コロナで変わったこと~その1 マスク [時事ニュースから]
今年の正月には全く予想だにしなかった展開、コロナの蔓延。
そんな中で色んな事が変わらざるを得なかった。
元に戻りつつあることもあれば、戻らないこともある。
また、コロナ前は良しとされたこと、努力してそうしようとしていたことが、推奨されなくもなる。
そんなことを、「第三波」の入り口と言われる今だが、忘れないように記しておこうと思います。
1 マスクと顔、心
顔の半分以上をマスクで覆ってしまうことは物凄く抵抗があった。
言葉を色々重ねるよりも、表情で、笑顔で、相手に対して気持ちを伝えることができる。
表情が持っている力はとても大きい。
目ももちろんだが、口の動きもかなりの表現力を持つ。
歯列矯正もホワイトニングも、金も時間もかけてやった。
また、人と話すとき、口の周り、特に口角のあたりには常に幾分か神経を生き渡らせている。
それは「作り笑い」ということではなくて、口角のあたりに柔らかく神経を走らせると、ちょっと優しい気持ちになれるからだ。
造形の美醜ということではなくて、顔全体で、ウェルカムな気持ちだったり、仕事の場面では「私が力になります」という気持ちを伝えるようにしていた。意識して。
だが、4月からは鼻から下はマスクで覆われ、最初は本当に調子が狂った。
調子が狂うというのは、それ以前の感覚を残しているからであって、次第にマスクに慣れてしまう。
鼻、口は見えないもの、に慣れてしまう。
これこそが怖い。
10月だったか美容室にいって、馴染みの美容師さんと話した。
「マスクの下、頬の筋肉、口回りの筋肉がさぼっていると、垂れ下がってきますよ」
そんな気がしていた。
その会話以降、家でマスクを取るときは口回りの筋肉を意識して動かし、また、屋外でも人がいなければマスクを外し空気を吸い込み、また、表情筋もできるだけ動かすようにした。
表情筋を動かすと、心も動く気がした。本調子に少し近づく感じ。
逆に言えば、マスクの下で顔がさぼり、また、心も幾分無表情になっていた、ということだからこれは余計恐ろしいことだ。
実は、5月に、スターバックスで透明マスクをみつけてから、すかさず購入した。
仕事で実戦投入してみたが、やはり、飛沫を飛ばさない効果、防ぐ効果ともに不安を感じたので、長く実用はしなかった。
また、声が普通のマスク以上にくぐもるのも不満だった。
うまくいかないなあ、と思ったものだ。
さて、マスクの影響は大きい。
意識しなければ、顔も心もサボってしまう。
来春まではおそらくみんなマスク生活だろうが、その中でも、人に見えずとも、活き活きと顔を動かしておいたほうがよいと思っている。
いつマスクを取ってもよいようにすることが大事、と。
逆に、マスク生活を利用して美容整形をする人もいるが、こちらは賢明な作戦だと思う。
考えてみれば、今までは、互いに飛沫を飛ばしあっていた。
それでも互いに近距離で語り、笑いあい、一緒に飲み食いをした。
インフルエンザウィルスやそのほかの病原菌もいくらか交換しあっていたのだろうが、それは「生きている以上仕方ないもの」として、よほど咳き込んでいる人というのでなければ、互いにそんなことは考えずに触れ合っていた。
屈託なく触れ合っていた、その自然な状態にみんなが果たしてすぐに戻れるのだろうか。
たぶん、今度「マスクなし」に戻るときにちょっと逆の抵抗があると思う。
けれどもその「逆の抵抗」を超えるとき、意味としては、「人と病原菌、ウィルスも共生している」ことを受け入れて超えることになる。
こぎれいに見える人、若い人だって、普通に菌やウィルスを持っている。その意味で、変に人を選別せずに触れ合える、ボーダーレスな感じに変わっていけたらいいな、と思う。
私は、やっぱりマスク生活は不自然なことだと思うし、オープンにいきたい。
やっぱり表情全体で人に私の気持ちを伝えたい。
この心の在り方は、マスクに変容されたくない。
うっかり変容させられそうになったこともあるが、それに気づいた私はちゃんと抵抗し続ける。
