橋下徹氏を応援しません! [だから,今日より明日(教育)]
でも、応援するのですよ、脱原発では。それを実行してくれるというのなら、そのテーマではもう、熱烈応援します。
私は、○○さんがするから賛成とか、反対とか、そういう考え方はとりたくありません。
○○さんが言うのであれ、××さんが言うのであれ、よいものはよいしダメなものはダメだと言いたい。
このたび応援しません!というのは、
大阪府教育基本条例
のことです。
これはいけないと思います。
いけない理由はたくさんありますが、教育の基本理念を書いた第2条に
(5) 我が国及び郷土の伝統と文化を深く理解し、愛国心及び郷土を愛する心に溢れるとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する人材を育てること
という、「愛国心」という部分のほかに、
(6) グローバル化が進む中、常に世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に迅速的確に対応できる、世界標準で競争力の高い人材を育てること
というのまでが入ってきました。
「愛国心」そのものは良い「心」だと思いますが、法律で強制するようなものではない、そんなことをしたら有害だし、本当の愛国心は育たない、という話は、教育基本法改悪反対のテーマの中でたくさん書きました。
今回の主題は次のこと、この条例で出てきた新しい項目、
「国際競争」「に対応できる」「競争力の高い人材」
についてです。
これでは、教育というのも、ずいぶん貧しいものになる、という危惧を覚えるのです。
何でよ?というのは、確かに説明がいると思います。ちょっと長い文になりました。↓
現実問題として、日本も、日本の経済も、「国際競争」に晒されているので、「国際競争」を無視できない、ということは分かります。
はたまた、「競争」というものが進歩をもたらす側面を持つことも認めます。その進歩が、人の暮らしを豊かにし、困っている人を助けることがあることも認めます。
しかし、それでもなお、「国際競争」というものそのものが持つ、恐ろしさ、怖さ、非人間性(むごさ)というものは大きく、かつ、その「競争」そのものによって、勝者も敗者も常に強迫観念に駆られ、心休まるときはなく、しかも、いよいよ、アメリカや巨大資本でさえも、たとえば、リーマンブラザーズが極めて無責任な金融商品を売ったように、すぐに破綻するような「一時しのぎ」をするのでなければやっていけないような、「自転車操業」に近い状態に陥ることもある現代なのに、そのことを全く無視して、「国際競争」を当然として、それに「人」を合わせていこうとする発想法はおかしいとしかいいようがありません。
端的に言って、今までの学校生活でも、学校が楽しくなかったという人の、楽しくなかった理由の大きな1つは、
学校にいたときの強迫観念が嫌
というものではないかと思います。
自分が望んだわけでもないのに、苦手な勉強で、テストの点数を競争させられて、「点数が悪ければ親に叱られる」とか色々の強迫観念、そんなものに日常晒されることが幸せなわけがありません。
強迫観念のもとで、テスト用の「教科書ワード」は覚えたかも知れませんが、かえって、頭の自由な働きを奪われた人も多かったのではないでしょうか。
条例案のいう、「競争力の高い人材」というのは、競争に晒される「強迫観念」について鈍感な人間、とでもいうのでしょうか。
いや、成功体験ばかりの人は、「競争を楽しめる人」をイメージしているのでしょう。
でも、教育は、どの国民(この場合、府民)にも全てなされるものなのですよ。
だれもが競争を楽しめるわけがありません。「弱者に容赦なくたたみかける」のが競争の本質ですから。
例えば、私だったら、数学も英語も得意だったので、「勉強で競争せよ」「テストの点数で競争せよ」と言われても、別に苦はなく、勝ち目もあるので「競争を楽しむ」心境にだってなれたでしょう。
でも、そうではなく、「重量挙げで競争せよ」とか、「『脂っこいものを食べる競争』で競争せよ」とか、私の苦手なことで競争を強いられたら、とても「競争を楽しむ」心境になれません。
もしそんな日常なら、「強迫観念」が頭を支配し、きっとおかしくなってしまうことでしょう。
子どものころなら、それが出来ないことで「人格否定」されたように感じてしまいます。
私は、現実的に考えて、
学校教育で、競争をタブーにすべきだ
とは思いません。
むしろ、
社会にでたらある程度避けられない競争といかに付き合うか
競争のメリットデメリットをわかったうえで、競争によって、自分の人間性を破壊されないようにするためには、どうしたらよいか
というようなテーマについて、人生のヒントを与えるようなことが出来れば、良い教育だと思います。
