東大にはいるのになぜお金がかかるのか [だから,今日より明日(教育)]
さてさて、今年はブログのコンセプトをすこし変え、私の思っていることをご批判を受けることも覚悟の上、自由に本音のところをもっと過激に出していこうとおもう。
さて、教育言説について、私が前々から違和感を感じていたことに,
お金持ちの子は勉強が出来るようになるが,貧乏だとダメだ
とか
東大にはいるのは金持ちしか入れない
という説がある。
今日は,このことについて論じてみたい。私の素朴な思いと,私のしていた(たぶん)勘違いも含めて。
私は,私自身がお金持ちの出ではないにも関わらず、自分が望む限りの最高の環境で勉強が出来たことを思うと,
勉強は金が無くても出来る
貧乏人がのし上がるためには勉強しかない
という気持ちが強く,
金持ちでないと勉強が出来ない
という説には「そんなはずはない」と思っていた。
どう考えても,例えば東大に入ることを考えても,必要不可欠なアイテムを考えると,
教科書も、問題集も,鉛筆も,消しゴムも,ノートも全部○百円~○千円程度のもの
であって,それが買えないから東大に入れないという子はいないのではないか,と思う。任天堂DSのソフトのほうがずっと高い。大学入試で,予備校と言ったって,どうせ市販の問題集や参考書で書いてあることしか教えないから通う意味も別にない,と思う。(とはいえ,私は,男子校だったので,女子高校生との出会いを求めて,「灘高生なら無料で受講できる」という有り難すぎる某予備校に通っていたが。)
また,私のイメージでは,
金持ちボンボンは私学のエスカレーター大学に行き,東大京大には余りいかない
という決めつけ,偏見もあった。
まず,上の私の素朴な考えのうち,今でもやっぱり多分正しいだろうというのは,
東大に入るための勉強そのものに直接必要なお金というのは別に多くない
ということである。教材も鉛筆も高くないという限度においてである。
最近,私の勘違いだと思ったのは,
a 私自身は環境に特に恵まれないが私個人の努力で克服して学力を身につけたという思い上がった考え
b 実際に東大に入るのは,「勉強に直接必要なお金」だけあれば入れるのではないかという考え
である。これらはどうやら間違っているようだ。
2 私自身のこと
aについては個人的だが,親は今でも「うちは裕福でない」というが,客観的に見ればお金に困ったことはなかったし,なるほど小学生の時から塾通いをしていたわけではないが,それ以上に良好な環境に恵まれ,実際家族が誰か常に私の相手をしてくれていたのであり,また,教育的な配慮も十分すぎるくらいに行き届いていた。
「勉強しろ」「点を取れ」という表面的働きかけではなく,遠巻きに息子を見守るというだけの大きさをもった親が,黙っていても常に見守ってくれていて,私の自主性を尊重し,私自身の内側の力を引き出してくれたということを,今になって嫌と言うほどわかる。それだって,親の(経済的な面も含めた)堅実さ等に支えられているに違いなかった。
また,私は欲しいもの(おもちゃやゲームなど)を余り買ってもらえなかったように思うが,それは貧乏だったからでなく,親が敢えて「適度に足らぬがちの生活」を私に与えてくれていたことも,今よく判る。そのありがたさもしみじみ感じる。
私の個人的な資質が学力を高め,司法試験にもサクッと受かったように勘違いしそうになることもあるが,極めて良好な環境に恵まれたということがその前提にあったことは間違いないから,感謝の念を忘れてはならないと思う。
同時に,こんなに恵まれた環境で学ぶことが出来る人は,やはり少数だと思う。経済条件・親の教育観…どれをとっても,どれが欠けても,今の私が得られた学問的素養等はない。
3 東大に入るには,実は勉強以外のお金がかかる
東大に入るのを(私は東大に入っていない。京大でも阪大でもおなじこととして論じる),東大に近い時点から考える。
高校~予備校時代に,東大に合格するだけの勉強をするということについて。
勉強そのものにはお金はかからない。
例えば,数学はチャート式を自分でしっかりやれば東大に受かるくらいはわけない。京大入試の数学も,「チャート式」の問題の類題のワンパターンな繰り返しにすぎない。
といって,「わけない」というのは,「やれば」である。やりこまなければやっぱり無理だ。
高校時代に勉強をやり込むということそのものに,そんなに,お金はかからない。しかし,普通,やり込めるだろうか?
