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性教育への不当な介入を認めた判決について [だから,今日より明日(教育)]

 性教育をめぐって、先日、東京地裁で判決がありました。

 そのニュースを読売の社説から、まず載せます。

 その後に、

1 読売の社説が、教育基本法(「改正」後のもの)の解釈について、明らかに間違った解説をしていること

2 社説を書いた人は、現実の子育て・教育における、性教育の実際について、何にもわかっちゃいないこと

を述べます。

 私が気に入らないものでも、その気に入らない理由が「考え方の違い」のレベルの社説はどこの新聞社もしょっちゅう書いておられるわけですが、今回のように明らかな誤解を国民に与えるものは放置できないレベルにあります。

 


読売新聞 2009年3月16日社説 「性教育判決 過激な授業は放置できない」 抜粋

 東京都議の言動に行き過ぎた面はあったかもしれない。しかし、政治家が教育現場の問題点を取り上げて議論し、是正していくこと自体は、当然のことと言えるだろう。

 都内の養護学校の教員らが、学校を6年前視察に訪れた都議から不当な非難を受けたと訴えていた裁判で、東京地裁は3人の都議と都に対して損害賠償を命じた。

 養護学校では、性器の付いた人形を性教育の教材として利用するなどしていた。都議らは教員に向かって「感覚が麻痺(まひ)している」などと批判した。

 判決は、都議が教員の名誉を違法に侵害したと認定した。

 改正前の教育基本法が禁じた、「不当な支配」にも該当し、現場に職員がいながら制止しなかった都にも賠償責任があるとした。

 だが、都にそこまで教員を保護する義務があったのだろうか。

 当時は、「男らしさ」や「女らしさ」を否定するジェンダー・フリーの運動とも連携した過激な性教育が、全国の小中高校にも広がっていた。

 小学校2年生の授業で絵を使って性交が教えられるなどした。

 性器の付いた人形が、都内80の小学校で使われていたことも明らかになり、国会でも取り上げられた。文部科学省が全国調査し、自治体も是正に取り組んだ。

 都議の養護学校視察は、こうした過激な性教育を見直す動きの一環として行われたものだ。

 原告の教員らは、知的障害のある子どもたちは抽象的な事柄を理解することが困難なため、教材に工夫が必要とも主張している。

 普通の小中高校の場合と同列に論じられないのは、その通りだろう。しかし、性器の付いた人形の使用まで必要なのか、首をかしげる人は多いのではないか。

 養護学校の学習指導要領解説書は、生徒の障害や発達段階を踏まえ、性に関する対応なども重視するよう求めている。

 教育が「不当な支配」に服することを禁止した以前の教育基本法の規定は、日教組などが教育行政の現場への介入を否定する根拠ともされた。

 「不当な支配」の文言は、新法にも引き継がれた。しかし、教育は「法律の定めるところにより行われる」とされ、教育委員会の命令や指導は「不当な支配」に当たらないことが明確にされた。

 教育をめぐる問題については、現場の意見を尊重しつつも、広く国民的な議論に基づいて進めていかなければならない。

                                                    抜粋終り



 まず、性教育そのものの話に入る前に、読売社説の明らかな間違い、明らかであってしかも重大な間違いを指摘します。

(読売社説) 教育が「不当な支配」に服することを禁止した以前の教育基本法の規定は、日教組などが教育行政の現場への介入を否定する根拠ともされた。  「不当な支配」の文言は、新法にも引き継がれた。しかし、教育は「法律の定めるところにより行われる」とされ、教育委員会の命令や指導は「不当な支配」に当たらないことが明確にされた。


の部分、致命的な間違いです。
 これが間違いであるということは、教育基本法「改正」のとき、中心の文部科学大臣であった伊吹文明氏(自民党)に聞けば明らかだと思います。
 
 教育基本法「改正」の国会審議の中で、伊吹文部科学大臣は、「改正」後でも、「行政(教育委員会の命令や指導)であっても、『不当な支配』にあたることはありえるし、それは司法の場で争われることになっている」ことを答弁しています。
 さらにいえば、法律も行政も、憲法に違反するようなことであれば、憲法違反の裁判の対象になりますから、憲法についての最高裁判決である旭川学力テスト判決がやってはいけないと述べたような教育現場への国や地方公共団体などの「介入しすぎ」があれば、やっぱり禁止されることに変わりありません。

