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これはデリケートな問題~君が代最高裁判決 [音楽は素晴らしい]

 公立学校の式典での君が代のピアノ伴奏を拒否した音楽教諭の事件の最高裁判決があった。ピアノ伴奏強制を合憲として確定させた。

 教育現場における国旗国歌強制問題に対する私の基本的な考えは,過去の記事http://blog.so-net.ne.jp/h-m-d/2006-09-22のとおりだが,今日はちょっと違った切り口から論じてみたいと思う。

 少し,私独自の(特異な?)考えも含め,従来の国旗国歌問題の(例えば 教委 vs 組合)双方の代表的な議論とはいずれも違う論考になったが,読者の皆さんも一緒に考えていただければ幸いである。

1 音楽という行為のデリケートさ

 まず,私は,楽器の演奏や歌を歌うことがとても好きだ。この喜びは,自分で音を創り出す喜び,その際における快感というものに支えられる。

 つまり自分の好きな曲を好きな楽器で演奏するその行為における快感が堪えられないというものである。お金とか名誉とか,何かを得るためにとか,そういうことではない,純粋な音楽の喜びは純粋なままに,というのが私の考えだ。

 数年前にみた宝塚歌劇「ファントム~オペラ座の怪人」の中で,仮面をつけたオペラ座の怪人の素顔を見たいので交換条件として歌を歌うと言った少女(花總まりさん)に対し,オペラ座の怪人(和央ようかさん)は,

「それはいけない。人はただ楽しみのために歌を歌うべきで,何かを得るために歌を歌ってはいけないんだよ。」と言ったのを思い出す。

 例えば,私はピアノを演奏することも好きで,最近はウクレレ演奏にはまっている(私のこのページの写真のウクレレは,私の愛用しているGストリング コンサートサンというウクレレだ。私の宝物である)。レッスンも受けて少しは技量も上達した。

 しかし,いくらお金をもらっても嫌いな曲を演奏することはできない。例えば数年前はやったCMソング「ひっこぬかれて~~吹き飛ばされて~~」とかいう歌詞の曲があったが,私はその曲は嫌いなので,たとえ弾けても絶対に演奏したくない。

 うまくいえないが,音楽という自分の心の大切な領域を犯される気がするのだ。

2 しかし公務,仕事,プロとなれば別ではないか,という問題。

 1は純粋な音楽愛好家としてはそうあるべきで,それでこそ音楽を最大限味わうことが出来るのではないか,と私は思う。

 だがしかし,音楽を仕事とする人がいる。プロミュージシャンなどもそうだし,音楽教諭もそうだ。

 この場合,例えば嫌なことがあって「今日はピアノを弾く気持ちになれない」という時であっても,演奏契約があれば基本的には演奏を強制されることになるだろう。

 そうでなければ,お金がもらえない。生活できないからだ。

 私が,音楽や芸能で食べてゆくことを選ばなかったのは,演奏能力の問題だけではなく,それを職業にしてしまえば,純粋な私の音楽という世界が違ってしまうようにも思ったという理由がある。でも,そういう仕事をどんな状況でも立派にこなす人を,私は立派だと思う。

 そうであれば,公立学校の職務命令である以上,ピアノ伴奏はいやでもやらなければならないのか。つまり,音楽の先生になる以上は,(仮に嫌でも)君が代の伴奏をやらないといけないことを覚悟すべきであったのかどうか。

 それが嫌なら先生になってはいけなかった,ということなのかどうか…

 ただし,例えば普通のお役人と,教師はだいぶ質が違う。お役人は基本的には命令系統に従うということに服するのでないと行政(純粋な行政)が成り立たないが,教師は教育現場で直接人育てをするのであるから出来るだけ考え方も多様な人を確保した方がいい…問題はそれがどこまでか,ということ。

 音楽に携わるとはいえ,多少のことは我慢しなければ社会も自分の人生も成り立ちにくいのも事実だが…

3 君が代とピアノ伴奏について

 素朴に言って,この点に私は違和感,というか今イチしっくりこないところがある。

 君が代の曲については,wikipedexiaによれば次のとおりだ。

(引用はじめ)明治13年(1880年)に宮内省雅樂課の奥好義のつけた旋律を雅楽奏者の林廣守が曲に起こし、それにドイツ人音楽家フランツ・エッケルトによって西洋風和声がつけられた。(引用終わり)

