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原発事故・損害賠償マニュアル 日弁連編 日本加除出版(株) [くらしと安全(交通事故その他)]

 http://www.kajo.co.jp/book/40438000001.html 

 昨日、注文していたタイトルの本が届きました。

 神戸市に事務所がある私のところに、原発事故賠償の相談があるかどうかは分かりませんが、ともかくも、重要な、大変な問題です。

 ぱらぱらと読んでいるのですが、内容が濃いようです。

 「マニュアル」というタイトルがついていますが、単なる「マニュアル」ではなく、政府の指針をカバーしつつも、それを杓子定規に適用して答えを出すだけではなく、さらにぐっと踏み込んだ考え方まで解説されています。
 
 可能な限り被害の実態に寄り添い、万全の賠償を得られるように役立つように、というスタンスで書かれています。

 たとえば、野菜のいわゆる「風評被害」について、次のような問題について。

(引用)

Q77 A県産のホウレン草から暫定基準値を超える放射性物質が検出されたために、A県産の他の野菜(トマトなども)も売れなくなった。トマトからは暫定規制値を超える放射性物質は検出されていないが、損害賠償請求は可能か。

                                                     (引用終り)

 ここでいわゆる「風評被害」について問題となるわけですが、この本の解説は次の通り、

(引用)

 中間指針において指摘されるとおり、いわゆる風評被害という表現は、放射性物質等による危険がないのに消費者や取引先が危険性を心配して商品やサービスの購入・取引を回避する不安心理に起因する損害という意味で使われることもあるが、少なくとも本件事故においては、必ずしも科学的に明確でない放射性物質による汚染の危険を回避するための市場の拒絶反応による損害と考えるべきである

 この場合、風評被害は、ある種の実害という側面を持つものであり、合理性が認められる限り、広く損害賠償の対象として救済されるべきである。
                                            (引用終り)

という考え方から、平均的・一般的な人を基準として、このような事情があれば野菜であれば他の品目についても危険性を懸念し、敬遠したくなるのが無理のないことかどうか、という基準で判断し、

Q77の場合も、買い控え等により被った営業損害、就労不能等に伴う損害、検査費用について賠償請求が可能である

という回答をしています。


 「風評被害」という言葉が適切か?についてそもそも問題があるのだけれど、政府の中間指針でもこの言葉が使われているので無視は出来ない。
 でも、その被害の本体は「実害」という面をちゃんと持っているのだ、ということを押さえた上での解説がなされています。
 執筆者の方がここをきっちり押さえられて記述されていることは、実に行き届いたことだと感じます。


 この本が、役に立つことは間違いない。
 賠償を行う側(東京電力など)の方々にも是非熟読して頂き、肝心の所をよく分かって頂いた上で、どうか今回ばかりは「支払う側、受け取る側」の利害対立ということにとらわれずに、相手の立場への十分な配慮に基づいて、賠償実務に望んで頂きたい、と思いました。

 

高次脳機能障害に関する判決(判例時報2118号70頁) [くらしと安全(交通事故その他)]

 交通事故などの外傷で、頭部を強打した場合に、高次脳機能障害という後遺症が残ることがあります。
 
 一見、どういう後遺症があるのか分かりにくいのですが、記憶力や集中力や、物事を要領よくやる力や、人間関係を円滑に保つ力などが、事故前と比べて格段に落ちてしまい、生活の色んな場面で苦労するという、大変な問題です。

 この後遺症については、以前、高次脳機能障害のドキュメンタリー番組(私がちょこっと出ました)に関連して書いた日記 http://h-m-d.blog.so-net.ne.jp/2007-05-09 も参考にしていただければと思います。 

 私が担当した事件で、新しく判例雑誌に掲載されたものがあるので紹介します。


判例

 神戸地裁尼崎支部平成21年(ワ)1128号 平成23年5月13日判決

 事案の内容

 Xは、Y1の運転する軽貨物車の助手席に同乗中、Y2の運転する普通乗用自動車と衝突し、頭部外傷、頭蓋骨骨折等の傷害を負った。
 Xは、A病院等に入通院して治療を受けたが、①障害等級5級2号該当の高次脳機能障害、及び、②12級13号該当の醜状障害(外見の障害)を残し、併合4級の認定を受けた。
 Xは、事故当時は無職であったが就職に向けて資格試験を受験する等していたが、事故後は、後遺症の影響から、集中力や記憶力の低下や、情緒不安定、計画的行動遂行能力の低下等のため、また、意欲全般の低下のため、就職活動等が一切できなくなった。
 
