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「灘校生『社会』に興味無しか」という記事 [だから,今日より明日(教育)]

 先日、灘校(灘中と灘校をあわせて「灘校」と呼びます)文化祭に行って、灘校の先生とお話ししていました。
 最難関の東大理Ⅲ(医学部コース)への合格者数が圧倒的な日本一である、という今年の灘校の進学成績について、
「確かに、生徒さんの能力はほんと素晴らしいと思うのです。ただ、反面、自分の力に自信のある者が医者ばかり目指すというのでは、世の中偏るじゃないですか。有能な人が、文系の世界にも出て行くということでないと心配です。」
という話をしたところでした。それは私も本当にそう思っているの、というのが先生の答えでもありました。(翌日追記 … 私がこう言ったのは、医学部の進学実績がよい反面、灘校から文系は、20年前だと35%くらいはいたのが、今は25%未満と進学者が大きく減っていることが気になっていたからです。)
 この話は、生徒の進路選択に偏りがある、といって生徒を責める問題ではありません。
 そうではなくて、私たち大人(特に文系の仕事をする大人)が、若い人の進路として魅力的な仕事の現場をつくっていかなければならない、という点が大きな問題なので、私は、そのことを日々よく考えるのですが。 

 で、ちょうどそんなときに、次のような記事が目に止まりました。


リンク: 驚異の医学部合格率を誇る「灘」高校の実態とは - 速報:@niftyニュース

 
 この記事の筆者、灘校OBですが、少し、母校のことを「偽悪的」に言いすぎでは?(全体としては母校の長所を書いた記事ですが)と私は、ちょっと母校をフォローしたいと思います。
 ま、しかし、何せ、母校のことを語るとき、私も同じで、「とにかく俺ら、在学中は無茶苦茶したよね。」みたいに語りたくなる学校であるのは確かです。.(ですが、私が言いすぎたせいで、「そんなシマリのない学校嫌だ」と言って、志望校を変えてしまった小学生がいるやいないや?ということでちょっと最近、私は、母校のことを「偽悪的」に言うのは控えています。)

 確かに、私が生徒の頃に理系の世界にしか興味のない灘校生もいましたが、今年の文化祭でも、震災被害と東北地方の現状についてとても力の入った展示がありました。展示だけでなく、社会問題についてのディスカッションなども相当力の入った企画が作られていました。
 また、今は、中学生の内にアプリを作るなどの活動をしている生徒もいます。

 灘校生が「社会」に興味なし、と言ってしまうのは可哀想です。少なくとも、今は、社会に興味関心を持ち、活動している灘校生はたくさんいる、とフォローしておきます。

 ところで、灘中、灘校受験には、「社会」がない、というのは本当です。
 これを「偏り」と捉えるとそうかもしれません。「社会」軽視か?と。
 ですが、これも私なりに母校をフォローするとすれば、こういうことです。

(私の想像する学校の発想)
 「社会」という科目を受験科目にすると、日本中の山地山脈を丸暗記するとか、歴史の年号を語呂合わせで丸暗記するとか、とにかく、「暗記」「暗記」で小6を終えることになるだろう。

 勉強するなら、細かな知識の「暗記」よりも、思考力のトレーニングを積んで欲しい。

 また、「暗記」に貴重な時間を費やすくらいなら、その負担を軽減して、小学生は少年野球や、虫取りや、将棋や囲碁にでも興じて、柔らか頭に柔らか体を作ってきてもらいたい。(ちょっと発想が古いのは、「社会」なし受験制度をつくった昭和時代を想定してのものです。)


 ↑こんな感じではないか、と思います。
 これはこれでよい発想だと私も思うのです。
 暗記の負担を減らすというのは、
「頭空っぽのほうが夢詰め込める」という昔のアニメドラゴンボールの主題歌の一節のような発想で、私は好きなのです。
 最難関進学校の灘がそういう発想をとっている、ということは、余計に意味があることです。

 ですが、灘の「社会」なし受験がはじまってから、実際には、灘中受験への競争が激しくなりすぎて、算数などは(常識的な大人から見ても、まるで曲芸かのようなレベルまで)極めに極める必要が出てきましたので、現実には、灘中合格を考えると「小学生が少年野球に興じる」余裕は殆どなくなってしまいました。
 結局、「社会」はやらなくてよいですが、その代わりに、算数、国語、理科の勉強をやりまくる、というのが関西の中学受験生の姿になったのです。
 
 そうなってしまった今となっては、「配点は少なくても、あるいは、暗記問題なしの時事問題だけでも、『社会』の試験を導入してはどうでしょう?そうしたら、灘を目指す子たちがもっと新聞読むでしょうから。」というのが私の意見となりました。

 さて、学校を出てからの進路選択に話を戻します。

 これは灘に限らずなのですが、力のある若い人たちが、文系の世界、つまり、「人と人との間」で仕事しよう、という風になってもらうにはどうしたらよいか?

 これは、大きな課題です。
 
 私が文系に進んだのは天の邪鬼だったからです。つまり、灘校生は圧倒的に理系が多かったから、私はそれに逆らって文系に進んだのです。
 文系志望が多い学校に行っていたら、私はきっと理系に進んでいました。
 ですから、私の真似を他人に要求できません。

 ということで、法学部からの進路を私なりに真面目に考えると、

・ 国家公務員の仕事 … 「天下り」などという見返りなど不要なくらいに、その仕事が、クリエイティブでその人の能力をいきいきと活かせる仕事に変えていく必要がある。マシーンのような仕事を要求するのではなくて!