けれども、「維新の会」の条例案は、全く違う発想であることは明らかです。
「国際競争」時代を生きていることは私も意識しないといけないとは思います。
それと無関係に、お気楽に、マリーアントワネットのように生きていくことは出来ないことは、肝に銘じておくべきでしょう。確かに。
しかし、「国際競争」の下に、弱者が、いや、表面的に「勝ち組」に見える人も、人が、本来したいこと、本来ありたいこと、本来大事にしたい幸せを犠牲にせざるを得なくなるようなことには、できるだけ有効な方法で抵抗していきたい、と思います。
そして、「競争」や目先の経済発展、過剰な便利さよりも、人間本来の幸せを大切にするというスタンスの人が増えれば、巨大なモンスターのようにみえる「国際競争」なるものの恐ろしい面が緩和されてゆくと思います。
日本の教育はそういう方向であらねばならない、と思います。
慎み深く、人を思い遣る、というのが日本人の大切にしてきた美徳であり、美しい心である、そういう日本を愛するというのならば、なおさら、そういう方向にならねばならない、と思います。
私は、○○さんがするから賛成とか、反対とか、そういう考え方はとりたくありません。
○○さんが言うのであれ、××さんが言うのであれ、よいものはよいしダメなものはダメだと言いたい。
このたび応援しません!というのは、
大阪府教育基本条例
のことです。
これはいけないと思います。
いけない理由はたくさんありますが、教育の基本理念を書いた第2条に
(5) 我が国及び郷土の伝統と文化を深く理解し、愛国心及び郷土を愛する心に溢れるとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する人材を育てること
という、「愛国心」という部分のほかに、
(6) グローバル化が進む中、常に世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に迅速的確に対応できる、世界標準で競争力の高い人材を育てること
というのまでが入ってきました。
「愛国心」そのものは良い「心」だと思いますが、法律で強制するようなものではない、そんなことをしたら有害だし、本当の愛国心は育たない、という話は、教育基本法改悪反対のテーマの中でたくさん書きました。
今回の主題は次のこと、この条例で出てきた新しい項目、
「国際競争」「に対応できる」「競争力の高い人材」
についてです。
これでは、教育というのも、ずいぶん貧しいものになる、という危惧を覚えるのです。
何でよ?というのは、確かに説明がいると思います。ちょっと長い文になりました。↓
現実問題として、日本も、日本の経済も、「国際競争」に晒されているので、「国際競争」を無視できない、ということは分かります。
はたまた、「競争」というものが進歩をもたらす側面を持つことも認めます。その進歩が、人の暮らしを豊かにし、困っている人を助けることがあることも認めます。
しかし、それでもなお、「国際競争」というものそのものが持つ、恐ろしさ、怖さ、非人間性(むごさ)というものは大きく、かつ、その「競争」そのものによって、勝者も敗者も常に強迫観念に駆られ、心休まるときはなく、しかも、いよいよ、アメリカや巨大資本でさえも、たとえば、リーマンブラザーズが極めて無責任な金融商品を売ったように、すぐに破綻するような「一時しのぎ」をするのでなければやっていけないような、「自転車操業」に近い状態に陥ることもある現代なのに、そのことを全く無視して、「国際競争」を当然として、それに「人」を合わせていこうとする発想法はおかしいとしかいいようがありません。
端的に言って、今までの学校生活でも、学校が楽しくなかったという人の、楽しくなかった理由の大きな1つは、
学校にいたときの強迫観念が嫌
というものではないかと思います。
自分が望んだわけでもないのに、苦手な勉強で、テストの点数を競争させられて、「点数が悪ければ親に叱られる」とか色々の強迫観念、そんなものに日常晒されることが幸せなわけがありません。
強迫観念のもとで、テスト用の「教科書ワード」は覚えたかも知れませんが、かえって、頭の自由な働きを奪われた人も多かったのではないでしょうか。
条例案のいう、「競争力の高い人材」というのは、競争に晒される「強迫観念」について鈍感な人間、とでもいうのでしょうか。
いや、成功体験ばかりの人は、「競争を楽しめる人」をイメージしているのでしょう。
でも、教育は、どの国民(この場合、府民)にも全てなされるものなのですよ。
だれもが競争を楽しめるわけがありません。「弱者に容赦なくたたみかける」のが競争の本質ですから。
例えば、私だったら、数学も英語も得意だったので、「勉強で競争せよ」「テストの点数で競争せよ」と言われても、別に苦はなく、勝ち目もあるので「競争を楽しむ」心境にだってなれたでしょう。