 判決の概要
 
 後遺症による労働能力喪失率につき85%とする。


 村上による解説

 本件のポイントは、後遺症によって、Xさんがどれくらい労働能力を失ったと認められるか(「労働能力喪失率」は何%か)という点です。
 
 上に書いた、後遺症の等級というのは、「自賠責保険」の基準であり、重い方から1~14級まであります。

 Xさんの場合、2つの後遺症があって、「併合4級」ということです。4級の場合、一般的には「労働能力喪失率」は92%とされます。

 ただし、Xさんの後遺症の一つは、12級の醜状障害(外見の障害)であり、Xさんは男子であることもあり(このあたり、男女で区別するのはどうか、という異論もありますが)、一般的には、外見に障害があったからと言って(アイドルとかホストであるとか特殊な事情がない限り)労働能力には直接影響しないとされることが多いです。
 
 そうすると、このXさんの場合、もし、労働能力に直接影響するのが5級の高次脳機能障害の部分だけだと考えると、5級の「労働能力喪失率」は一般的に79%とされています。

 しかし、それでは、事故後、全く就職活動や就職に向けての勉強等さえ出来なくなってしまった状態のXさんが、100-79=21(%)の労働能力を有している(つまり、それは、21%分は働いて稼ぎを得ることが出来るという意味です。その部分は、賠償を受けられないことになる。)とされることになるが、それでよいのか?
 
 そこで、本件では、裁判官は、自賠責保険では、○級なら○○パーセント、という基準があるが、その基準によるだけではなく、実際のXさんの状態を判断して「85%」と認定したというわけです。
 
 これでも、実際働く見込みが立たない人に、「あなたは15%は働ける」ということにして、損害賠償額を減らしてよいのか、という点は残るのですが、いわゆる「モノサシ通り」の79%というよりは、Xさんが実際に苦労している状況を想像して汲み取って下さった判決である、と思います。

 
 この「高次脳機能障害」というのは、目に見えにくい後遺症であることは間違いなく、本人さんが苦労されている状況というのは、まさに、日常生活の一つ一つに現われてきます。
 ですので、裁判での証明というのも、「日常生活の一つ一つ」そのものを裁判官にわかってもらえるように、色々工夫してやらなければなりません(家族の協力も相当お願いしました)。

 
 この後遺症の方の置かれている状況について、私が、大変参考になると思っている資料は、

東京都 高次脳機能障害者実態調査 (平成20年)

http://www.metro.tokyo.jp/INET/CHOUSA/2008/05/60i5f300.htm

です。

 これによれば、高次脳機能障害を有する方が、就労の面で相当苦労されていることが分かります。
 高次脳機能障害の度合いが比較的軽度な人でも、実際に就職し、その職場で仕事が続く状態にはなかなかならないことがデータで現われています。
 
「発症時に就労していた者は62.6%で、現在も就労している者は10.1%であった。また、現在就労していない者のうち、50.3%が就労を希望していた。 」

 実際には、9割の人は、就労が出来ていないというのです。

 これは、社会の体制という問題もあります。
 本来、裁判でたくさん賠償してもらえるよりも、高次脳機能障害を有していてもその人のペースで働ける場があるほうがよいに違いないので、そういう社会に一歩ずつでも近づいてゆくことが望まれます。

 裁判における活動の一つ一つは、あらゆる状況にある人に対して優しい社会へ近づくためのきっかけの一つを積み重ねているということだと思います。 

 それにしても、本当に「一歩一歩」です。ときに「半歩」くらいでも、「三歩進んで二歩下がる」ことがあっても、どれもプラスに捉え、それはそれでよしとして、前へ進むしかない、という思いを強くします。

日弁連 原子力発電所の再起動についての会長声明 [くらしと安全(交通事故その他)]

 日弁連が意見を出しています。

 http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/110623_3.html

(本文)
 経済産業大臣による「原子力発電所の再起動について」と題する声明に対する会長声明去る6月18日、経済産業大臣は「原子力発電所の再起動について」と題する声明を発表し、福島第一原子力発電所の事故を踏まえて各電気事業者が「津波による全交流電源喪失を想定した緊急安全対策の実施により、炉心損傷等の発生防止に必要な安全性を確保していることを確認し」、また、「シビアアクシデントへの対応に関する措置が適切に実施されていることを確認した」として、各地の停止中の原子力発電所の一部について再起動を求めた。

