではないAIでは「記号接地」ができないという「問題」があるとされる。
 ChatGPTは、実物の「わらびもち」を知らぬままに、「わらびもち」という言葉を扱っているし、「わらびもち」の説明もほかの言葉を用いて行う(そして、その説明はおそらく正しい。けれども、やはり、ChatGPTは「わらびもち」本体を知らない。「記号接地」していない。)


4 「接地」をしながら進んで行けるかどうか

 AIではない人間の「学び」の鍵は、そのプロセス、プロセスにおける「接地」である。

 前掲書「言語の本質」では、1/2 + 1/3に最も近い整数を0、1、2、5のうちから選べという問いに対して、中学生の正解率が38.5%だったという調査結果が紹介されている。

 日本の子どもの学力低下、がテーマではない。
 小学校で分数の単元を履修していて、中学校に行ってからも当然分数を扱っていても、分数の意味の「接地」ができていない子どもの割合は意外と大きいということである。
 「分数」のように小学校で履修する概念が「接地」できていない場合には、当然、中学校、高校に行って、より複雑な演算や方程式の方法を習っても、十分に使いこなすことは難しくなる。

 算数、数学の学びにとってまず重要なことは、例えば私立中学校の入試問題にあるような難問を解けるようになることではなくて、「分数」の意味などの基礎概念を、ちゃんと「接地」しながら学びを進めて行くことである。
 私は、算数、数学に苦手意識を持たない子は、学校のカリキュラムより「1学年だけ」先取りで勉強を進めていくくらいがちょうどよいと思っている。よほど得意な子はそれ以上先取りするのも悪くはないが、「1学年だけ」先というのがより多くの子どもにとって無理なく、確実な「接地」を得ながら学びやすいという気がする。 
 もちろん先取りしなくてもよい。その学年の勉強を確実に「接地」しながら進んでいけば本来十分である。

 AIも学習する。しかし、人間のように、「記号」である言葉の真の意味と「接地」しなければならないわけではない。
 これに対して、人間の学習は、学ぶ概念を本当の意味に「接地」しなければ前に進んで行けない。


つづき
 「接地」の重要性(2)~「強い接地」の必要性
 

 
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