いつマスクレス解禁になってもよいように。
「マスクの下は笑顔です」と張り紙のある店がある。
この張り紙はいいと思う。
お客さんにそう伝えて安心してもらう意味もあるし、従業員が、マスクに隠れていても笑顔をさぼらないようにしよう、と思い出すことができる。
根本を問い直すと、コロナに対して、みんながここまでマスクをする必要があるかどうかには議論の余地があると思う。
ただ、社会全体として「飛沫を飛ばさないようにしよう」という作戦を選んだのだから、この冬が終わるまではマスク作戦の一員として、また、エチケットとしてこのルールは守る。
それは各自が主体的に、社会を守るために行うこと。
その中で、やはり、くれぐれも「マスクに心や顔を支配されないこと」を心掛けたいと思う。
マスクに心や顔を支配されたくない、は私の感性。
ここも人それぞれだ。
「マスクでうまく顔も心も隠して生きよう」「そのほうが楽だ」と思う人がいてもおかしくない。
でも、それは悲しい、さびしい。
「隠して生きよう」というにはそう思う理由もあって、そのほうが生きやすいからだろう。
そこでは、私のような「マスク嫌い派」も考えなければならない。
人がマスクで顔や心を覆い隠さなくても、自由に表現してもよい社会であるのかどうかを。
互いの立場や思いを想像し、尊重し、認めあえる、安心できる社会にならなければ、コロナが去ってもマスクを外せない人がおおいだろう。
うまくすれば、コロナ終わりが、人と人とが認めあえる社会に変わるきっかけになるのかもしれない。
そんな風な社会に変えていけるかどうかも、今、これからを生きる私たち次第だ。
コロナで変わった諸要素をいくつも書き留めておこうと思い、最初に「マスク」について書きましたが、思いのほか長くなり、第一回はこれだけで終わり、というくらいになりました。
「会話と声、歌うこと」「人と出会うこと」「飲み会」「テクノロジー」「職場」などについても思うことが沢山ありますので、次回から書いていきたいと思います。
そんな中で色んな事が変わらざるを得なかった。
元に戻りつつあることもあれば、戻らないこともある。
また、コロナ前は良しとされたこと、努力してそうしようとしていたことが、推奨されなくもなる。
そんなことを、「第三波」の入り口と言われる今だが、忘れないように記しておこうと思います。
1 マスクと顔、心
顔の半分以上をマスクで覆ってしまうことは物凄く抵抗があった。
言葉を色々重ねるよりも、表情で、笑顔で、相手に対して気持ちを伝えることができる。
表情が持っている力はとても大きい。
目ももちろんだが、口の動きもかなりの表現力を持つ。
歯列矯正もホワイトニングも、金も時間もかけてやった。
また、人と話すとき、口の周り、特に口角のあたりには常に幾分か神経を生き渡らせている。
それは「作り笑い」ということではなくて、口角のあたりに柔らかく神経を走らせると、ちょっと優しい気持ちになれるからだ。
造形の美醜ということではなくて、顔全体で、ウェルカムな気持ちだったり、仕事の場面では「私が力になります」という気持ちを伝えるようにしていた。意識して。
だが、4月からは鼻から下はマスクで覆われ、最初は本当に調子が狂った。
調子が狂うというのは、それ以前の感覚を残しているからであって、次第にマスクに慣れてしまう。
鼻、口は見えないもの、に慣れてしまう。
これこそが怖い。
10月だったか美容室にいって、馴染みの美容師さんと話した。
「マスクの下、頬の筋肉、口回りの筋肉がさぼっていると、垂れ下がってきますよ」
そんな気がしていた。
その会話以降、家でマスクを取るときは口回りの筋肉を意識して動かし、また、屋外でも人がいなければマスクを外し空気を吸い込み、また、表情筋もできるだけ動かすようにした。
表情筋を動かすと、心も動く気がした。本調子に少し近づく感じ。
逆に言えば、マスクの下で顔がさぼり、また、心も幾分無表情になっていた、ということだからこれは余計恐ろしいことだ。
実は、5月に、スターバックスで透明マスクをみつけてから、すかさず購入した。