しかしながら、この声明は、以下の理由から撤回すべきである。

第1に、未だ福島第一原子力発電所の事故は収束していない。すでに炉心が溶融し、圧力容器から漏れ出しており(「メルトスルー」)、今後どのように事故が変遷していくか全く予断を許さない。事故の原因・経過の調査はその緒についたばかりであり、事故の全体像及び詳細は未だ不明な点が多い。そもそも今回の事故原因が津波だけに起因するものか、地震そのものに起因する機器損傷が影響を与えているのかという最も基本的な事実関係についてさえ未だ現地調査ができないために解明されていない。にもかかわらず、上記声明は、津波と電源対策の強化だけで安全性が確保されたとしており客観的な事実に反している。

第2に、原子力安全委員会は、6月16日に、安全確保策の抜本的な見直しを図る必要があるとして、安全設計審査指針、耐震設計審査指針、防災指針の見直しを始めるとした。全国の原子力発電所の安全確保策の見直し策は、これから検討される段階であり、安全確保対策は未だ確立されていない。福島第一原子力発電所で発生した長時間の全交流電源喪失という事態は、これまでの安全設計上は考慮不要とされていたが、原子力安全委員会の班目委員長は「すぐさま改訂しなきゃいけないものと思っています」と述べている。上記のとおり今回の事故原因の解明も未だできておらず、この指針改訂に基づく安全性の確認もなされていない段階で、経済産業大臣が原子力発電所の再起動を求めることは、今回の原発事故の深刻な被害を顧みない、甚だしい安全軽視の姿勢であるといわざるをえない。この点、伊方原発最高裁判決(1992年10月29日)は、原発の安全審査の「具体的審査基準に不合理な点がある」場合には、原子炉の設置・運転が違法となる旨述べており、この最高裁判決からしても、安全審査基準の見直しをすることなく国が運転再開を認めることは許されない。

この声明に対しては、原発立地自治体の知事がこぞって反対又は疑問を呈しているが、地域住民の生命と安全に責任を有する者として当然の反応であるというべきである。また、最近のある世論調査では、国民の8割が原発の廃炉推進の意向を示している。このような知事の意見や世論に逆行してまで、原発再起動を強行すべきではない。

よって、経済産業大臣の声明は、直ちに撤回すべきである。


2011年(平成23年)6月23日

                          日本弁護士連合会
                          会長 宇都宮 健児
                                                        (引用終り)


 いつの時代でも、為政者の無能をなじることは割と簡単なことで、誰でもします。
 でも、私は、そういうことは本来あんまり好きじゃないです。(とは言っても、つい口に出てしまうことはしょっちゅうですが。気楽に言える立場なので無責任につい言っちゃうのですね。やっぱり。)
 
 私の思想信条と違う政党から出た首相であったとしても、その人が持っている真心があるなら、その点については出来るだけ信じたいし、良いことに活かして欲しいと思うのです。
 
 菅首相が、エネルギー政策の転換の問題に力を注いでいることについては、「延命策ではないか」「『歴史に名を残したい』欲」等色々なことが言われ、そりゃもしかしたらそうかも知れません。
 でも、色んな思惑が混じっているにしても、そういう不純なものだけではなくて、「自分がやめるまでに、明日の日本のために、何とか一筋の道筋をつけたい」という真摯な思いもあるのだろうと思います。
 
 もともと、不純と純なものが混じっているのが人間であり、人間の集合体である組織だって、多かれ少なかれそうではないかと思います。

 ならば、もしかして不純なものの中に混じっているとしても、その真摯な思いは活かして欲しいと思います。
 
 
 菅首相が、原発、エネルギー問題で将来への道筋をつけたい意思が本当なら、内閣で、しっかりと他の大臣と向き合って、粘り強く自分の意思を伝えて、足取りを確かにして、進めて欲しいと思います。

 浜岡のこととそれ以外のことなので、対象とする施設が違うわけですが、首相の「浜岡停止」、エネルギー政策転換の姿勢と海江田大臣の「再起動要請」の姿勢のギャップ、これでは、やっぱり困ります。首相の言っていることも、ほんまかいな、となってしまいます。