・ 地方公務員も同様

・ 法律家の仕事 … 弁護士をむやみに増やしてビジネス競争させるのでは魅力がますますなくなる。古い制度の錆び付いているところは改めつつ、これも、個々の法律家が創造的に人のためになることをやる、工夫し合う、という雰囲気をつくっていきたい。そういう仕事をしていきたい。

・ 企業就職、起業 … 金儲けだけではなく、人間の幸せに対してもっと深くアプローチした仕事になれば。利益追求だけでは、「理系」の魅力に勝てない。


 そう。最後の「企業就職、起業」で書きましたが、「理系」の魅力は手強いです。
 何と言っても「理系」は明快さが売りです。どんな複雑に見えてもちゃんと答えが出やすい、というのが、強みです。
 対して、「文系」は、分かった人から見れば「1+1=2」と同じくらい明らかなことでも、分かってくれない人には「説得」しなければならない、というしんどさがあります。これ、確かにしんどいです。これがために嫌になることもしばしばです。

 ですから、「文系」に魅力を感じるには、「自分が人の幸せに関わっている」という部分が大切だと思います。
 もちろん、お医者さんも直接人の幸せに関わっています。ですが、また違う部分で、お医者さんの領分ではない部分で「幸せに関わっている」ということを実感できることが大切です。

 そんな風なことで、

「文系」に進んだら、こんな魅力的な仕事が出来るよこんな風にあなたの高い能力を活かせるよ、それはこんな風に人の笑顔に結びつくのだよ

と高校生(灘校生含む)に分かってもらえる世界を作るにはどうしたらよいか、それを日々考えて、1つでもそれを実現していきたい、と今は思っています。

                                                村上英樹(弁護士、神戸シーサイド法律事務所

大学講義がはじまりました! [だから,今日より明日(教育)]

 神戸学院大学での講義「法と裁判Ⅱ」が昨日から始まりました。

 明石駅からバスに乗って20分?、大学キャンパスに。

 学生時代はなんとも思わなかったのですが、大学のキャンパスは広々していて開放的で大変気持ちがいい。

 新鮮な気持ちになりました。


 第1回目の講義は、学生さん100人弱を前にスタートしました。

 最初の内容は、「法とは何か」。

 以前このブログで書いた

 北斗の拳で「憲法」を!(その1 法とは何か) 
 http://h-m-d.blog.so-net.ne.jp/2012-03-07

のような話からはじまりました。

 すなわち、「力の支配」を否定し、理性に基づくルールによって人のトラブルを解決しようとする「法の支配」の意味、なりたちを軽く説明しました。

 そのあと、「法」が体現する「正義」。
 「正義」と一口に言っても、必ずしも単純ではない、人それぞれに違った正義がありえるという問題やら、「道徳やマナーと法とはどう違うか」といった話をしました。

 
 以前から、私が講義・講演をするときに、いつも気になっていたのは、「私の話は、『一方通行』で進めがちである。内容は自分で練っているつもりだけれども、聴き手がどう思っているのかイマイチ分からない。」ということでした。
 そこで、今回の講義は、一応毎回、講義の中でやる内容に関係することなら思いついたことを何でも書いてよい、という趣旨の「ミニミニレポート」を全員に提出してもらうことにしました。

 正直、「何でも思ったことを書いてもらえたら」くらいの気持ちでしたが、もらったレポートを後で読んでみると、感心させられることがたくさん。

 いくつか講義のテーマがあったのですが、例えば、「インターネット上の誹謗中傷やわいせつ表現を法で規制することについてどう思うか」というテーマについて、単に法規制に対して賛成・反対というだけではない意見、「第三の解決」を自分なりに模索すること(具体例 フィルタリング機能の活用、サイト運営者による自主管理の強化など。それと法規制の程度とのバランス。)にまでしっかり踏み込んだレポートを出してくれた人が何人もいました。

 その他にも、例えば、嫡出子と非嫡出子の相続割合が違うという法の定め(民法900条4号。 相続人に、「嫡出子」すなわち、婚姻関係にある両親の子と、「非嫡出子」すなわち、婚姻関係にない男女から産まれた子とがいる場合、相続割合は同じではない。「非嫡出子」は「嫡出子」の1/2の相続割合しかない。)は、どういう「正義」を体現しようとしているか。あるいは、このことは、違った面から見た「正義」と対立してはいないか?というテーマでは、どちらの方向からの意見も頂きました。

 レポートを読むと、その他のことでも自分なりによく考えて書かれたものが多く、今の学生さんたちを十分頼もしく感じます。

 法学部の学生さんたちなので、基本的には、憲法、民法、刑法…といった科目を勉強されています。
 「法学部で勉強することをどう活用して、日々ニュースになることや身のまわりのことをどう見るか、どう考えるか」ということに役立つ講義を目指して、次回からも頑張ろう、と思っています。


                   村上英樹(弁護士、神戸シーサイド法律事務所

いじめ問題と学校・教師の責任 [だから,今日より明日(教育)]

 学校でのいじめ問題、そして、それに関連していると見られる生徒の自殺について、報道されています。
 何年か前にも新聞・テレビで大きく取り上げられましたが、この問題は、時代が変わっても、いつも出てきます。

 いじめがあり、それによって生徒が精神のバランスを崩したり自殺したりした場合に、学校や教師にどのような法的責任があるか、今日は、それを解説していきます。
         
【 いじめに関する裁判例からみる学校・教員の責任 】
  
① 安全配慮義務   教員の職務上の義務として、
   
  学校における教育活動及びこれに密接に関連する生活関係における生徒の安全の確保に配慮する義務   
があります。
    
特に、生徒の生命、身体、精神、財産等に大きな悪影響ないし危害が及ぶおそれがあるようなときには、そのような悪影響ないし危害の現実化を未然に防止するため、その事態に応じた適切な措置を講じる一般的義務がある

とされています。(神奈川・津久井いじめ自殺事件控訴審 東京高裁H14.1.31判決他)

② いじめ問題を考える上で、「守るべき権利、利益」(保護法益)とは何か?