 なので、教育委員会の命令や指導であれば「不当な支配」にあたらない、という読売の社説は明らかな間違いです。
 こんな大切なことについて、権力者に都合の良い方向で、ウソを言うこの読売社説は、読者の大半である一般国民に対して、思いっきり背を向けるものだ、と断言できます。あまりにひどい。


 次に、性教育そのものについての話です。
 この社説は、「小学校2年生の授業で絵を使って性交が教えられるなどした。」ことを「過激な性教育」の例にしています。

 しかし、これは、子育て・教育の実情をあまりに知らなさすぎです。

 ある、いわゆる「人気学区」と言われる地域で、子育てや教育に自分の余力の大半を割くことの出来るお母さんたちは、色んな情報交換、意見交換の結果として、こう言っています。

「幼稚園から4年生くらいまでに、ちゃんとした形で、生殖器やセックス、生殖の仕組みについて教えておかないと、その後は性的羞恥心が出来てくるので、親子でもそういう話をきちんとすることがどんどん難しくなる。
 その結果(悪い流れで)、親子でも性に関する話を避けるようになると、セックスについて、子どもたちは、いわゆるエロ本やAVなど、商売のために歪められたものを『教材』として、誤った認識、異常な感覚を身につけてしまう恐れが高くなり、異常な性行動や軽率な性行動に走るおそれも高くなる。」

 なるほど全くその通りです。子どもに、将来にわたっても、ちゃんと好きな人と愛のあるセックスをして欲しい、と願うお母さんたちの気持ち、よくわかります。
 そのために、商業主義による敢えて歪めた性の描き方(AV、わいせつ本…)の影響を最大限少なくし、自然の愛と性のかたちを出来るだけそのままに子どもに伝えるにはどうするのが一番いい方法か、という知恵は、国よりも新聞よりも、現場のお母さんたちのほうがよっぽどよく考えているようです。

 幼稚園年長~小学校低学年くらいの子ども向けに、ちゃんとした形で性を教える本として、人気なのがこれ↓ 


あかちゃんはどこから? (えほんとなかよし)

あかちゃんはどこから? (えほんとなかよし)

  • 作者: ローズマリー ストーンズ
  • 出版社/メーカー: ポプラ社
  • 発売日: 1995/04
  • メディア: 大型本



 絵でセックスを描いていますが、全く、自然の行為として描かれており、「過激」であるとか、「好ましくない」性表現という雰囲気は全くありません。

 この本を見れば、「絵で性行為を教える」ことがすなわち「過激」であるという評価をする人の感覚のほうを疑いたくなります。

 この「あかちゃんはどこから」の本は外国本がもとですが、世界的に見ても、子どもが性非行に走る確率を低め、「ちゃんと好きな人と愛のあるセックスをする」男性又は女性に育てるために、最も合理的な方法は、性的羞恥心が生まれる前の年齢で、わかりやすい絵などを駆使して、まず、最低限押さえるところを押さえておくことだと認められているようです。

 繰り返しますが、そうしなければ、逆に、(教育的配慮の全くない)「性ビジネス」が先に子どもに接触し、知識や感覚を歪めるからです。

 これは、我が子を持てば誰でもそういう風にしたい、という方法論です。つまり、そうするのが「得策」という話です。

 願わくば、子育て・教育について時間や労力の大半を費やす条件に恵まれた「文教地区」のお母さん方だけではなくて、こういう知恵が、経済事情や仕事の事情から忙しく余力のない親御さんにも共有されていくことです。
 だから、公教育(学校)の中でも、積極的に、わかりやすく歪みのない性教育が、ある程度早い段階でなされていく必要があります。