 日弁連会長の声明の指摘、もっともだと思います。今、安全だ、再稼働だ、と国が言うことへの疑問は大きいです。

 
 世間的にはやめろの大合唱かもしれませんが、私は、敢えて、菅首相に、あなたのもっている真摯な気持ちがあるのを信じます、それを確実な足取りでちゃんと活かして欲しい(やめるにしても、是非やっておきたいことがあるのなら)、とエールを送りたいです。

日弁連 エネルギー政策の根本的な転換に向けた意見書(2011.5.6) [くらしと安全(交通事故その他)]

 
 日弁連は、5月に、原子力発電所の段階的廃止を盛り込んだ意見書を出していますので紹介します。

 私は、内容を読んで、なるほどと納得できるものでしたし、この方向で自分も出来る努力をしたいと思いました。
 もう一つ踏み込むならば、資源を必要以上に贅沢に使うライフスタイルが果たして人間が本当に望む幸せに繋がっているか?という根本的な問いをもっと、というところくらいですが、このあたりは哲学的な部分なので、個人の論文ならともかく、日本弁護士連合会としての意見書に余り盛り込むのは馴染まないかもしれません。

 少しでも興味・関心がある方は、是非読んでみてください。

http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/report/110506.html

(冒頭だけ引用)
第1 意見の趣旨
当連合会は,エネルギー政策の抜本的な転換に向け,次のとおり意見を述べる。
1 持続可能性を基本原則とするエネルギー政策にすること。
2 原子力発電所については,新増設を停止し,既設のものは段階的に廃止する
こと。また,運転開始後30年を経過し老朽化したものや付近で巨大地震が発
生することが予見されているものについては運転を停止し,それ以外のものに
ついても,地震・津波に対する対策を直ちに点検し,安全性が確認できないも
のについては運転を停止すること。
3 石炭火力発電についても,新増設を停止すること。
4 再生可能エネルギーの推進を政策の中核に据えること。
5 エネルギー製造・供給事業の自由化を促進し,発電と送電を分離すること。
6 エネルギー消費を抑制するための実効的な制度を導入すること。
7 排出量取引制度等によってエネルギー供給の確実な低炭素化を図っていくこ
と。
8 エネルギー政策が多くの国民に開かれ,国民の積極的な参加を促すものとす
ること。
                                                     (引用終り)

もしも南方仁ならば [くらしと安全(交通事故その他)]

 人気のテレビドラマ「JIN」(現代の医師 南方仁が、ひょんなことから江戸時代にタイムスリップする。坂本龍馬と友達になり、暗殺されるのを防ごうとする。)を見ても、やはり原発事故のことが頭を離れません。

 過去にタイムスリップしたとして、何とか、福島第一原発の事故が起こらないように歴史を変えられないか、と。TVでしか現地の様子を知りませんが、想像するだけでも、本当にひどいことだと思います。

 かわぐちかいじ「ジパング」なども、似たコンセプトのタイムスリップマンガでした。これは現代の自衛隊が、第二次世界大戦中にタイムスリップするというものでした。たくさんの日本国民が亡くならなければならない運命を避けることができないか、というテーマ。

 
 現実に南方仁のようにタイムスリップすることはないでしょうが、例えば、

自分が南方仁のように未来からタイムスリップしてきた人間だと思って、未来に起こるさらなる原発事故による悲惨な被害を防げないか

と考えることは出来ます。誰でも出来ます。


 反原発・脱原発を「集団ヒステリー」と揶揄する向きもあるようです。

 が、現実が「ヒステリー」でどうになるものでもないことは、それ自体、もともと明らかです。
 
 福島第一原発の事故の処理、それから、もし他の原発を廃炉にするにしても、そのプロセスや後の管理、残された核燃料・核廃棄物の処理には、今まで以上に科学技術を尽くし、安全管理を尽くし続けることが必要です。
 それは「ヒステリー」や感情でどうになるものでもなく、人道とともにある科学的なものの見方で、色んな人が知恵を尽くし続けなければならないのですから。
 
 「電力を原子力に『依存』してきた。原子力をやめるなら何に『依存』してゆくのか?」という立論をする人がいます。
 私は、「電力を何かに『依存』しなければならない」考え方自体が間違っていると思います。
 これは、要するに依存症です。

