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専門性について考えた~教育社会学 本田由紀先生の講演 [だから,今日より明日(教育)]

 東京に行って、勉強してきました。タイトルの本田由紀先生は、東大の助教授で教育社会学のとても鋭い学者さんです。
 しかも、しゃべり口調も面白く、速度は倍速テープのようなのに、かつぜつが良く、聞き手の広田照幸先生(日本文理大 社会教育学学者)に対してもツッコミ返しをしまくるなど、本当に素敵な学者さんでした。
 さて、前の日記で、先物取引被害訴訟への司法の取り組み方について、「専門的っていうな!」という小見出しを使いました。この「…っていうな!」の言い回しは実はパクリであり、その元は、教育社会学 本田由紀先生の著書のオビです。(しかも、「専門」は、実は、本田先生の教育への提言のキーワードでありました。一見、喧嘩を売るようなパクリ方になってしまいました…)
 この本のオビは、「人間力っていうな!」となっています。
多元化する「能力」と日本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のなかで  日本の〈現代〉13

多元化する「能力」と日本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のなかで 日本の〈現代〉13

  • 作者: 本田 由紀
  • 出版社/メーカー: NTT出版
  • 発売日: 2005/11
  • メディア: 単行本
 何で、弁護士の私が、畑違いの教育社会学について、東京まで勉強しに行くことになったか、と言えば、ひとことで言って、
もやもやが消えない
からです。
 それは、もちろん
教育基本法問題への取り組み
に関係します。
 
 つまり、教育基本法「改正」の議論の際に、
法律としてどうあるべきか?
だけならば、弁護士の専門領域だったわけですが、どうしても、教育に関する法律なので、
教育はどうすればいいのか?
についての、私なりの考えがなければ話ができませんでした。
 
 これについて、現場の教師の先生方の声については、「改正」問題にかかわる中で、また、個人的な知人などで、ある程度は聞くことができました。
 
 が、現代日本における「教育」をもっと全体的に考察する視点の専門家の声をナマで聞くことはなかなか難しく、また、本を読む暇もあまりありませんでした。この点に「もやもや」が残っていました。
 
 さて、去年、「いじめ」の話題が世間をにぎわし、マスコミで、ヤンキー先生(義家先生)など色んな人が出てしゃべっているなかで、私も、「いじめに負けるな、とか、いじめを許すな、いじめは卑怯だ、とか、それはそうだけど…そんなん言ってても解決するんかなぁ…でも、どうしたらいいんかなぁ…」といろいろ考えていました。
 そのとき、たまたま、衆議院のインターネットTVで本田先生の意見陳述を聞いて、「すごく鋭い!」というか、やっと、合理的、科学的そして、たぶん建設的な「いじめ」問題分析・提言に出会えた気がしたのでした。↓です。10分程度なので、「いじめ」問題に関心がある方は是非、見てみてください。 http://www.shugiintv.go.jp/jp/video_lib3.cfm?deli_id=32451&media_type=wb
 
 12月15日教育基本法改正案は成立し、時間ができたとき思ったのは、
 
教育基本法「改正」推進派 … 利己主義を正し、伝統・道徳を重視する
 
教育基本法「改正」反対派 … 「新自由主義」「新国家主義」を許さない
 
という対立そのものと違う部分について、教育のあり方について深めたものを読んでみたい、と思ったのです。正直、この対立にかんする言論については、このときは「おなかいっぱい」でした。
 そこで、真っ先に思い浮かんだのが本田先生の本を読んでみたいということでした。
 
 本の内容は、私の理解するところによると次のようなところです。
 
現代は、従来型の「お勉強能力」だけでなく、「生きる力」「人間力」などの個人の人間としての内面やあり方そのものにかかわる「能力」(本では「ポスト近代型能力」と呼ばれる)が要求されるようになってきた
 
ということ、そのことは一見よいことのように思えるが、実は、
 
青少年や親に対するプレッシャーを以前よりも高めている
 
不明確な「人間力」のような概念を濫用すれば、いかなる差別も正当化されうるし、青少年は下手をすれば心の内側までも他人にまさぐられるような風潮にさらされる
 
「人間力」のような要素は、家庭環境の良し悪しが決定的であり、生まれつきの格差をもろに反映する
 
という恐ろしさもある。
 
 しかし、現実問題、就業などの場面で、「人間力」的な「ポスト近代型能力」が要求されるようになり、若者にとってきわめて厳しい現実がある。そのことに対して、「総合学習」などを取り入れたとしても、現代の学校教育は十分対応し切れそうにない。
 
 ではどうすればよいか?
 
 そこで、本田先生は、学校教育、特に高校教育段階以降に「専門性」をもっと取り入れるべし、とされる。
 
 私は、「専門」高校のイメージとしては、商業学校などで簿記の資格をとる、とかそういうイメージしかなかったので、本田先生の「教育に専門性を」という提言について最初は、「えーーーー?」と思っていました。私は、「『落ちこぼれ』にも微分積分を!」と奮闘する数学教師などのほうが、人間の知性をひとしく大切にしているんじゃないか、という感覚が強かった。「専門性を」の方向性は、当初、普通高校のほうが成績上位の子がいくとされている現状からは、「できない子はできないなりの生き方をしなさい」という考え(新自由主義的発想と批判されるような考え)にならないのか、と思っていました。
 
 ただ、本を読むうちに、本田先生が「教育に専門性を」というのは何のためか、というと、
 
「人間力」のようなもの(人間の性格や内面、細かい言動)まで企業側に細かく見られ選別されかねない、弱い立場の若者にとって何が必要か?
 