高校生に誘惑は多い。将来への視野というのも中々持ちにくい。
具体的に観察しよう。
灘高などの進学校の高校生。これは,周りに東大に行く人もおり,先輩に東大生もおり,東大への見通しを持ちやすい。みんなが勉強する時期はしているので,勉強するのも比較的抵抗が少ない。
しかし,進学校でない高校となるとどうか?みんながあまり勉強をしない中で一人頑固にやることができるか?
この辺りが,格差を生む。
3 無視できないモテ度とお金の関係
もっと重要なのは,「モテ度」だと思う。
進学校の高校生の場合は,周りの環境もあり,そこそこちゃんと勉強をしていることが「モテ度」の妨げには余りならない。「勉強があるから」と言ってデートを断ることもまあ許されるだろう。女の子と予備校を介しての付き合いだってあるくらいだ。そういう「文化」がある。
しかし,そうでない高校の場合,「ガリ勉」などというのは市民権が極めて得られにくい。下手をすればいじめの対象にすらなりかねない。「モテ」などということからは,程遠いことが多い。「モテない」うえに、いじめられたらたまったものではない。
さらに,(親の)お金の力を使った飛び道具がある。
「モテ度」底上げの計 だ。
お金持ちの家の子は,ブランド物の服を着る。兄妹もお金に困らないからオシャレだ。だから,持ち物が高いだけでなく,センスも良くてオシャレで,「モテ系」になれる。そういうところで,「モテ系」の地位をそこそこ確保できると,高校生でも,彼女と安定した関係を築きながら,落ち着いて受験勉強に励むこともできる。理想的な高校生活だ。
しかし,貧乏ならそういうわけにはいかない。「貧乏でも,見た目はダサくても,心が清く,志が高く,学を究めたい」という素敵な心の良さを分かってくれる彼女(または彼氏)がいて心の支えになれば,ガリ勉して東大に入ることも出来る。しかし,そんな上手いこといくはずがない。モテか東大かは両立せず,どちらかを選択せざるを得なくなる。モテ(あるいは彼女)か京大を捨てねばならない,と言われれば,私だって迷わず京大を捨てモテ(あるいは彼女)をとっただろう。
4 だから私立中高一貫が強い
大体,私学の進学高校が,特殊なカリキュラムでハイレベルの授業をやっているから進学率がいいなどというのは嘘っぱちであると思う。私の灘高での経験では,ハイレベルの授業をやっていようがいまいが,大体,生徒は1割くらいしか授業を聴いていなかったからどのみち関係がない。(強いて言えば,余り授業をちゃんと聴けだの,課題を提出せよだの,わけのわからん息苦しいことを言わないのが灘高の良さだったように思う。「勉強など一人一人が自分のペースでするもの」ということをよく理解してくださっていたのが恩師の先生方だったと思う。)
しかし,お金を出して私立の中高一貫校に入ったならば,
・ 高校受験がないから,部活もたくさん出来る,たくさん遊べる
・ 私学同士の交流に参加できる,オシャレなお友達が増える
という効果があり,モテ度アップにものすごく繋がる。モテは心の安定に間違いなく繋がり,勉強に打ち込む妨げ(煩悩)を解消するだろう。
高校から灘高に入り,田舎出で,都会的な友達も最初は全くいなかった私は,そういう世界に遅れて入っていったから,「非モテ系でありながら,モテ系になろうと一生懸命頑張っている(ときどき頑張り方が間違っている)」子で,四苦八苦していた。モテの世界における、「富国強兵明治日本」という状況でがんばっていた。だが、お小遣いの額の差によるどうしようもなさもよく感じた。
とすると,東大に入る勉強そのものではなく,
東大にはいるための勉強に打ち込む環境や,心のゆとりを得るために(モテ度を得るために),私立学校の学費や私立学校にはいるための塾代が必要
ということになってくる。
これはほんまや,と思う。
そういうお金がなければ,一人で,「ガリ勉」と呼ばれ,変人呼ばわりされたりいじめられたりしながら,彼女もできず悶々とする心を抱え葛藤しながら,修行僧のような気持ちでひたすら勉強を長年孤独に続けてやっと東大に入ることが出来る。(入ったところが,「大学デビュー君」などと言ってバカにされたりする,ということになる。ひどいもんだ。)