いじめ問題で保護すべき利益は、これまで「生徒の生命、健康、身体の安全等」が中心であるとされてきました。

しかし、本当に、それに限られるのでしょうか。

身がとりあえず安全であるだけでは、その生徒が持っている学習する権利が全うされているとは限りません。
 例えば、「いじめ」によって日常暴力を受けているわけではないけれども、「いじめ」加害者から精神的に圧迫されたり、日常いつもやりたくもない「使いっ走り」をさせられ続けている、としたら、被害者の学校生活は満足なものではなくなってしまいます。

 ですから、いじめ問題を考える上で、生徒には本来「静謐な(落ち着いた、良好な)環境の下での学習(学校生活)に集中しうる権利」があるはずで、それがいじめなどによって害されていないか?ということにも光を当てて考えなければならないのではないか、という問題提起がなされています。

③ どこからが「いじめ」?(どこから学校・教員が介入すべきか)
   
  上記②のいじめ問題で「守るべき権利、利益」とは何か?の議論が関係してきます。
   
  「生徒の生命、身体、精神、財産等に大きな悪影響ないし危害が及ぶおそれがあるようなとき」 
  → これは当然、介入すべき(上記判例参照)ということになります。
   
では、 「冷やかし、からかいの段階」はどうでしょうか。
 教師が子どもの間に介入すべきかどうかはケースバイケースで、微妙な問題になってくるでしょう。
実際の教師の判断はなかなか難しいと思いますが、子どもからの申立がある場合は、きちんと事実関係を調べるなどのことをする必要があるでしょう。
 申立がなくても、子どもの「静謐な(落ち着いた、良好な)環境の下での学習(学校生活)に集中しうる権利」が害されているのではないかと教師が感じる場合は、無視できず、子どもの間に入って関係を調整すべきだということになると考えられます。
 
 そして、「冷やかし、からかい」などであっても、それを受ける当の本人、子どもの主観(受け止め方)を重視すべきです。
 やはり子どもの心の問題だからです。

例えば、裁判例(中野富士見中控訴審判決 東京高裁H6.5.20判決)でも「自分を死者になぞらえた行為に直面された当人の側からすれば、精神的に大きな衝撃を受けなかったはずはない」などとして、悪ふざけと被害を受ける子どもの内面について考察が加えられています。
               
④ 参考裁判例(申告がなければ介入しなくてよいか?に関連して)
  
十三中事件判決(大阪地裁H7.3.24)

 いじめについての観察・調査の義務について、判決は次のように述べています。

「学校側は、日頃から生徒の動静を観察し、生徒やその家族から暴力行為(いじめ)について具体的な申告があった場合はもちろん、そのような具体的な申告がない場合であっても、一般に暴力行為(いじめ)等が人目に付かないところで行われ、被害を受けている生徒も仕返しをおそれるあまり、暴力行為(いじめ)等を否定したり、申告しないことも少なくないので、学校側は、あらゆる機会をとらえて暴力行為(いじめ)等が行われているかどうかについて細心の注意を払い、暴力行為(いじめ)等の存在が窺われる場合には、関係生徒及び保護者らから事情聴取をするなどして、その実態を調査し、表面的な判定で一過性のものと決めつけずに、実態に応じた適切な防止措置(結果発生回避の措置)を取る義務があるというべきである。」

⑤ 対処方法について

  具体的な対処方法は教育者の方の専門領域です。ただ、上記の法的義務から、私が法律家なりに考える対処方法は大筋で次の通りではないか、と思います。
   
  いじめに対しては、状況に応じた、また、加害生徒にも学習権があることを念頭に置いた柔軟な対応が必要でしょう。

 しかし、被害生徒の生命・身体への危険が大きい場合は特に要注意であると考えられます。

 相当事態が深刻化しているときは、加害生徒に口頭注意するだけでは却って危険な場合があるでしょう(仕返しの暴行が行われるだけ、という危険性がありますから)。
場合によっては被害生徒と加害生徒を隔離する処置や、さらに深刻であれば警察介入等が必要な場合も考えられます。

 もちろん、(安易に警察権力に頼るなどというのも問題ですから)、そこにいたる前に、丁寧な話合いで、生徒関係をできるだけ正常化させてゆく粘り強い働きかけが必要なのはもちろんでしょう。
 
ただ、いじめ問題・現象が生じているときに、生徒自身、ないし生徒間による解決に委ねることには基本的に無理があると思われます。(平常の、人権に関する教育の中で、一般論的に、解決方法を考えさせること等は必要でしょうし、有益だと思われますが、いじめの渦中にあれば自分のトラブルのことを合理的に考えることは非常に難しいですから。)

⑥ 教育体制・環境(予算)等の問題
  
上記の判例でも「細心の注意を払い」等と言われているように、法的には、学校・教員には高度な義務が課されています。
 子どもの人権、学習権を保障するためには、確かに、必要なことです。

 ですが、現実の教員(先生)の立場に立ったときどうでしょうか。
 先生がみんなスーパーマンであるわけではありません。生身の人間です。
 法の建前はその通りだとしても、先生自身が、「細心の注意」を行き届かせられる状態にあるかどうかが重要です。