仕事で実戦投入してみたが、やはり、飛沫を飛ばさない効果、防ぐ効果ともに不安を感じたので、長く実用はしなかった。
また、声が普通のマスク以上にくぐもるのも不満だった。
うまくいかないなあ、と思ったものだ。
さて、マスクの影響は大きい。
意識しなければ、顔も心もサボってしまう。
来春まではおそらくみんなマスク生活だろうが、その中でも、人に見えずとも、活き活きと顔を動かしておいたほうがよいと思っている。
いつマスクを取ってもよいようにすることが大事、と。
逆に、マスク生活を利用して美容整形をする人もいるが、こちらは賢明な作戦だと思う。
考えてみれば、今までは、互いに飛沫を飛ばしあっていた。
それでも互いに近距離で語り、笑いあい、一緒に飲み食いをした。
インフルエンザウィルスやそのほかの病原菌もいくらか交換しあっていたのだろうが、それは「生きている以上仕方ないもの」として、よほど咳き込んでいる人というのでなければ、互いにそんなことは考えずに触れ合っていた。
屈託なく触れ合っていた、その自然な状態にみんなが果たしてすぐに戻れるのだろうか。
たぶん、今度「マスクなし」に戻るときにちょっと逆の抵抗があると思う。
けれどもその「逆の抵抗」を超えるとき、意味としては、「人と病原菌、ウィルスも共生している」ことを受け入れて超えることになる。
こぎれいに見える人、若い人だって、普通に菌やウィルスを持っている。その意味で、変に人を選別せずに触れ合える、ボーダーレスな感じに変わっていけたらいいな、と思う。
私は、やっぱりマスク生活は不自然なことだと思うし、オープンにいきたい。
やっぱり表情全体で人に私の気持ちを伝えたい。
この心の在り方は、マスクに変容されたくない。
うっかり変容させられそうになったこともあるが、それに気づいた私はちゃんと抵抗し続ける。
いつマスクレス解禁になってもよいように。
「マスクの下は笑顔です」と張り紙のある店がある。
この張り紙はいいと思う。
お客さんにそう伝えて安心してもらう意味もあるし、従業員が、マスクに隠れていても笑顔をさぼらないようにしよう、と思い出すことができる。
根本を問い直すと、コロナに対して、みんながここまでマスクをする必要があるかどうかには議論の余地があると思う。
ただ、社会全体として「飛沫を飛ばさないようにしよう」という作戦を選んだのだから、この冬が終わるまではマスク作戦の一員として、また、エチケットとしてこのルールは守る。
それは各自が主体的に、社会を守るために行うこと。
その中で、やはり、くれぐれも「マスクに心や顔を支配されないこと」を心掛けたいと思う。
マスクに心や顔を支配されたくない、は私の感性。
ここも人それぞれだ。
「マスクでうまく顔も心も隠して生きよう」「そのほうが楽だ」と思う人がいてもおかしくない。
でも、それは悲しい、さびしい。
「隠して生きよう」というにはそう思う理由もあって、そのほうが生きやすいからだろう。
そこでは、私のような「マスク嫌い派」も考えなければならない。
人がマスクで顔や心を覆い隠さなくても、自由に表現してもよい社会であるのかどうかを。
互いの立場や思いを想像し、尊重し、認めあえる、安心できる社会にならなければ、コロナが去ってもマスクを外せない人がおおいだろう。
うまくすれば、コロナ終わりが、人と人とが認めあえる社会に変わるきっかけになるのかもしれない。
そんな風な社会に変えていけるかどうかも、今、これからを生きる私たち次第だ。
コロナで変わった諸要素をいくつも書き留めておこうと思い、最初に「マスク」について書きましたが、思いのほか長くなり、第一回はこれだけで終わり、というくらいになりました。
「会話と声、歌うこと」「人と出会うこと」「飲み会」「テクノロジー」「職場」などについても思うことが沢山ありますので、次回から書いていきたいと思います。
2020-11-22 23:24
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