なお,モテはどうでもよくて、性格的に「本物のガリ勉」でありたい人も,例えば,灘高では守られる。そういう人に対する迫害はなかったと思う。それは,難関試験を合格した者同士だからだろう。だが,大抵の学校では,いじめられたり迫害を受ける可能性が高いのではなかろうか。今の学校での同調圧力とか,ちょっとでも違う者をいじめる風潮は酷いと聞く。「ガリ勉」に市民権など普通はないらしい。
ダサイという理由で虐めるなど,ダサいのは自分一人のことだからほっといてくれ,と思うが,だが他人に干渉せずにいられないからイジメが起こったりする。ひどいものだと思う。
やっぱり経済格差と学びの環境については,明らかな相関関係があると思う。
5 昔と何が違うか
昔は,いい大学を出さえすれば…というのもあり,また,社会全体がもっと貧しかったのだろう。娯楽も少なかったのだろう。
だから,「貧乏でも苦学して東大へ」という話が多かったのだろうと思う。
しかし,今は,「金持ちほど,色んな(物質的な)誘惑をうまく乗りこなして,東大へ」という時代であると思う。逆に言えば,「金持ちでなければ,甘い誘惑によって,スポイルされやすい。」と言える。例えば,幼少期からだって,経済的にも時間的にも余裕のない親は,子どもにビデオを見せ続けたり,ゲーム機を与えておとなしくしてもらう以外に生活が成り立たないということもあるだろう。これを,「心がけがなっていない」というだけの問題とはいえない,と思う。
もっといえば,「希望格差社会」という言葉もあるらしく,「希望をどれだけ持てるか」という点に経済格差が現れさらに格差の固定化に繋がるという論がある。かなりの程度当たっているように思う。
基本的な「勝ち組」感に支えられると,ちょっとの努力を継続することによって,世代を超えて勝ち組を継続しやすい。
「負け組」感のもとで,「敢えてストイック生活で下克上!」なんていう立志伝は今は殆どない。任天堂DSなど遊び道具はいくらでもあるから,目先の幸福感を求めてしまう。それは自然というものだと思う。
6 ではどうすればいいか?
中々良い方法は思い浮かばない。こうなれば,教育問題ではなくて,経済政策の問題ではないか,という気がしてくる。でも、経済的不平等がなくなることも現実にあり得ないし、それだけの問題でもやはりない。
抽象的な,理念型のようなことでいえば,
「勝ち組」「負け組」という見方を改め,色んな在り方の色んな良さをみんなで認め合う,真に「個人の尊厳」が大切にされる学校や社会ができればいい
ということであるが,その実現は簡単ではない。
極端に言えば,
モテの平等
があればだいぶ違うとは思う。が,「モテ」というのが異性への自然の情に支えられる以上,そんなものが実現するはずもない。
だが,どうか,学校や地域社会における「人と同じでなければならない」という同調圧力や「息苦しさ」を緩和して,
ガリ勉でも,筋トレマニアでも,オタク系でも,それぞれが互いに「それなりのリスペクト(尊敬)」をしあって暮らせるようなそんな風にならないか
と思う。
7 金太郎飴のような画一主義はつまらない
だとすれば,例えば,義務教育の後である高校においても,履修単位を一律に揃える,しかも,「履修単位というのが決まった科目を決まった時間数授業を受ける」といった形式張ったものにしていて,外れるものを許さないのは,方向性が全く逆なように思う。
去年教育基本法改正問題論議のなかで,「改悪反対」と叫んだ人の中でも,「世界史を履修できなかった高校生は被害者だ」等と「履修漏れ許すまじ」を言う人もいた。改悪反対の輪を乱すのもはばかられたのでその時は余り言わなかったが,私には,「履修漏れ許すまじ」のような「金太郎飴主義」と,自由と創意工夫を大切にする旧教育基本法の理念が調和するとはどうしても思えない。