 私の経験で言って,実は(他人がする)君が代のピアノ演奏というものを聴いたことがない。

 君が代そのものは何度も聴いたことがあるが,それは,オリンピックの表彰式であったり,管弦楽(+吹奏楽)風のテープだろうか,そういうものだけである。

 だから,私にとっての君が代は,管弦楽(+吹奏楽)風?のそれだけである。

 雅楽をもとに西洋人が和声(和音)をつけているのであるから,純和風というわけではないが,しかし,オリエンタルな雰囲気を重視して作られた曲であろうと思う。

 そして,私のイメージとしては,あのテレビで流れる管弦楽(+吹奏楽)風の君が代が君が代だ。あの伴奏(オーケストラ?)も,オリエンタルな雰囲気を醸し出そうという演奏に思える。

 つまり,ピアノの君が代はしっくりこない。

 オリンピックなどの舞台で,「あ,ここは君が代だな」と思ったときに,ピアノの音色がポロンポロンと響いてきたら違和感を感じるのが普通では無かろうか。

 実は,私の小学校時代の音楽教科書の最終ページに「君が代」があり,ピアノの伴奏譜面とおぼしきものがあったので,うちのピアノで弾いてみたことがある。面白い伴奏だな,と思ったものの,やっぱりテレビで聴く「君が代」イメージと違った気がする。

 こう書いたからと言って,オーケストラテープでの君が代なら強制してもいいとか,あるいは雅楽の楽器なら強制していいとか,そういうことを言うつもりではない。

 ただ,音楽にある程度(音楽教諭程度)馴染みのある人の場合に,「君が代のピアノ伴奏が通常予想されること」と言えるのかどうか,私は,感覚的にしっくりこない。(これは私の音楽の感性で,人それぞれの領域だろうが…)

 まあ君が代を式でやるとしても,音楽教諭がそこまで嫌だというのならば,ピアノ伴奏にこだわるのもヘンテコで,オーケストラ風のテープで代替したらよかったのでないか,という気がするということである。

4 君が代の曲について

 これを言うと,主に教育現場への押しつけ・強制に反対する立場でものを言ってきた私に賛同してくれる人たちの中には,ガッカリする人もいるかも知れない。でも,権利・自由とかの問題とは別問題として,正直なところを言う。

 私は,君が代の「曲」は嫌いではない。あのオーケストラ風のテープの音楽も嫌いではない。私にとって,あの曲にいやな思い出はなく,オリンピックで荒川静香さんが金メダルを取ったとか,そういう思い出しかない。

 また,私は,日本古来の神道とか,八百万の神の思想とか,神社参りとか,巫女さんとかは結構好きなので,雅楽も結構好きである。というか,かなり好きである。だから,あの曲は好きといえば好きである。オリエンタルな雰囲気が好きだ。

 歌詞はどうか?こんなことを言うとまた左右両方から怒られそうだが,まあ良く分からないし,国際舞台ならますます分からないから,まあいいんじゃないか,という感覚が強い。よく言えば,なんとはなしに「悠久」という感じがいいんじゃないか,というくらいだ。悪く言えば,良くわからない,ということだ。(一時は真面目に考えて「君が代」=「天皇の世の中」ならおかしい,と考えていたこともあるが,歌詞の解釈は色々らしく,そうするとおかしいというのも,何をおかしいというのかわからなくなる。結局よく判らない,というのが今の考えだ。)

 以上は,「私の」感覚である。これは,私の経験や感性をもとにした感覚である。

 これくらいの感覚を共有できる人も多いだろうが,このような感覚にはどうしてもならないという人もかなりいるのは事実だ。今回の裁判の音楽教諭など教師生命をかけて拒否するのだから,それは,本当に感覚として(あるいは,考え方として)曲げようのないものだろう。