 辞書によれば、「依存」とは「他に頼って存在、または生活すること。」です。

 人が生活する上でどれくらい電力を使うか、そのこと自体を選択しなおせばよいのです。電力源としてその時点で何が考えられるかとの兼ね合いも考慮に入れて選択するべきです。

 これが大筋の方向性だと思います。

 もちろん、今日明日どうする?という問題は別問題で、現在ある状況との兼ね合いで考えていくしかないのですが、私たちが進むべき大筋の方向性はちゃんと見定めていなければならない、と思います。
 

橋下徹氏を応援します! [くらしと安全(交通事故その他)]

  橋下大阪府知事は、弁護士の間では、かなり不人気です。はっきり言って。

1 今まで、光市母子殺害事件で弁護団を相手にする懲戒請求を煽るなどしたことについては、賛成しません。同弁護団の方針に文句があるにせよ何にせよ、懲戒制度の使い方を間違っているし、何も知らない国民を変な方に誘導したこと、そして、それによる悪影響が大きすぎたからです。

2 また、最近の、国歌斉唱に関する条例を強引に成立させたことも賛成しません。今、日本中が大変なこの時期に、ちょっとでも思いやりを持ち合おうというこの時期に、(デリケートな人の心をあたかも「日教組教員の反日教育姿勢」と決めつけるかのように)そこまで国歌斉唱時の起立云々に力こぶを入れることか、と思います。

3 そして、そもそも、伝統的な弁護士像からするならば、依頼者のために、あるいは社会的正義のため、特に、助けの得られにくい弱者のため、パフォーマンスよりも地道に活動する、というのが尊いことだから、橋下的在り方は好ましくないとされてきた。

 私としては、1,2は実に良くない、と思っています。
 でも、3の点は、確かに当たっているけど、そうとばかりも?と少し思います。

 私自身は、昔はミーハーでしたが、今は、基本的に、実力以上に有名になったりはしたくないし、マスコミに注目されたりもしたくない、私は私のしたいことを邪魔されない方が大事だと思っていますので、橋下氏のようにテレビで活躍したりはしないし、そもそも出来ないでしょう。

 ですが、橋下氏の在り方は、一種の特殊能力です。
 サービス精神が旺盛であるが為に、光市母子殺害懲戒請求扇動事件(事件名、長っ・・・)のようなことを、番組の「空気」に合わせてやってしまったりします。
 しかし、橋下氏のサービス精神や、行動力、突破力は、大きさとして言えば、大きいです。

 かつ、かの新型インフルのとき、学校閉鎖などが相次ぎ、たった1人で田舎の河川敷を歩くおばさんでさえマスクをしている戒厳令のような世の中の時、敢然と、
「このままでは大阪の都市機能が麻痺してしまう。早く、日常通りに。」
と橋下氏が言い、それに続いて他の首長が同じことを言い出す、ということがありました。
 このときの橋下氏の、本当の意味の責任感と行動力、あるいは勇気について、私は見直しましたし、本当にありがたいと思っていました。

 その後も橋下氏については、見直したり、落胆したり、の連続です。

 しかし、今回は橋下氏を心から応援します。

 
 脱原発と自然エネルギーへの転換。  このことを、関西電力管内で一番電力を消費しているはずの大阪府民と共に考え、一緒に実現する。

 これは、橋下氏が知事になるときに言った「子どもが笑う」世作りそのものでしょう。

 
 そもそも


大阪の人々の知恵の力は実はものすごく大きいのだと私は思っています。


 そうです。

 「脱原発」は、もはや、政治的左派のスローガンではありません。これから私たちが進まなければならない、進まざるを得ない道そのものです。(※私は「左派」に分類されても、「右派」に分類されても一向に構いません。)

 河野太郎氏(自民)も、核燃料サイクルの無茶(これは、原発政策の行き詰まりそのものです)をしっかり指摘しています。

 ソフトバンクの孫正義氏も、動き出しました。

 何より、アメリカではビジネスとして、「原発」はとうに見捨てられています。普通に「もうからない」ことが判明しています。


 光市事件も、「君が代」のことも、全て別にして、この一点については(註 当初の「この一点で」から訂正します)、私は橋下氏を応援したいと思います。
 手始めに、このブログ記事をアップし、府庁HPにメッセージを送ってみます。