 つまり、先生がどのような条件下で働いているか。
 学校や教室を任せるに十分な人員が配備されているか、教室の生徒数からみて「細心の注意」を行き届かせられる範囲かどうか。
 先生が、指導内容を工夫することや、生徒の間に入って色んなことを感じて指導に活かす、そういうことに出来るだけ集中できるような仕組みになっているか(逆に言えば、形式的な文書作成などに時間を取られすぎたりしておれば、思うようにいかなくなるが、そのようなことはないか)。

 このような教育に関する条件整備が十分になされていなければ、上記の判例で言う、

「細心の注意」をする義務を課し子どもの学習権を守るべきである

ということも絵に描いた餅になってしまいますし、結果的に、先生や学校が責められ続けるばかりで、悲劇的な出来事は決して減りません。

 今起こっている事態について、教育委員会や学校は、事実関係について出来るだけ率直に開示することは必要なことだと思います。隠したり、うやむやにしたりしてもはじまりません。
 率直に事実を開示したうえで、学校の体制などに(予算が絡むことでも)無理があるのであれば、それも率直に言って、事態の改善に向けて、みんなが知恵を絞れるようにすべきだと思います。
 その際、「学校は何をやっていたの?」「教師は何をやっていたの?」とか、誰かを責めるだけではなく、学校や教師の置かれている状態を良くし、判例の言う「細心の注意」を行き届かせるにはどうしたらよいかを建設的に考えていくことこそ大事だと思います。

                                          村上英樹(弁護士、神戸シーサイド法律事務所

「奇跡の教室 エチ先生と『銀の匙』の子どもたち」(小学館) [だから,今日より明日(教育)]


奇跡の教室 エチ先生と『銀の匙』の子どもたち

奇跡の教室 エチ先生と『銀の匙』の子どもたち

  • 作者: 伊藤 氏貴
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2010/11/29
  • メディア: 単行本



 兵庫県神戸市の私立灘中学校、橋本武先生の授業について書かれた本です。

 中学3年間かけて、横道にそれながら、中勘助「銀の匙」を読むのが、この先生の国語の授業。
 教科書は使わず。
 戦後の話です。

 確かに、こんなことが許されるのも、トップ校の特権みたいなものかもしれませんが、教育の場面では、上から「型にはめる」よりも、現場の創意工夫というものが大切、ということを感じさせてくれる本です。

 なので、学ぶ側(教育を受ける側。生徒、保護者。)も、「型にはまったもの、即効性のあるものを与えてくれるよう」望むのではなく、受け容れる幅を広く、素直な気持ちで学びに臨んでゆければ、先生も生徒も共同して充実した良い時間を過ごせるのだろう、ということになると思います。

 一言で言えば、色んな面でおおらかさ、って大切だな、と思いました。

橋下徹氏を応援しません! [だから,今日より明日(教育)]

 でも、応援するのですよ、脱原発では。それを実行してくれるというのなら、そのテーマではもう、熱烈応援します。


 私は、○○さんがするから賛成とか、反対とか、そういう考え方はとりたくありません。

 ○○さんが言うのであれ、××さんが言うのであれ、よいものはよいしダメなものはダメだと言いたい。


 このたび応援しません!というのは、


大阪府教育基本条例


のことです。

 
 これはいけないと思います。

 いけない理由はたくさんありますが、教育の基本理念を書いた第2条に

(5) 我が国及び郷土の伝統と文化を深く理解し、愛国心及び郷土を愛する心に溢れるとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する人材を育てること

という、「愛国心」という部分のほかに、

(6) グローバル化が進む中、常に世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に迅速的確に対応できる、世界標準で競争力の高い人材を育てること

というのまでが入ってきました。


 「愛国心」そのものは良い「心」だと思いますが、法律で強制するようなものではない、そんなことをしたら有害だし、本当の愛国心は育たない、という話は、教育基本法改悪反対のテーマの中でたくさん書きました。

 今回の主題は次のこと、この条例で出てきた新しい項目、

「国際競争」「に対応できる」「競争力の高い人材」

についてです。

 これでは、教育というのも、ずいぶん貧しいものになる、という危惧を覚えるのです。

 何でよ?というのは、確かに説明がいると思います。ちょっと長い文になりました。↓


 現実問題として、日本も、日本の経済も、「国際競争」に晒されているので、「国際競争」を無視できない、ということは分かります。
 はたまた、「競争」というものが進歩をもたらす側面を持つことも認めます。その進歩が、人の暮らしを豊かにし、困っている人を助けることがあることも認めます。
 しかし、それでもなお、「国際競争」というものそのものが持つ、恐ろしさ、怖さ、非人間性(むごさ)というものは大きく、かつ、その「競争」そのものによって、勝者も敗者も常に強迫観念に駆られ、心休まるときはなく、しかも、いよいよ、アメリカや巨大資本でさえも、たとえば、リーマンブラザーズが極めて無責任な金融商品を売ったように、すぐに破綻するような「一時しのぎ」をするのでなければやっていけないような、「自転車操業」に近い状態に陥ることもある現代なのに、そのことを全く無視して、「国際競争」を当然として、それに「人」を合わせていこうとする発想法はおかしいとしかいいようがありません。