 私は,私独自の神道観でいうならば,この音楽教諭が心のうちに大切にするもののなかにも「神が宿る」として尊重しなければならないのではないか,と思える。

 そういうものが日本古来の神道の寛容な心として私たちの先祖が大切にしてきたものではないのか…と。これは,ちょっと美化しすぎだろうか…

 とにもかくにも,一人一人の感性といえど,日本ほど,今の国旗国歌に対して色んな思い,考え方が極端に分かれる国はないであろう。

 もはやそれは,「(他国の人並みの)愛国心が育っているかどうか」の問題という域を超えているように思うのだがどうだろうか。

 やはり,それをたどると,国旗国歌を巡る歴史,また,不幸な過去の戦争の歴史や体験,それを巡る思いを無関係に出来ないのではないか。

 私が君が代の曲は好きなどと言っておられるのも,私が昭和50年生まれで,戦後の豊かな中で概ね平和に,君が代を聴くと言えばオリンピックやサッカーの試合という経験しかしてこなかったからではないか。

 つまり戦争をくぐり抜けた人たちは全然違うだろうし,戦後まもなくを生きた人も違うだろう。親の体験も人それぞれだろうし,立場によっても違うだろう。

 私の感性だけを基準に「俺は受け入れているから,受け入れない奴はどっか外国でも行ってしまえ」などと言えるものではないはずだ。

5 どうにかならないのか?…国旗国歌をめぐる争いについて

 正直こんなことで争わねばならないのか,と思う。旗や歌のことで,教師が首を賭けたりしなければならないような事態が異常だと思う。それを言えば,「じゃあ素直に従えばいいじゃないか」というのが例えば石原都知事の言い分だろうが,そう事が単純ではないことは現実を見れば明らかだ。

 「諸外国に恥ずかしい?」まあ,確かに,こんなことで争っているのを誇れるはずもない。

 私の考えを次に述べたい。

6 日の丸君が代を国旗国歌として今後もやっていくならば…

 気長に寛容に,国民の多くが抵抗無く受け入れられるように様子を見ながらやっていくしかないだろう。

 例えばワールドカップサッカーの場面で,君が代が流れたとき暴動が起きて諸外国に対して恥ずかしい思いをするとか,イレブンが地べたにへたりこんで外国人から変に思われるとか,そういうことはない(現実にないし多分心配もない)のだから,これでは「国際舞台で恥をかく」という心配もしなくていいのではないか。

 むしろ,サッカーやオリンピックというめでたい場だけを中心に,それも自然な形で,浸透をはかるしかないのでないか,と思う。

 裁判で勝っても負けても教育現場での強制などは,最終的に上手くいかないのではないかと思う。そのためのエネルギーが無駄だ。

 また,入学式や卒業式という,誰も,生徒の一人一人が主人公の晴れの舞台に,思想や感性によってこうも色んな難しい問題が生じることを避けるのが教育的配慮だと思う。

 いじめ問題などの根底にあるのも,他者への想像力や優しさの欠如だろうが,大人が,子どもにそれくらいの優しさを示せなくて,いじめが減るなどということも有り得ないだろう,と言いたい。

 「エネルギーが無駄」という私の冷ややかな言い方は,本人の信念を持って国旗国歌の掲揚斉唱を徹底しようと奮闘しておられる方(石原都知事,都教委の方々)や,逆に,現場への強制と闘うための非常な労苦を受け入れ自分の信念を貫いておられる教職員組合の方の双方に失礼かとは思う。

 どっちもどっちとか言うつもりはなく,私は強制に反対だが,だが闘いのエネルギーそのものが無駄だという感覚も強い。

 まあ言えば,強制するから反対が起きるのであって,強制をやめれば,国旗国歌は自然に(少なくとも私くらいの感覚では)受け入れが広がってゆくのではないか,と為政者の側に言いたい。

7 国旗掲揚・国歌斉唱の強制・徹底などはできるのか

 そんな悠長なことを言っておられない,というのなら,むしろ,日の丸君が代を変えるしかないと思う。(今のような「わだかまり」のない)新しい国旗国歌を作り直すのだ。

 だが,考えてみると,日の丸君が代に長年の愛着を持っている人も多く,新しい,たとえば,桜の花をかたどった旗などを国旗と素直に受け入れられない人もいるのではないか。スキージャンプ「日の丸飛行隊」が「サクラ飛行隊」になったら何だかなあ…かもしれない。