 
 橋下氏のもっている精力、才能を、この大問題にこそ注力していただきたい、と思います。


 きっと元々の私と同じく、橋下氏を「いけ好かない」と思っていた人も、今は、あえて応援する声を上げてみては?と思います。

脱原発 と 私が「はたらく」こと [くらしと安全(交通事故その他)]

 私の考えは「反原発」というのとは違うと思います。
 科学技術そのものに、良いも悪いもないと思うから。軍事利用も出来るし、平和利用も出来る。
 原子力エネルギーをどのように管理するかというテーマを、科学として研究し続けることには決して反対ではない。

 私は、3月11日以前に、例えばアンケートなどで原発が増えることへの賛成・反対を問われたら「反対」と答えたでしょうが、とはいえ、「プルサーマル問題」も全く何のことか知らず、原発の住民訴訟に関わったこともなく(内容も知らず)、住民運動的なものに加わったことも支援したこともなく、原発が作った電気を消費していましたし、「節電」に心を配ったこともありませんでした。
 なので、「反原発」的なことも「脱原発」的なことも、自分の行動としては全くとったことがありませんでした。

 しかし、現状起こっていること、また、3月11日以降今までに多くの国民の前に初めて明らかになってきたことからして、現実の暮らしを考えたとき、「脱原発」を強く望みますし、今私が見聞する情報(現在の多様なエネルギー技術の進歩、諸外国の状況)から考えると、それは可能なことであるように思います。

 「原子力なしではやっていけない」というのは、意外と安直にそう言う人がいるけれど、これは「(原子力なしでやっていくことのあらゆる)可能性を否定すること」であって、これこそ簡単に言えることではないはずです。
 ここのところ、一番大事だと思います。 
 まして、「学がある、知識がある」ということで、何らかの社会的地位にある人ならば、なおさら、「原子力なしではやっていけない」と言うにはよっぽどの確証がなければ言ってはならない。論理的に「可能性の否定」であることともあるし、事が事だけに、という人道的な意味があります。
 
 「明日からすぐに日本の全原子炉を停止する」ことはさすがに難しかったり、それによるマイナスが大きすぎるかも知れませんが、長期的なプランの下で、色んな方面で知恵を絞って、「脱原発」方向をとってゆくことは、多くの人が合意できるのではないか、と思います。

 省エネそのものについて私は門外漢です。それでも一生懸命考えて行動したいと思います。

 私の仕事としては、関わる人にかかっている負担を減らすこと、「はたをらくにする」ことを心がけたいと思います。
 よくコメントくださる心如さんのブログで「地球に優しく、の前に、人に優しく」という文章がありました。
 本当にその通りだと思いました。
 
 人が「無理しすぎ」の在り方、いや、人が「無理させられすぎ」の在り方というべきか。(組織の圧力で窮屈な思い、違法な長時間労働、形式的で無駄な報告書の山、などのイメージ)

 そういう要因を取り除き、その人その人が、本当に心からやりたいことをやって、人生を楽しめる状態になる、そのことのお手伝いということを、これからも一層、自分の仕事のコンセプトにしたいと思います。

 抽象的で何のことか分かりにくいかも知れませんが、例えば、ごくありふれた例で言えば、

Aさんが、憎きBさんとの間の紛争で、日々頭を悩まされているとき、

私がAさんに対して、

「Bさんとの紛争についての(常識的にみて)妥当な解決とはどのあたりか」

を示すとか、そういうことのほかに、

「Bさんとの紛争を続けることのコストはどれほどのものか」
「Bさんとの紛争を戦うことの意味はどういうものがあるのか」
「Aさんの人生全般の課題と見比べたときの、Bさんの紛争との紛争の位置づけ」

というあたりを、Aさんの話をよくききながらも、私の目から客観的に見て整理して差し上げる、というようなことです。

 「がんばる」弁護士活動というより「楽になる」弁護士活動です。(とはいえ、例えば、事故で重度の後遺症を残してしまった事件など、その人の一生に関わる問題などは、短期的にはきっちり「がんばる」ことが長期的に「楽になる」と予測できることもあり、そのときは、そのように説明します。)