という観点から、
 
(企業のために「専門性」を身につけるという発想ではなくて)
「専門性」という鎧を身に着けて、目に見える「専門的能力」以上に、自分の内面にかかわる「人間力」的なものを云々されるのを防ぐことができるのではないか
 
それを学校で、もっとやっていけばよいのではないか
 
という提言だということが理解でき、「ふむふむ」という感じになったのでした。
 
 それでも、「専門性」と言っても、「簿記3級」とかしか思い浮かばないし、他の分野でも、何か狭い範囲の学習分野に青少年を押し込めることにならないか?やっぱり、基本的には、センター試験科目(数学、国語、英語…)のような「何でも基礎になる」科目の勉強が大事なのではないか?という感覚は私の中から消えませんでした。
 
 でも、本田先生の著書の中で触れられることの中に、「教育の意義を生徒が実感できているか?」つまり、「『こんなこと学んでなんになるの?』に現代の学校教育が対応できているか?」という点については、たしかに、「ケーキ屋さんになりたい子に微分積分が役に立つことをうまく教えることができる先生は、ごく少数だろうしなあ…」と思いました。
 
 今回の講演で、本田先生のイメージされる「専門性」とは、かなり広い意味で、たとえば、ある日本建築の専門教育として、
 
宮大工と呼ばれる、釘を一本も使わず五重の塔を作る技術の習得
 
をするのみならず、
 
世界・日本の建築の歴史を学ぶ
 
また
 
関係する部分を足がかりに物理学や数学を深めてゆく
 
というような「勉強を広め深める上で、何らかの足がかりになる」意味での「専門性」という捉えかたがなされていました。
 
 つまり、生徒を「狭い範囲に押し込める」のではなく、「興味関心を中心として、ある分野に足場を作り、そこから、広め・深めしてゆく」という意味での「専門性」を提唱されていると言うことが分かりました。
 
 また、「専門」分野の選びなおしを容易にし、低年齢からのコース選別化にならないように工夫する設計に注意を払わなければならない、とも言われていました。
 
 そういうことならば、私は、本田先生の言われる
 
「専門性」を教育にもっと取り入れよ
 
という発想は、面白そうだなあ、ワクワクするなあ、というイメージで捉えられるようになりました。つまり、上手く取り入れれば(現在の高校教育のあり方と上手に融合させれば)、もっと、高校が楽しいものになるかも、という感想になりました。
 
 但し、やっぱり、かなりドラスティックな改革提言に思えるので、本田先生の提言が本当に意図する効果を実現できる制度設計、また、学校のカリキュラムの工夫、現場の教師の授業準備など、今の学校教育よりも遥かにたくさんの手間や工夫が要りそうです。
 
 その意味では、どう考えても、現状の日本の教育条件は足りない。それを二つあげると、
 
1 学校・教師の数など(たとえば、学級人数にもあらわれる)が、今でも「いっぱいいっぱい」
 つまり、もっと教育予算をかけて、つまり、国がお金をかけて、現場がいろいろな工夫を取り入れられる余力が生まれるようにしなければならない。
 
2 それから、学習指導要領等の内容が硬直しすぎている。つまり、「社会人としての最低限だから」ということで、高校まで行っても「どこもみんないっしょ」からはみ出す余地のない位に「必修」科目で埋め尽くされている。
 
 そういう条件を抜本的に変えなくては、本田先生の提言を入れて、教育を良くしようとしても難しいのかな、と思います。
 
 でも、私は、「はじめに条件ありき」ではなくて、本田先生のように「こんな風な教育のあり方にしてはどうか?」という提言は好きです。
 また、本田先生は、「今の指導要領のなかでも、うまくやろう。つまり、『総合的な学習』の時間や、関連する科目の時間などを、上手にある「専門分野」の学習に結びつけて活用してゆくことによって、各学校の特色ある、高校教育への『専門性』の導入をやっていってはどうか。」と述べられていました。
 
 これからの教育をどうするか?
 
現政権の「教育改革」に賛成・反対 の対立軸(これはこれでもちろん重要ですが)だけでなく、また、タブーやレッテル貼りもなく、やはり、育ってゆく生徒ひとりひとりのためになるものは何か、の発想で、自由に議論し考えてゆくことの重要性を感じました。
 
 ちなみに、今日の講演の広田先生は、去年の臨時国会で教育基本法問題の参考人として、与党案に反対であるという意見を述べられていました。
 本田先生は、民主党議員の質問に答え、(同法案の審議についての参考人ではないので)法案に賛成反対を明言したわけではありませんが、「教育基本法が改正されても(いじめに関して)現場はかわらないか、プレッシャーが高まるのではないかと危惧する気持ちで見ています」と答えられ、少なくとも批判的な考えではおられたようです。
 
 という意味では、広田先生と本田先生は同じ側か?とうっかりすると思ってしまいそうです。が、
 
教育をどうすべきか?
 
については、本田先生が「広田先生のこういうところが気に入らん」と述べられ、広田先生も「本田先生の本にはこういう視点が欠けていると思う」と意見を戦わせておられ、さすが学者やなあ、議論の深化っていうのがこうして行われているんやなあ、と面白く拝見しました。
 
 とても有意義な東京遠征でした。

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