でも、そうではなく、「重量挙げで競争せよ」とか、「『脂っこいものを食べる競争』で競争せよ」とか、私の苦手なことで競争を強いられたら、とても「競争を楽しむ」心境になれません。
もしそんな日常なら、「強迫観念」が頭を支配し、きっとおかしくなってしまうことでしょう。
子どものころなら、それが出来ないことで「人格否定」されたように感じてしまいます。
私は、現実的に考えて、
学校教育で、競争をタブーにすべきだ
とは思いません。
むしろ、
社会にでたらある程度避けられない競争といかに付き合うか
競争のメリットデメリットをわかったうえで、競争によって、自分の人間性を破壊されないようにするためには、どうしたらよいか
というようなテーマについて、人生のヒントを与えるようなことが出来れば、良い教育だと思います。
けれども、「維新の会」の条例案は、全く違う発想であることは明らかです。
「国際競争」時代を生きていることは私も意識しないといけないとは思います。
それと無関係に、お気楽に、マリーアントワネットのように生きていくことは出来ないことは、肝に銘じておくべきでしょう。確かに。
しかし、「国際競争」の下に、弱者が、いや、表面的に「勝ち組」に見える人も、人が、本来したいこと、本来ありたいこと、本来大事にしたい幸せを犠牲にせざるを得なくなるようなことには、できるだけ有効な方法で抵抗していきたい、と思います。
そして、「競争」や目先の経済発展、過剰な便利さよりも、人間本来の幸せを大切にするというスタンスの人が増えれば、巨大なモンスターのようにみえる「国際競争」なるものの恐ろしい面が緩和されてゆくと思います。
日本の教育はそういう方向であらねばならない、と思います。
慎み深く、人を思い遣る、というのが日本人の大切にしてきた美徳であり、美しい心である、そういう日本を愛するというのならば、なおさら、そういう方向にならねばならない、と思います。
2011-10-06 11:50
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この条例案の文面はまことにもってお粗末で、特に前文は20文字ほど(ビジネス競争に勝つ人材を育てる教育を政治介入で実現しましょう)で要約できてしまう中身のなさです。キミたちもうちょっと勉強しなさいというレベルです。あまりの情けなさに隂山英男ら教育委員が可決されたら辞任と表明し、校長らも一部の元民間人以外は疑義を示しています。
一方、この条例案を支持する人たちのご意見もあれこれ見てみたのですが、共通するモチベーションは「教職員組合憎し」ということ(だけ)みたいです。たかが組織率20%台の組織にここまで振り回されるとは何たる弱っちい人々でしょうか。
by shira (2011-10-06 23:05)
shiraさん
ナイス、コメントありがとうございます。
仰るとおり、しかし、そういう「弱っちい」人ほど暴走すると恐ろしいことが出来てしまうもので。
そういう意味では、橋下氏自身と言うより、橋下人気に悪のりする人たちが恐ろしい、というほうがぴったりかも知れません。
by hm (2011-10-07 11:23)
同感です。
「我が国及び郷土の伝統と文化を深く理解し、愛国心及び郷土を愛する心・・・」
うちは日本・郷土の文化が好きです。自慢したいです。
でもこういうの叫ぶ人が怖いです。
なぜか戦前の帝国主義か江戸時代の儒教によるサムライに偏っているとしか見えないです。
shiraさんが競争は敗者きめるといいことかいてたの思い出します。
競争否定しないですがなぜか競争というと生存競争だったり経済面だったり・・。経済競争で負けたら価値がないような・・。
なんでも人の命まで所得で決まるそうです。
うちにはおもいますが競争力や自己責任をいう新自由主義で「共同体」を崩しおいて
「行き過ぎた個人主義だ」といい画一的強制監視で共同体維持しようなんて背筋が凍りそうです。
「橋下氏自身と言うより、橋下人気に悪のりする人たちが恐ろしい、というほうがぴったり・・」
うちもこれを感じています。
仮称元総理エイブさんの時もそれを感じていました。
この国における独裁者・権力は民主党でもなく小沢さんでもなく、競争力なのかもと思えます。
経済的能力が低い・空気読めないなど今の競争社会にそぐわない人も含めてみんな仲間のはず。
明確に区別せずアバウトで寛容なのはどこに??
自然との共存で環境大事にしていた文化(先進国ではめずらしく野生の大型動物がいるそうです)はどこに?
同じ競争なら本当に残すべきものを残す。仲間みんなが生き残れる競争してほしいです。
弱肉強食生存競争はうれしくないです。
by ayu15 (2011-11-07 13:27)