 端的に言って、今までの学校生活でも、学校が楽しくなかったという人の、楽しくなかった理由の大きな1つは、

学校にいたときの強迫観念が嫌

というものではないかと思います。

 自分が望んだわけでもないのに、苦手な勉強で、テストの点数を競争させられて、「点数が悪ければ親に叱られる」とか色々の強迫観念、そんなものに日常晒されることが幸せなわけがありません。
 強迫観念のもとで、テスト用の「教科書ワード」は覚えたかも知れませんが、かえって、頭の自由な働きを奪われた人も多かったのではないでしょうか。

 条例案のいう、「競争力の高い人材」というのは、競争に晒される「強迫観念」について鈍感な人間、とでもいうのでしょうか。

 いや、成功体験ばかりの人は、「競争を楽しめる人」をイメージしているのでしょう。

 でも、教育は、どの国民(この場合、府民)にも全てなされるものなのですよ。
 だれもが競争を楽しめるわけがありません。「弱者に容赦なくたたみかける」のが競争の本質ですから。

 例えば、私だったら、数学も英語も得意だったので、「勉強で競争せよ」「テストの点数で競争せよ」と言われても、別に苦はなく、勝ち目もあるので「競争を楽しむ」心境にだってなれたでしょう。

 でも、そうではなく、「重量挙げで競争せよ」とか、「『脂っこいものを食べる競争』で競争せよ」とか、私の苦手なことで競争を強いられたら、とても「競争を楽しむ」心境になれません。
 もしそんな日常なら、「強迫観念」が頭を支配し、きっとおかしくなってしまうことでしょう。
 子どものころなら、それが出来ないことで「人格否定」されたように感じてしまいます。
 
 
 
 私は、現実的に考えて、

学校教育で、競争をタブーにすべきだ

とは思いません。

 むしろ、

社会にでたらある程度避けられない競争といかに付き合うか

競争のメリットデメリットをわかったうえで、競争によって、自分の人間性を破壊されないようにするためには、どうしたらよいか

というようなテーマについて、人生のヒントを与えるようなことが出来れば、良い教育だと思います。

 けれども、「維新の会」の条例案は、全く違う発想であることは明らかです。


 「国際競争」時代を生きていることは私も意識しないといけないとは思います。
 それと無関係に、お気楽に、マリーアントワネットのように生きていくことは出来ないことは、肝に銘じておくべきでしょう。確かに。

 しかし、「国際競争」の下に、弱者が、いや、表面的に「勝ち組」に見える人も、人が、本来したいこと、本来ありたいこと、本来大事にしたい幸せを犠牲にせざるを得なくなるようなことには、できるだけ有効な方法で抵抗していきたい、と思います。
 
 そして、「競争」や目先の経済発展、過剰な便利さよりも、人間本来の幸せを大切にするというスタンスの人が増えれば、巨大なモンスターのようにみえる「国際競争」なるものの恐ろしい面が緩和されてゆくと思います。

 日本の教育はそういう方向であらねばならない、と思います。
 慎み深く、人を思い遣る、というのが日本人の大切にしてきた美徳であり、美しい心である、そういう日本を愛するというのならば、なおさら、そういう方向にならねばならない、と思います。
 

近頃まれな夢のある話 [だから,今日より明日(教育)]

 
 最近は、弁護士業そのもののほうの作業量が多くなってしまい、また、生活全般に余分の時間がなく、ブログに中々手が回らないことが多くなっています。

 ニュースを見ても、それに対し、どういう切り口で何を言ったら世の中良くなるのか、考えを定めるにも時間がかかることも多く、余計に更新が途絶えていました。

 が、久しぶりに、神戸女学院大学内田樹教授のブログを読むと、「立国の道すじについて」というタイトルで、大変夢のある、かつ、大いに賛同できる内容があり、気持ちが晴れてきたので紹介します。

 → 内田教授のブログ http://blog.tatsuru.com/2010/11/09_0945.php

 
 内田さんは、日本の立国の道すじについて、日本の文化の持つ力を活かすべきとのべたうえで「教育立国」を提案します。
 そのうえで、

(同ブログ引用開始)

「教育立国」というのは、博士号を何人がとったとか、外部資金をいくら集めてきたとか、特許の件数がいくらになったとか、そういう「せこい」枠組みで論じる話ではない。
そのような既存の枠組みの中での自分の相対的なポジションを上げて、年収や地位を上げることを人生の目標とするような小粒な人間を何十万人集めても教育立国などできるはずがない。
イノベーティヴな才能が「ここでなら気分よく仕事ができる」という環境を整備すること、それが教育立国施策の「すべて」である。

                                                   (引用終り)

と述べておられます。

 確かに、実際に、勉強が出来るようになったり、学問を深められたりするためのエネルギーを考えるとき、「賞」とか「地位」とか「金」程度のものだけであれば、エネルギーとしては弱い。

 こういう「にんじん」的なものそのものを目標に据えてしまうと、その目標までのパワーが短期的に発揮されるだけになってしまいます。

 対して、何がエネルギーとして優れているかといえば、知的好奇心や探求心そのもの。
 学問を深めれば深めるほどもっと面白くなって、さらに深めたくなる、というのが最強のスパイラル。
 要はこういう状態をいかに上手に作り出すか。
 また、ここにくれば、「深めれば深めるほどもっと面白くなって、さらに深めたくなる」生活ができますよ、という環境を日本が整えられれば、それが「教育立国」。
 そうすると、「賞」などを目標にしたわけではないのに、結果的に「賞」がついてきたり、「金」が集まったり、色々いいことになる。

 こういうのがいいですね。


 で、じゃあ、どんな風なシステムや仕組を作ったらいいの?という具体策は、書かれていません。
 が、基本的なコンセプトは非常に大事で、そういう意味で、実に内田さんの考えは賛同できるものでした。 
     