高校くらいになると,互いは,「互いが自分と違うものをもっているということでリスペクトしあうこと」と,「同好の士同士で共感し合う」ことの両輪で行くのがいいと思う。勉強も,興味関心をエネルギーにしなければ,どうしようもないだろう。
いわば,一人ひとりの興味関心に支えられた、いくつかの「サークル」的な集まりによって学習し,多様なものをそれぞれに身につけ,違う「サークル」の者を尊敬しあい,また,学習内容を交換しあい,そういうイメージになれたらいいと思う。
どうせみな同じ過程の「数学」「英語」「世界史」を学んでいるなら,今と変わらず,序列にみんなが並べられるだけだろう。
「東大行く奴ぁ行けばよい,だが,違う俺たちは違うものを学ぶぜ。そして,東大行くための科目だけが本当に強いかどうか,10年経たなきゃわからんぜ。」
と負け惜しみではなく本気で言えるような高校過程にならないものか,と思う。高校過程においても,大学ほどでなくても「新しい科目」を作ってもいい。「調理」「服飾」にとどまらず,「医療」などがあってもよい。おなじ「数学」でも、「数学I」とか訳のわからんものではなく、「数学史」の科目があってもいいだろう。(ちなみに,「数学史」はちょっとかじっただけでも,めちゃくちゃに面白い。)
それに大学入試も,もっと科目選択や、「選択問題」等増やしてみても面白いだろうと思う。
私の「自由化」的発想は,特に教育基本法「改正」反対を一緒に叫んだ人たちのほうから,「新自由主義につながる」と批判されるかも知れないと思う。しかし,私はいわゆる「新自由主義批判」が妥当するのは、経済面・条件面の不平等によってチャンスが平等に与えられないことによって、弱肉強食の状態が起こり、人間の尊厳が損なわれる場面のことだとおもう。
私が言うのは人の精神活動の多様さ・自由さをもっと大事にせよということであり,それこそは,「一人一人違う個人の尊厳を大切にするもの」であって,日本国憲法の精神そのものだと思っている(何でも「新自由主義」に結びつけるのは間違っていて,それは下手すれば逆に,精神活動統制の「国家主義」に繋がってしまう,と思っている。それは、憲法や教育基本法が一番守ろうとしているものを逆に破壊することだ。)。
8 最後に
なんやかんやと人が学校や教育にかける期待は大きいようで,それはそれで悪いことばかりでもない。
ただし,教育や学校の限界というものを見定めた上で,冷静な目で,「もっとみんなが楽に生きられないか」というリラックスこそ必要ではないか。私は,「学校になど行かなくても,幸せならそのほうがいいじゃないか」と思う。(こんな事を言うと,「そんな個人主義が戦後日本をダメにした」という人がいるが,こんな個人主義が戦後日本で実現したことなど一度もない。)
「モテ」にしてもそうだ。みんなが頑張ってヴィトンをもつから,給料月20万円の人が30万円のヴィトンを無理して買わざるを得なくなる。そんなのおかしい。
表面的な部分での「頑張りすぎ」「気張りすぎ」というもの,他人への対抗意識,というものが,本当の人として大切な部分を失わせる。自然なものが歪められているのではないか。
「ゆとり教育」だって,もともと,「総合学習を『しなければならない』」だから,結局他教科の時間を圧迫し「算数は○時間で,これだけをやらなければならない」という窮屈さを強くし,ゆとりを失わせるという矛盾をはらんでいたのではないか。
雑誌の「スローライフ特集」などはいいのだが,現状では,結局,逆に勝ち組,金持ちのぜいたく自慢になっているものが多いのも気にくわない。もっと,「ほんまもんのスローライフ」を推奨して欲しい。
教育再生会議とか色々お偉いさんが話し合っているわけだが,あいかわらず、「社会総がかり」というスローガンのように、表面的な「気張り」主義・「キマジメ」主義が支配しつづけているような気がしてならない。かわいそうなことだ。
まじめな話、何事も、リラックスしなければ大きな力はうまれない。