 とすると,仮に日の丸・君が代を変えたとしても,国旗国歌を,強制によって根付かせようということはおよそ不可能ではないかと思えてくる。

 日の丸・君が代で自然にじっくりやるのがはやいのか,新しい国旗国歌で,それに慣れるのを待つのがはやいのか,これも微妙なものだと思う。

 考えてみると,ワールドカップサッカーで,色んなチームの国歌斉唱を見ていると,国民性が出ているようにおもう。とても高らかに歌う国もあれば,あんまり口を開いていない選手が多い国もある。

 所詮,国旗国歌というのはそんなものだと思う。そんなもの,というのは,軽視する意味ではない。そんなに必ずしも「敬礼!」ビシッというものでもなく,国それぞれというくらいのことだ。

 ただ大切なことは,よそさん(外国)に対して失礼があってはいけないということだと思う。つまり,外国の人が大切にしているその人の国旗国歌は尊重せねばならない。ただし,外国人に対して,「お前はお前のところの国旗国歌をもっと尊重しないのか?」はお節介だから,逆に失礼だ。

 この問題は,(特に為政者側が),少し冷静になって,国旗国歌の取り扱いについて神経質になりすぎず,ゆったりと構えてやってゆくしかないように思う。

 そして,旗や歌で,特に歌で人が苦しむのを見聞するのは,音楽を愛する私には耐え難い。そういうことが早く無くなるのを望む。

 最高裁の結論について。私としては,この判決は,どうしても君が代をピアノで弾きたくなかった音楽の先生の心のデリケートな部分についてやはり鈍感なのではないか,音楽教師として,君が代をピアノ伴奏しなければならないことも通常想定されるというのは微妙な感性に欠けるのではないか,という思いが拭えない。

 人権理論とかではなくて,音楽のことを,演奏という行為がどれだけその人の心の大切な領域なのか,それがいまいち分かっていないのではないか,と思う。 

 その点では,藤田宙靖(ときやす)裁判官が述べた「伴奏命令と思想・良心の自由の関係を慎重に検討すべきだ」反対意見のほうが,この心の問題に真剣に向き合うものだと思い賛成できる。

 私の独自の見解で言えば,演奏という行為が,人間の多分に生理的な快感とも密接につながり,また,演奏する曲のもつ作品性,それを演ずるときの心の持ちよう,そういったものについて,もっと理解してもらえたら,と思う。

 音楽の喜びに深く迫ってほしい。できれば,今回の裁判官のみなさんに「のだめカンタービレ」全巻を読んだ上で,判決していただきたかった,と思う。

 法律家の私が言うのも変だが,これは裁判というものに期待をしすぎなのであろうか…そんな気もするし,いや,そのような人の心の機微にもっと迫って欲しかったという思いも拭えない。


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あゆ

うちには難しくてわからない問題ですが、日本の場合特殊で、ただの国歌でなく、政治問題になってしまってるんですね。(9条問題も含めて)

 国歌の本来のもの意外に個人の信条・思想の問題がからんでしまったような気がします。

 これが切り離されるのは容易ではなさそうですね。

もし国歌以外、例えばなにかの唱歌を業務命令だしたら?
多分個人的にきらいでもやるだろうし、どうしても無理でも許されるだろうし、それで組織が損害うけないかぎり裁判にもならない気がします。
by あゆ (2007-05-11 22:46) 

NO NAME

 教師は公務員なんだから、上司の命令に従わなければ処分されるのは当然だと思いますね。教師の思い込みのような思想の自由は仕方がないにしても、法律で決まっていることは尊重してほしいと思います。

 「強制するから反対が起きるのであって,強制をやめれば,国旗国歌は自然に(少なくとも私くらいの感覚では)受け入れが広がってゆくのではないか」と書いてありますが、生徒にとっては、卒業式は一度しかないものです。自分の子供が、学校で、国歌を尊重しないことを教えられているとしたら、学校に抗議したいと思います。
by NO NAME (2007-05-16 19:46) 

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