 
 「成長戦略を」「国際競争を勝ち抜くために」云々が紙面などを踊ることがありますが、こんなこと言っているうちはどうだかな、という気になります。なんか、成績の悪い子どもに親が意味なくハッパをかけつづけている状態のようです。「あんたは、やれば出来る子なんだから」というような・・・。

 まず、そこから離れた国作りをしてみたら、と思います。
 短期的な「現ナマ」的な利益にとらわれず、色んなことの基本を大切にして(つまり、国で言えば、健全な財政にすることや、多数の人の雇用や生活の安定とかそういうことも含めて、ですね)、底力を上げていくようにしたほうがいいのではないでしょうか。
 急成長する国(中国、インドなど)と競ったりするのではなく、むしろ逆で、成長状態にある国々が置き去りにしている部分などに本当は大事なことが多いのではないか、という気がし、日本は、そちらを大切にしたほうが、長い目で見れば国が反映するのではないか、と思います。
 というのは、いつまでも同じペースで「成長」し続けることはないのですから、「成熟」の仕方こそがいずれ大切になっていくことは明らかだと思えるから。

 というわけで、私は、「成長戦略!」「国際競争力!」と「教育パパ・ママ」みたいなことを言わずに、国が、他国との競争ではなくて、その国の社会、その国に住む人たち自体が活き活きしていることを大切にしていく考えがよいと思います。

 そして、「国際競争に勝ちたいなんてハナっから思っていないけど、当たり前のことを大切にやっていたら、うちの国は、調査の結果によれば、どうやら国際競争ってものにも割と『勝っている』ことになっているらしいね。」ということになると良いと思います。

 逆説のようですが、競争競争言わないのが実は国際競争力を高めてしまったりするのではないか、と。

 そんなウマイ話が・・・と思われるかも知れませんが、私は、かなり確信に近く、このほうが上手くいくだろうと思っています(ただし、日本にいる多くの人が同じ考えになれたら、の話ですが)。

教育を子どもたちのために~益川敏英さん語る [だから,今日より明日(教育)]

 2008年ノーベル賞(物理学賞)の益川敏英さん(京都大)が、科学者の視点で、子供の学びや育ちについてどんなことが大切かを語っている本を読んだので紹介します。


教育を子どもたちのために (岩波ブックレット)

教育を子どもたちのために (岩波ブックレット)

  • 作者: 益川 敏英
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2009/08
  • メディア: 単行本



 
 益川さんは、ノーベル賞受賞当時にマスコミでもよく取り上げられました。
 四人の日本人受賞者のなかでも、とりわけ、歯に衣着せず思っていることをしゃべられ、「益川節」と言われていたりしました。

 この本を読んで、ますます益川さんはいいなあ、と思えました。
 特に印象に残った部分を私の読書感想文で紹介します。


1 なぜ科学者が「平和」を主張するか?

  このことは、私も前からなぜなのか?どういう動機に基づくのか?と思っていました。アインシュタイン、ラッセル、湯川秀樹さんらが平和を訴え、核兵器の廃絶を訴えてきたことの思いの根源はどこに?と。

  益川さんの話ではこうです。
  
  科学の発展は、人類の自由を拡大する。
  科学者そのものは別に平和主義者でも戦争主義者でもない。
  科学は本来中立なものだが、それをどうつかうかは人間の問題。
  たとえば、科学の発展により、テレビの電波の乱れを防ぐためのペンキの塗装技術(フェライトという磁石の粉を混ぜ込んで塗装するそうです)が生まれ、その10年後くらいにアメリカで同じ技術を使ったステルス戦闘機が誕生したことが一例。
  意図せず、科学の発展が戦争をしやすくしてしまうことがある。
  このケースで言えば、この「ペンキを発明した科学者は、科学者としてではなくて一市民として、自分の子どもたちや孫たちを戦争に巻き込む可能性が増えているぞ、ということを誰よりも先に理解しなければ」ならない
  
  そういうことから、益川さんは、自分が一科学者であるということの意味を考えて、

「特殊な知識を持っている市民としての科学者は、常に、自分の生活体験からどう発言していくか、どう生きていくか、問われている」

と語っておられます。 
 
  こういう風に、人類のなかにあっての一科学者としての自分、を見つめておられるようです。おそらく、湯川博士なども、共通する出発点を持っていたのではないか、と思えました。

  とても感銘を受けました。

  科学というのは、情緒的なことなど関係なく、「正しいものは正しい」世界です。
  が、しかし、科学者は人間。人類への愛があってこそ、科学が人類を幸福にする、科学の存在意義がある。
  そこからくる「平和」への主張である、ということがすーっと理解できました。

  
2 めまぐるしく変化する現代社会でこそ基礎教育が大切である
  
  ここからが、「教育」論です。

  人に何か秀でた長所があったとしても、それが何かにぶつかって、十分に伸びないことはもったいない。

  例として、エジソンや益川さんのお父さんの例が出てきます。
  益川さんのお父さんは、電気技師になりたくて勉強していた時期があったけれども、小学校しか出ていなかったのでサイン・コサインのあたりでどうしても分からなくなって諦めたそうです。
  今高校を出ている人からすれば「もっと難しいことならともかく、サイン・コサイン程度のことで、夢を諦めるなんてもったいない」と思うでしょう?
  