 で、省エネや脱原発にどう繋がるか、ということを説明するのには時間がかかるので、それはいずれ、として、ともかくも、人にとっての

(その人が欲しない)無理、無茶、無駄を取り除く

ことを、私の日常出来ることとして、やっていきたいです。

私は命を守りたいのです!~市民救命士 村上英樹のブログ [くらしと安全(交通事故その他)]

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 新年早々に、弁護士会で開催された救急救命講習に行ってきました。

 心肺蘇生術の実技、AED(電気ショックで心室細動を取り除き、心臓の働きを戻りやすくする機械)の使い方を、消防士さんに教えてもらいました。

 参加者はそんなに多くはなかったのですが、兵庫県を代表する命の弁護士である津久井進先生の姿もやはりありました。

 この講習以来、今までは気に留めませんでしたが、AEDは結構あちこちに配備されているのだな、ということに気付くようになりました。

 いざ誰かが倒れているときに、きっと私も動転したり、足がすくんだりするのだろうけれど、救命講習を経たことによって「なすべきこと」がある程度見えているはずなので、もしかしたら救える命を私の手で救えるかも、と思ったりもします。

 どなたも、仕事や勉強その他忙しい生活でしょうが、救急救命講習だけは機会を見つけて一度受けてみられることを強くお勧めします。
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「オレンジの取り合い」から考える平和創造~北斗の拳「種もみじいさん」の話まで [くらしと安全(交通事故その他)]

 
 私は、「弁護士9条の会」に属していますが、実は、特別なイベントを除いて、1回も例会に参加したことはなかったのです。
 が、この間はじめて、例会に参加してきました。

 というのは、今回、2007年の兵庫県弁護士会での憲法市民集会に来て下さった、奥本京子さん(大阪女学院大学 平和学 准教授)が来られ、「紛争を非暴力で解決する」をテーマに、実際に参加者が討論をする、という企画で、特別に先輩弁護士から声をかけてもらったからです。

 平和学というのは、例えばこんな本があります。↓ 


ガルトゥング平和学入門

ガルトゥング平和学入門

  • 作者: ヨハン ガルトゥング
  • 出版社/メーカー: 法律文化社
  • 発売日: 2003/09
  • メディア: 単行本



 私がもともと「9条の会」に入ったのは、イラク戦争 と 改憲言論が盛り上がり という2つの要素が時期的に重なっていたことによるものです。

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交通事故訴訟から考える~今ある人を大切にする責任ある社会を [くらしと安全(交通事故その他)]

 私は、交通事故の損害賠償請求事件を多く受任しています。
 
 殆どは、被害者側の弁護です。

 交通事故に遭った場合、相手(加害者)が保険に入っていてくれることは基本的にありがたいことです。入っていなければ、加害者にお金がなければ、補償を受けられないこともありますから。

 しかし、加害者側保険会社の提示額が、低すぎるために裁判をしなければならない、というケースが多いのです。そういう事件を多く担当しています。
 「低すぎる」というのは、例えば、事故の状況が真実はどうであったのか?ということに争いがある、と言うような場合は仕方ないのですが、事実関係等に全く争いのない場合であっても、裁判での平均水準と保険会社の提示額が大きく違うということがあるのです(実際は多いのです)。

 ですから、裁判をしないということが即、明らかに「泣き寝入り」である、という事故・事件が多数あります。
 
 
 こういう事件を取り扱ってそれを収入にしている身ではありますが、私は、保険会社が裁判前から「裁判水準」で呈示をするべきだと思っています。
 そうすれば、多くの人が裁判をせずに早く損害賠償金をもらえます。事故からの立ち直りも早くなります。
 
 私の仕事は減りますが、仕方ないでしょう。不要な紛争はないのが合理的な社会です。もっと言えば、社会にシステム的な不合理がなくなって、弁護士なんて今の半分もいらなくなれば、それは良い社会です。弁護士が倍に増えて大活躍する社会なんて、そこで暮らすこと自体、私はマッピラです。
 交通事故だけでなくて、色んな分野で、そんな合理的な良い社会が実現でき、弁護士が不要になったら、私は喜んで廃業して、小学生のための算数教室でも開いて暮らそうと思っています。

 
 話がそれました。
 この交通事故の問題、しかし、実は、保険会社が悪いというだけの問題ではないと思っています。というか、保険会社が黒幕ではない、と思います。
 これは社会全体の在り方の問題です。
 一言で言えば「前がかりの無責任クルマ社会」の問題です。

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