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コロナで変わったこと~その2 声、話、歌 [時事ニュースから]

 今書いておかないと忘れてしまいそうな変化、特に、感覚の変化について書いています。

2 声について
 
 「お客様どうしの会話はご遠慮ください」
 「食事中は小声で」(小池都知事の5つの小)
などというのが一般的な注意になった。

 さて、小学校に入ったころを思い出すと、だれしも、
「ハッキリ大きな声で自分の名前を言いましょう」
と習ったはずだ。
 就職活動でも何でも、
「明るく、ハキハキと、よく聞こえる声で」
というのが基本だった。
 若者は特に快活であること、あるべし、というのが社会の通念だったはずだ。
 しかし、それはまさに一番飛沫を飛ばすことであって、コロナ感染蔓延防止には良くないとされる。

 コロナ蔓延の初期、ライブハウスでクラスターが発生した。
 また、舞台演劇でも感染者が出た。
 
 声は元気の源だったけれど、それがイコール飛沫を飛ばす=コロナ下ではNGとは。
 何が好ましくて、何が好ましくないかの価値観さえも、コロナは変容させるようだ。

 確かに、電車の中でも、全く周りに無頓着な人がマスクなしで会話をしていたりすれば、私でも、
「しゃべるのならマスクをして欲しい」
と思う。
 
 ただ、やっぱり人に何かを伝えるなら、声に魂を込めることはとても大切だ。
 歌だって、MISIAの声、桑田佳祐の声、TMレボリューション西川さんの声、uruの声、やしきたかじんの声、小椋佳の声、あいみょんの声。すべて一発で聴き分けられるし、曲以前に、その声自体が表現だ。森本レオさんのナレーションも。
 単に大きい声が良い、というのではないが、例えばか細いように思われる声でも、良い声の持ち主はここぞというときにパワフルな声も持っている。
 そして、そんな素晴らしい声の持ち主こそ、飛沫を飛ばさない、というわけにはいかない。
 だから、アーチストはみなコロナ下で活動を、表現をものすごく制約されているに違いない。
 ライブは出来ないし、マスクがあれば普段の声の通り方と違う。
 
 歌が歌えない。
 これは、多くの人にとって辛いことだ。
 お年寄りの歌の集まりでクラスター発生、というニュースが何度かあった。
 高齢者はリスクが大きいのになぜ集まって歌など歌うのか?という感想を言う人があるが、私は気持ちが本当によくわかる。
 高齢になって何もしなければ体力が衰える、そういうときこそ、歌は力を持っている。
 しかも、仲間と歌えばなおさらだ。
 それが「生きること」という実感なのだ。
 
 例えば、震災でも不況でも、しんどいときこそ「歌」だった。
 「しあわせ運べるように」もそう。
 コロナ下では、歌で励ましあうこともリアルにはできない。
 
 私も、自分が大切にしてきた「明瞭な声で人にしっかり伝えること」が、コロナで推奨される様式とは違う方向性にあることに、これまでにない心地悪さを感じてきた。

 だが、リアルでの声は飛沫の元になるので要注意としても、たとえば、オンラインでも明瞭に心地よく相手に聞こえる声を伝える工夫など、精神は変えずにやっていきたい。
 自分がハッキリした声を出すこともそうだし、マイク・通信環境を整えることもプラスして。

 また、「大声」を控えなければならない今は、新たな表現を磨く期間と思うようにしたい。
 ハッキリ大きな声で、明るい声で、だけでなく。

 数年前ボーカルスクールで歌を習っていたとき、音大出の若い歌の先生は「声というのは、自分がコンプレックスと思っていたところが長所であることも多くあるものです」と言われていた。
 「か細い声」「息交じりの声」「ささやき声」などにもまた表現のヒントがある。
 一見、弱弱しそうな声の性質の中に、今ある自分の声の表現の幅を広げ、パワーを生む鍵もまた潜んでいると思う。ピアニシモあってのフォルテシモかもしれない。uruさんの歌のような。
 このコロナ禍は、あえて「制約」の中で、「勢い」で胡麻化さず色んなことを丁寧に確かめ、再構築していく時期、そういうチャンスととらえよう。

 
 さて、今回は「声」について書きました。
 またも、なかなか長くなってしまいました。
 次回は、これと関連して、「zoom講演」について書いてみたいと思います。
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