  やっぱり、自分のオリジナルの研究をするのが夢だとすれば、そこに至るまでの基礎的な勉強がなくては、自分の思う「オリジナル」が実現できない。

  そして、現代社会の変化のめまぐるしさを考えると余計、応用範囲の広い基礎のことをきっとおさえて、学習することが大事だ、と益川さんは強調されます。

  たとえば、昔、テレビやラジオの電気回路に真空管が使われていたころ(今から40年前)、真空管についての分厚いマニュアル本を学生が一生懸命ずーっと勉強したものの、5年もたつと、全部トランジスタに置き換わってしまった、という例(どちらかいえば、失敗の例)が挙げられていました。

  目先の技術的なことだけを追いかけるのではなくて、「やはりそこで教えられた学生が真に力を出すのは、一〇年、二〇年先なんです。それぐらいの変化に対して堪えられるような知識を伝えるべき」だ、「だから基礎からきちっと押さえて、それが具体的に応用する時にどういう種類の問題が起こるかということを、できるだけ汎用性がある形で教えること。これが重要だと思います。」というのが益川さんの意見です。

  私も同意見です。

  以前にも、書いたかも知れませんが、例えば「小学生に株式の授業」などといったことが話題になりました。
  「株式のおはなし」が、たとえば、算数や社会科の「導入」としての切り口ならばそれはそれでよいでしょう。
  しかし、話題になったころは、まさにグローバル経済万歳、市場経済万歳、「貯蓄から投資へ」ブームという、一時の流行に思いっきり乗っかった文脈での「株式の授業」。
  こんなことでは、益川さんの言う、汎用性ある知恵の獲得というにはならない。むしろ、へたをすると、「目先の利を追う」だけの良くない態度を子供にあたえる恐れすらあるかもしれません。

  高度に進化し、めまぐるしく変化する社会だからこそ、何事にも通じる、本当の基礎(数学、言語、論理)を「基本的なものの考え方」から丁寧にそだててゆくこと、このことの重要性を再確認すべきだとおもいます。

  「ゆとり教育」が悪玉ではないと思いますが、そのあたりの時代以降、学校のカリキュラムでも「目先」的なものの比率が高くなっているのが気になります。
 もちろん、目先を変え、社会との接点も増やし、「スパイス」のような要素を適度に散りばめ、生徒が退屈しないようにしよう、という工夫であるのは分かります。
 でも、物事の優先順位は大切です。
 言語や論理、算数・数学といった、人がものを考える基礎力を、十分な時間も掛けて丁寧に育ててゆくことが主眼に置かれねばならないと思います。
 
  
 私は、教育基本法「改正」問題以降ずっと色んなことを考えていますが、やっぱり、こう思います。

 
 益川さんの言うように、基礎教育を大事にし、人がものをしっかり考えてゆく力を丁寧に育ててゆくことによって、ひいては、益川さんのように「人類の中の自分」を強く意識し、自分や他人への愛をもち、自分の社会の中での役割に一生懸命に生きる人が世の中に溢れるようにしてゆくのが、人類の幸福、また、個々の人の幸福につながる。(そうしてゆけば、「愛国心」も「公共の精神」も、誰に押しつけられるわけではなく、ごく自然に、多くの人がそれに相応するものを持ち合わせている世の中になるはずである、と思います。)
 

3 「子どもたちに、あこがれとロマンを」

 そして、益川さんは、最後にこう言います。

「野球の好きな子なら、イチロー選手にあこがれて、まねしてやってみる。字を読むのが苦にならないなら本を読む。工作が好きなら何かつくってみる。それでもし、自分に合ってないということを見つけたら、別のものにかえていく。あこがれがあれば、それほど無理をせずに努力できるもの。それを見つけられる環境を与えてあげる。」

 私も、やっぱり、子どもの 内なるパワー を邪魔せずに、引き出し、伸ばしてあげる、ことに尽きるのだと思います。
 それが、幸福とともにある、学び、育ちである。
 そして、内なるパワーを大切にすることが、最大の成果を生むのではないか、と思います。


 全体を通して、益川さんの話は、人間の存在そのものを良く見つめておられるし、益川さん自身がとても「熱い」人だということがよく分かりました。

 私もそんな風に、子どもを、人間を見つめていきたいな、熱く生きたいな、とそう思いました。

性教育への不当な介入を認めた判決について [だから,今日より明日(教育)]

 性教育をめぐって、先日、東京地裁で判決がありました。

 そのニュースを読売の社説から、まず載せます。

 その後に、

1 読売の社説が、教育基本法(「改正」後のもの)の解釈について、明らかに間違った解説をしていること

2 社説を書いた人は、現実の子育て・教育における、性教育の実際について、何にもわかっちゃいないこと

を述べます。

 私が気に入らないものでも、その気に入らない理由が「考え方の違い」のレベルの社説はどこの新聞社もしょっちゅう書いておられるわけですが、今回のように明らかな誤解を国民に与えるものは放置できないレベルにあります。

 