 確かに、ジェンダーフリー問題に関心のある人が、AVなどが子どもの前に登場する前に、正確な知識を性教育でおしえるほうがよい、ということに気づくのが早いのでしょう。
 が、ジェンダーフリー問題なんか全く無関係で考えても、どう考えても、「人が男女でペアになること、性交をして生殖すること、そこに愛情が基本となること。」が自然なことであることを、親子が照れとか恥じらいなく話しやすいうちに教えておくことが子どもの幸せのためになる、というのは素直に頷けます。
 というか、上で書いた、「文教地区」のお母さんたちは殆ど専業主婦ですから、いわゆる典型的「ジェンダーフリー」論者が理想とする在り方(女性も社会進出)とは真逆を行くわけですが、実際は、子どものことを考えると早期での分かりやすい性教育は不可欠だと考えている、という話です。

 「小学校2年生の授業で絵を使って性交が教えられるなどした。」を一概に「過激」であるなどと言ってしまう発想は、上の「あかちゃんはどこから」の本のように、ごく素直で自然で好ましい形の性の描き方・性教育の存在を知らないで言っていることとしか思えません。
 
 知らないで(おそらく知ろうともせず)、「絵を使って性交が教えられる」=「過激」などと決めつける態度が怖い、と思います。
 その人の頭に「どういう絵」があるのかと?
 それこそ、AVなどの歪められた「性の教材」のイメージがこびりついているのではないか、という疑いすら覚え、そういう感覚の人間が「性教育こうあるべき」などと影響力を発揮するならば、そのほうが有害である、と思えます。 

 「過激な性教育」などと言われますが、変な色眼鏡で見るよりも前に、教員たちが、何も子どもたちを「いんらん」にしようなどと思うはずもなく、逆に、子どもたちが性非行などに走らず、また大人の性の食い物にもされず、「ちゃんと好きな人と愛のあるセックスができる」ようにしてあげたいために、ひいては、社会的な性についての乱れも最小にするために、知恵を絞ってやっていることにまずは素直に目を向けるべきだとおもいます。

 読売さんには、日教組がどうの、ジェンダーフリーがどうの、という自分の主義主張の「眼前の敵」にとらわれるのではなくて、子どもたちの幸せのため、というのを素直に考えていただきたいものです。
 主義主張は色々あれども、「子どもたちが、大人になって、ちゃんと好きな人と愛のあるセックスができますように」という願いはみんな共通だと思いますから。
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ayu15

ジェンダーフリー教育には賛否あるしうちにはわかんないけど、この社説の表現の仕方は過激で問題ありそうに思えました。もう少し表現方法工夫できないのかなあと思いました。
by ayu15 (2009-03-30 21:47) 

shira

 自戒も込めてですが、
 自分のイデオロギーを客体化しそこなうと、かなりみっともない行動や言動に成り下がっちゃうことが往々にしてあります。七生養護の件では都議も産経や読売も(ついでに都知事も)まるで冷静さに欠けてます。かわいそうなのは当事者たる教員と生徒たちです。
 一言足しておくと、性教育にバッシングをかけるひとは得てして戦前を良きものと礼賛するんですけど、未成年の性交にブレーキをかけるのは近代以降の、特に都市部での新しい価値観であって、日本の伝統的な農村共同体では結婚出産を推進するものとして性交は(未成年であっても婚前であっても)むしろ奨励されていたものです。戦前の農村の性はかなり大ざっぱというかタガのないもので、娘がどっかの男と遊んで妊娠しちゃったので別の男の嫁にするなんてことが常識的に行われていました。
 この読売の社説なんか見てると、エアギターならぬエア保守という感じで、オマエらもうちょっと我が国の伝統を勉強せいと言いたくなります。
 
by shira (2009-04-01 23:50) 

hm

ayuさん

 ありがとうございます。
 何にせよ、冷静に現実的に考えて行かなくては、ですね。


shiraさん

 ありがとうございます。
 仰るとおりです。
 考え方、方法論は性教育についても色々あってよく、色々あるのが当然なのですが、その辺り、「自分の常識」を客観化し損なうのが危険ですね。
 子育て等に関しては、私なんか、そもそも「自分には全く常識がない」ことを前提とせねば、どうにもなりません 笑 
by hm (2009-04-06 12:07) 

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