『実力も運のうち 能力主義は正義か?』マイケル・サンデル [読書するなり!]
実力も運のうち 能力主義は正義か? [ マイケル・サンデル ]
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久しぶりの夏の読書感想文、今年はこの一冊。
私の子どもの頃、祖父はいつも「能ある豚はヘソを隠す」の格言を口にしていました。
もちろん、「能ある鷹は爪を隠す」のもじりですが、いつも何か「ひねらなければ」気が済まない祖父は、好んで「能ある豚」と言っていました。
当時は、この格言(ことわざ?)、「謙虚」というのが生きる知恵、「出る杭は打たれる」を反対から言っているということと理解していました。
しかし、この本を読んだ今、「能ある豚はヘソを隠す」のは、自分が謙虚なることが生存戦略であるだけではなく、世の中を本当に良くする知恵ではないか、と思えてきました。
さて、「能力主義」の何がいけないのでしょうか?
コネなどではなく、人種差別、性差別でもなく、「能力」で成功がきまる社会は公平そのものでは?
日本国憲法にはこんな条文があります。
憲法26条
すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
「ひとしく教育を受ける権利」の前に、「その能力に応じて」とあるのです。
憲法も「能力主義」を認めているではありませんか?
しかし、
「能力ある者」 ⇔ 社会的地位が高い、稼ぎが多い
「能力のない者」 ⇔ 社会的地位が低い、稼ぎが少ない
という図式はどうでしょうか。
こうなると、違和感か、反感か、余りプラスではない感情を抱く人が多いのでは?
そもそも社会に出て職業に就くというときにいう「能力」とは何でしょう?
プロ野球選手とかよほど一芸に特化した職種を除けば、「学業成績」一辺倒で判断されがち。
本来の人間の能力はそんな単純なものではないはずですが。
マイケル・サンデルは、アメリカ社会の中で
・ 大卒者
・ 非大卒者
が完全に「分断」されており、いわゆる「ブルーカラー」(肉体労働などの現業を中心とした労働者)が社会的に軽んじられていると感じていることを強調します。
そして、強者と弱者の格差を是正する政策を掲げるはずの「リベラル派」「中道左派」こそが、実際には「エリート」支配の考え方に支配されている、そのために「ブルーカラー」の票はそこに集まらず、ポピュリズムが隆盛する、と指摘します。
確かに、日本でもそういう違和感を感じることが常にあります。
格差是正を訴える野党の幹部は、ほとんどが名門大卒の「エリート」で占められています。
そのこと自体が別に悪いことではありませんが、「偏差値輪切り型」の物の考え方から抜け出せない人の割合が高いことは、物事の発想を狭めているのではないか?という感もあります。
もっと深刻なのは、日本でもアメリカでも、格差是正を訴えているはずの「リベラル」政治家が、言葉の端々にエリートくさい「能力主義」を出してしまうことで、多くの労働者から本当の味方と信じてもらえないことでしょう。
この本は、能力主義は「労働の尊厳をむしばむ」と指摘します。
これはよくわかります。
私が大学生の頃、塾講師をしていたころ、母親が子供に
「しっかり勉強すれば、○○先生のように○○のような職業に就けるのよ。そうしなければ、○○か、せいぜい○○にしかなれへんのよ。」
と、本当に言っているのを目の当たりにして驚いたことがあります。
それも何回も。
こういう母親に悪気はありません。
しっかり努力した、能力を磨いた証が「○○先生の○○の職業」だから尊い、と励ましているのです。
でも、「そうしなければ○○」の「労働の尊厳」は?
そんな「身分社会」みたいな発想は悲しくないか?
能力を一直線で、偏差値のようなもので輪切りにする発想ではなく、それぞれが持ち味を発揮して助け合えばよいのではないのか。
「能力」というのも、学業成績だけでなく、対人能力だけでなく、もっと広く捉えて、持ち味を尊重して活かすべきではないか。
いわゆる多様性(ダイバーシティ)というのは、一辺倒な感じの「能力主義」を打ち破ることではないか、と思えます。
アメリカは日本よりもさらに苛烈な「能力主義」社会のようです。
日本には、「能ある豚」ならぬ「能ある鷹」のようなことわざもあり、謙虚は美徳であるという伝統もあり事情は違うかもしれません。
ただ、20,30年前と違って、「試験の順位、点数」が良ければプロフィールに書かなければならない(書かなければ損)という時代になってきたように思います。
昔は、余りそういうことを書くのは「品がない」という感覚がありましたが。
一直線型の「能力主義」は、昔より顕著になっていると感じます。
次世代の子に対してどういうメッセージを発するかはデリケートです。
力が伸びる若いうちに、勉強して吸収できることはしっかりやってほしい。
成績が上がるのも、目標の学校に入れるのも、励みになるから、結構なことだ。
そこまではいい。
続けて、「『序列』はない。成績が良いとき人を見下すことは決してしてはならないし、良くないとき卑屈になることも必要ない」と言いたいが、そのメッセージは「嘘くさく」なってしまわないか。その懸念はある。
だが、懸念はあれど、「嘘くさく」聞こえようが、大切なメッセージは臆せず伝えることこそが大人の役割のように思います。
それにしても「偏差値」分布表の罪は大きいですね。
あれを見ると、そりゃ「東大理Ⅲ」が日本人の頂点、金メダル、一番偉い人に見えますから。
そんなの関係ねえ(古すぎる)、と心から思える人は一握り。
確かに、進路選択のツールとして偏差値を参考にしなければ受験生にとって基準がなくて怖いのですが。
ツールだっただけのものが「順位表」になってしまって久しい世の中で、一直線型「能力主義」を脱して、社会全体の中で、互いが互いの労働の尊厳を心から認め、「優劣」「序列」でなく「持ち味の違い」で助け合える世になるようにするには、教育機関も、経済界も、国や自治体も、大人のすべてが考え方を変えていく、たとえば、ちょっとずつ日ごろの言葉遣いから変えていくしかないように思います。
その「道しるべ」を示してくれる内容の濃い一冊です。
2021-08-16 23:54
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コメント(1)
興味そそられます。
本は読んでいませんが、マイケルさんの「もし私が原始時代に生まれていたら?」という問いかけが印象が強かったです。
by ayu15 (2021-11-02 11:53)