読売新聞 2009年3月16日社説 「性教育判決 過激な授業は放置できない」 抜粋

 東京都議の言動に行き過ぎた面はあったかもしれない。しかし、政治家が教育現場の問題点を取り上げて議論し、是正していくこと自体は、当然のことと言えるだろう。

 都内の養護学校の教員らが、学校を6年前視察に訪れた都議から不当な非難を受けたと訴えていた裁判で、東京地裁は3人の都議と都に対して損害賠償を命じた。

 養護学校では、性器の付いた人形を性教育の教材として利用するなどしていた。都議らは教員に向かって「感覚が麻痺(まひ)している」などと批判した。

 判決は、都議が教員の名誉を違法に侵害したと認定した。

 改正前の教育基本法が禁じた、「不当な支配」にも該当し、現場に職員がいながら制止しなかった都にも賠償責任があるとした。

 だが、都にそこまで教員を保護する義務があったのだろうか。

 当時は、「男らしさ」や「女らしさ」を否定するジェンダー・フリーの運動とも連携した過激な性教育が、全国の小中高校にも広がっていた。

 小学校2年生の授業で絵を使って性交が教えられるなどした。

 性器の付いた人形が、都内80の小学校で使われていたことも明らかになり、国会でも取り上げられた。文部科学省が全国調査し、自治体も是正に取り組んだ。

 都議の養護学校視察は、こうした過激な性教育を見直す動きの一環として行われたものだ。

 原告の教員らは、知的障害のある子どもたちは抽象的な事柄を理解することが困難なため、教材に工夫が必要とも主張している。

 普通の小中高校の場合と同列に論じられないのは、その通りだろう。しかし、性器の付いた人形の使用まで必要なのか、首をかしげる人は多いのではないか。

 養護学校の学習指導要領解説書は、生徒の障害や発達段階を踏まえ、性に関する対応なども重視するよう求めている。

 教育が「不当な支配」に服することを禁止した以前の教育基本法の規定は、日教組などが教育行政の現場への介入を否定する根拠ともされた。

 「不当な支配」の文言は、新法にも引き継がれた。しかし、教育は「法律の定めるところにより行われる」とされ、教育委員会の命令や指導は「不当な支配」に当たらないことが明確にされた。

 教育をめぐる問題については、現場の意見を尊重しつつも、広く国民的な議論に基づいて進めていかなければならない。

                                                    抜粋終り



 まず、性教育そのものの話に入る前に、読売社説の明らかな間違い、明らかであってしかも重大な間違いを指摘します。

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ノーベル賞に心躍らせる秋 [だから,今日より明日(教育)]

 日本人4人がノーベル賞受賞のニュース。
 本当にいいニュースです。
 嬉しいです。わくわくします。

 私がノーベル賞というものを知ったのは、ゲームだったか本だったか、何かにひょこっと「ノーベル賞」という言葉が出てきたのがきっかけです。
 子どもの時の私は、背はクラスで二番目に低く、今以上にひょろひょろで、スポーツはマラソン以外中の下で、ケンカは弱小キャラで、勉強が出来たのと、お茶目なことが取り柄でした。
 いくらテストで百点を連発しても、結局は、クラスの女子の人気はスポーツ万能の子に奪われてしまうのが、とても悔しく、「ガリ勉」系は何か報われないなあ、と思いつつ暮らしていました。
 そんなときに、ノーベル賞とは何か、ということを教えてくれた大人(親だったか親戚のおっちゃんか先生か忘れましたが)は、
「ひできくんなら、将来ノーベル賞を取るかも知れないね。そう、昔ノーベル賞とった人も『ひでき』って名前だったんだよ(湯川秀樹教授のこと)。」
と言ってくれました。
 そう、「ガリ勉」系の子にも希望がある、夢がある、脚光を浴びるチャンスがある、モテるチャンスがあるということを知り、とても嬉しかったのです。
 それが私にとってのノーベル賞との出会いでした。
 
 ただし、私の子どもの時思っていた「将来ノーベル賞を取った物理学者の私」像は、今回受賞された南部教授らのような成熟されたお姿ではなくて、ドラマ「ガリレオ」の湯川教授(福山雅治)みたいな感じで、そのへんが受賞年齢等からしてアリエナイことなのですが。

 しかししかし、時は経ち、自分のことがもう少し分かってくると、
「自分は、地味なことをひたすらコツコツと何十年も続けられるタイプというより、『出たがり』『目立ちたがり』である。」
ということで、とりあえず、ノーベル物理学賞、化学賞というような道からは随分それてしまいました。

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本田由紀さん著 「家庭教育」の隘路~子育てに脅迫される母親たち [だから,今日より明日(教育)]


「家庭教育」の隘路―子育てに強迫される母親たち

「家庭教育」の隘路―子育てに強迫される母親たち

  • 作者: 本田 由紀
  • 出版社/メーカー: 勁草書房
  • 発売日: 2008/02/25
  • メディア: 単行本



 教育社会学者本田由紀さんの新著です(隘路の読みは「あいろ」)。
 実に興味深い本でした。
本田由紀さんの鋭い考察(「人間力」ブーム批判や、いじめ問題、ニートに関するものなど)については、以前の日記 http://h-m-d.blog.so-net.ne.jp/2007-01-20 で書いたことがあります。

 「家庭教育」が重要!  ということが政策的にも、また、雑誌の見出しなどを見ても今たくさん踊っています。

 家庭教育は重要であるとは誰が考えてもそう思いますが、問題は、「家庭教育」がやたらと強調される風潮であるというところにこの本の出発点があるようです。

 この本の端書きより、

(引用  太字は村上)
 ・・・(中略)世の中のありようを見ていると、胸が切なく痛くなるようなことが多い。今の親がだめだから、子供もだめになっているのだ、もっと親がちゃんとしろ、というような言い方はそこらじゅうにあふれている。でも、学童保育や学校のPTAなどで垣間見る他のお母さん方は、それぞれの表情にやや疲れをにじませながらも、私などよりずっとしっかりと子供や学校の世の中に向き合っているように見える。今の親たちは、そんなに外側からやいのやいの言われなければならないほどだめになっているのか、また、やいのやいの言うことで何かがよくなるのか、ということに、私は強い疑問があった。それをきちんと客観的に確かめたくて、この本を書いた。
                                           (引用終わり)

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