「全国学力テスト」も,「どんな問題がみんなできないのか」という調査を目的とするなら全員受けさせなくてもある程度の母数があれば目的を達するわけだし,全国一律に全部やらせる意味が分からない。やっぱり地域や学校を序列付けて比べる効果になるだろう。むしろ弊害の方が心配だ。
「兵庫が勝った」とか,「うちの学校が一番だ」とか,しょうもないことを言う人がでるのではないか。勉強など「自分は自分」だろう。そういう「自分は自分」意識が育たないから,周りばっかり気になる。それで,勉強に打ち込むことが妨げられるのだろう。
だいたい「できる子」にとっては,「どうせ100点に決まっている。」という勉強にもならない,しょうもないテストを一つ余計にやらされるだけのことになるだろう。いい迷惑だ。それより危惧されるのは、「できない子」は,学校や地域の評価を下げるのではないか,という変な集団主義的プレッシャーを与えられたりしかねないことだ。これは最悪だ。
もっと,「楽しくて賢くなる教育再生」といったワクワクするような提案こそが必要だろう。「学」が「楽」に通じるのでなければ,子どもの生活は幸せではない。
私が教育再生提案するなら,「エンジョイ!ラーニング!~学びはあなただけのもの」とタイトルを銘打って,子どもが人それぞれ自分のペースで自分にあった学習をするというものを提案したい。
そして,集団での「授業」というのは大抵眠たいだけでつまらないので,なるべく授業形態を減らし,自分のペースで必要な内容を自学自習できる体制をつくり,それを先生がみまもる,というものを提案したい。(集団授業にこだわるから、小学校からの「学力別クラス」とかいう発想にいかざるを得なくなったりする。)
そのほうが個別指導的要素が多くなるわけだから,少人数学級でなければ出来ないし,予算もかかる。
だが,「米百俵」と小泉首相も言ったではないか。それが本当ならお金を出そう。お金をかけてみんなを楽にして、現場に創意工夫の余裕を与えることが必要だ。それが実現したとき「なにを今まで『気張って』苦労しとったんやろ、あほみたい。」と思うはずだ。
イデオロギーや思想信条の別などそんなことは関係なしに、子供の生活が幸せに満ちたもので、別に修行僧のような努力もしないし、先生も不必要な「気ばり」もしないが、子供が楽しく学び育ってゆける社会ができれば、みんな幸せなはずだ。
「きばらない国、日本」をスローガンにするのがよいと私は思う。不真面目言説に思われるかもしれないが、きばらなくてもうまくいく国の仕組みをつくるのは、知の力を最大限結集しなければできないことだ。
今日初めて 「海峡」からこちらのブログにやって来ました。
ほんまに久し振りにこんなに面白いものを読ませてもらいました。有難うございます。
親の堅実さに経済的・精神的安定が含まれているのは,子供を育てていてよくわかります。
モテ がそんなに重大だとは知りませんでしたが,モテ度が心のゆとりだとすると,それは大切。
ガンバリ過ぎが人をカン違いに走らせる。だれかとの争いに勝つ事が大切なんじゃない。 しっかり見なくちゃいけないのは, 自分自身。
勝負は一生かけた一本勝負だけだから。
by keiko (2007-03-14 10:38)
>keikoさん
コメントありがとうございます。
「モテ」というのは一つの象徴であって,それは全てではないと思うのですが,中高生にとっては,自分が「いけている」「いけてない」ということは凄く重要なことに感じているように思います。
中高生からしてみれば,「いけている」「いけてない」とか「モテ系」「非モテ系」によって,まるで社会階級があるように感じてしまうものだと思います(私の中高時代を思っても,そういう感覚がありました)。
そのなかで,「自分が自分であるだけでかけがえのない存在」ということを実感しにくい現状が少しでも良くなれば…若者を取り巻く環境がそういうものになれば…自分と違う他者へのある程度のリスペクトがある環境になれば…という思いがあって,書いてみました。
by hm (2007-03-14 14:36)
お答え,ありがとうございます。
なるほど,社会階級とはわかりやすい説明です。
いけてる か いけてないか はやはり他人の目が尺度になるのですか。それでブランド物を揃えたら安心ということになるのでしょうか。
今の高校生と方向は違いますが,あのころの内面の不安定さはいやーな記憶です。
「自分が自分であるだけでかけがえのない存在」 ということを実感しにくい現状・・・ は大変問題です。 自分自身の大切さは勉強より先に周りが教えてやらなくてはならないことです。その辺に手をかけないからかわいそうな子供が増える。人間の強さの基盤を作る大切なことなのに。
随分年月が経ってしまって・・と言うかその頃の自分たちにはそういう環境が全く無かったので中高生の心理についてはボンヤリ想像するだけです。
そうこうするうちに,我が子もそんな年頃になります。何かの時には御意見が参考になるかも知れません。
by keiko (2007-03-15 18:17)
学力を「モテ」で微分するとは、何と斬新で魅力的な言説でありましょうか。
ま、でも、実際に勉強してるのは思春期の若者ですからね。
一つだけヘンな話題をあげますと、帰国子女などで英語の発音が非常に上手な生徒というのは、普通の学校だとけっこうイジメられやすいんです。「ふん、自分ばっかええかっこして」というのかどうかはともかく、クラスで浮きやすいんです。だから、わざとヘタクソなカタカナ英語をしゃべるように練習したりするんです。
しかし、これが帰国子女や英語が得意なヤツばっかりの学校なら、そういう妙な「努力」は不要で、ごくナチュラルに英語力を伸ばせるわけです。ただし、そーゆーハイソな学校に行くには、それなりのゼニがいるわけでして。
ゼニ金と学力の相関は、hmさんが「モテ」という観点で切り込んだように、かなりいろんな観点から切り込んでみないと分析できない問題のように思います。
by (2007-03-17 22:59)
>shiraさん
コメント有り難うございます。
斬新でけったいな言説ですが,まあ,私なんかが,中高生のとき人一倍多感で,勉強もともかく,「モテ」についても翻弄されまくっていたことから来る一つのものの見方として現れた文章…ですかね。
帰国子女の例,なるほどと思います。本当に,ちょっとのことでいじめられたり,しやすいですもんね。
by hm (2007-03-19 12:44)
過去記事にコメントですみません。
拙記事にniceをありがとうございました。
大変興味深い説をお持ちで、読み込ませていただきました(笑)
御自身の経験を世俗に上手く取り込んでいらして。
「モテ」で語られるとは思いませんでしたけど(笑)
思春期にはそこが重要課題ですよね。うんうん。
勉強ができるだけでももてないし、おしゃれなだけでもダメだし。
でも、面白いことに、社会人になってから本当にモテる人って、思春期に
モテた人と違ったりしませんか?
結局、親がお金持ちなだけでも、勉強だけできるだけでもダメなんだって、
大人になると分っちゃうんでしょうね、男も女も。
30以降が勝負!よ!
(あれ?hmさんは独身でしたか?)
by ゆうこりん (2007-03-30 22:21)
>ゆうこりんさん コメントありがとうございます。
私の切り口は,一つの切り口で,また,乱暴にモデル化した部分があるので,いやはやお恥ずかしい…です。
>でも、面白いことに、社会人になってから本当にモテる人って、思春期に
モテた人と違ったりしませんか?
結局、親がお金持ちなだけでも、勉強だけできるだけでもダメなんだって、
大人になると分っちゃうんでしょうね、男も女も。
これは本当にそうですね。もう全然ちがう。
なので,長い目で見れば,10代のモテなどその時だけのことなのですが,しかし真っ最中にいるとそれが全て…
>30以降が勝負!よ!
(あれ?hmさんは独身でしたか?)
結婚6年を迎えますが,「30以降が勝負」には同意!
モテパワーの発揮の仕方も色々なので,独身でなくても,自分を磨き続ければいいことある。うんうん…
by hm (2007-04-02 16:47)