最高裁判決~「花押」では遺言に必要な「押印」と認められない [法律案内]
最高裁は、平成28年6月3日の判決で、「花押を書くことによって、自筆証書遺言の方式としての『押印』の要件を満たしたとはいえない」という判断を下しました。
花押は「かおう」と読みます。
私もよく知りませんでしたが、要するに、漢字を崩した手書きのサインであるとのことです。
ネットで検索すると、戦国武将や歴代首相のものもあって、それはそれで格好いいもののようです。
ところで、遺言のうち、公正証書で作成するものではなく、自分で書く自筆証書遺言については、民法で方式が厳格に決まっていて、方式に従っていないものについては効力がありません。
民法968条1項には
自筆証書によって遺言をするには、遺言者が、その全文、日付及び氏名を自書し、これに印を押さなければならない。
と定められています。
この「印を押」す、というのが、「花押を書く」でもいいか?という問題です。
最高裁は、ダメだ、という判断を下しています。
ここで、この最高裁の判断を題材に、法律問題を考えるときに役に立つ考え方の一つを紹介してみたいと思います。
それが、
「形式」面と「実質」面を分けて考える
ということです。
これは、法律問題に限らず、政治の問題や人々の間の利害調整や色んな問題を考えるときの一つの視点です。
法律問題で言えば、
「形式」 法律の条文や、条文に書かれた文言(もんごん)、手続が正しいか、など
「実質」 法律の目的、趣旨(「こころ」のようなもの)、価値判断(「何を大切にするか」)など
というイメージです。
それでは、今回の最高裁判決の一部を下に引用します。
(引用開始)
花押を書くことは,印章による押印とは異なるから,民法968条1項の押印の要件を満たすものであると直ちにいうことはできない。
そして,民法968条1項が,自筆証書遺言の方式として,遺言の全文,日付及び氏名の自書のほかに,押印をも要するとした趣旨は,遺言の全文等の自書とあいまって遺言者の同一性及び真意を確保するとともに,重要な文書については作成者が署名した上その名下に押印することによって文書の作成を完結させるという我が国の慣行ないし法意識に照らして文書の完成を担保することにあると解されるところ(最高裁昭和62年(オ)第1137号平成元年2月16日第一小法廷判決・民集43巻2号45頁参照),我が国において,印章による押印に代えて花押を書くことによって文書を完成させるという慣行ないし法意識が存するものとは認め難い。
以上によれば,花押を書くことは,印章による押印と同視することはできず,民法968条1項の押印の要件を満たさないというべきである。
(引用終わり)
この引用部分を題材に、「形式」「実質」を分析してみます。
まず、「全部形式論じゃん!」という意見を持つ人もいると思います。
もちろん遺言の方式の話ですから、基本的に「形式論」の要素があります。
ただ、その中にも、「形式」面にスポットを当てた部分と、「実質」面にスポットを当てた部分があり、これを分けて読めれば、判決文の読み方がグッと違ってきます。
1 まず、この部分は「形式」面の検討です。
「花押を書くことは,印章による押印とは異なるから,民法968条1項の押印の要件を満たすものであると直ちにいうことはできない。」
「形式」において○か×か。
少しわかりにくいですが、「『直ちに』いうことはできない」は△~×という感じです。
「花押を書く」というのを、「押印」と解釈するのは、絶対にない解釈とは言えないが、普通にそのように解釈されるものでもなかろう、というくらいの判断です。
2 で、後の部分は「実質」面の検討になります。
「そして,民法968条1項が,自筆証書遺言の方式として,遺言の全文,日付及び氏名の自書のほかに,押印をも要するとした趣旨は,遺言の全文等の自書とあいまって遺言者の同一性及び真意を確保するとともに,重要な文書については作成者が署名した上その名下に押印することによって文書の作成を完結させるという我が国の慣行ないし法意識に照らして文書の完成を担保することにあると解されるところ(最高裁昭和62年(オ)第1137号平成元年2月16日第一小法廷判決・民集43巻2号45頁参照),我が国において,印章による押印に代えて花押を書くことによって文書を完成させるという慣行ないし法意識が存するものとは認め難い。」
ここは、なぜ、自筆証書遺言に「押印」が必要か?を論じています。
「押印」を必要とした法の趣旨「こころ」です。
「重要な文書については作成者が署名した上その名下に押印することによって文書の作成を完結させる」というのが日本の慣行だ、だから自筆証書遺言には「押印」が必要だと民法が定めているのだ、ということです。
民法は、重要文書は「ハンコ押して完成」という日本の慣行を重視している、ということです。
ですが、日本で「花押を書くことによって文書を完成させるという慣行」があるとは認め難い、から、民法968条1項の趣旨(こころ)から考えてもやっぱりダメ、という判断です。
「花押」というサインをして完成、というのは、ハンコと違って、日本での一般的な慣行とは言えない、という判断です。
判決文には書いてありませんが、そもそも「花押」を知らない人も多いわけで、日本全体で一般に通用しているとまで言えないし…という感じでしょう。
以上の通りで、「形式」面でみた場合は△~×という感じで、「実質」面でみると×、結局、花押を書くことでは自筆証書遺言に必要な「押印」とは認められない、という判決になっています。
上にも書きましたが、
「形式」面、「実質」面を一旦わけて、両方考えてみる
というのは、物事を考える上で役に立つ見方なので、法学部生の皆さんはもちろん、そういう思考方法に馴染みのない方は少し意識してみられると、ニュースを見るのでも、日常の仕事でも新しい発見があると思います。
なお、世の中の進歩や変化の中で、難しい、微妙な問題になることの多くは、例えば、
「実質」面で考えると ○
だが、
「形式」面で考えると ×
というように、「実質」からのアプローチと「形式」からのアプローチで結論が反対方向に行きそうな場合です。
例えば、試験で持ち込み許可物件として
「ボールペン、鉛筆、消しゴムに限る」
とあったとして、では
「シャープペンシルはOKか?」
というような問題です。
「形式」的には「×」なのでルールとしてはアウトなのかも知れませんが、意味から考えて、シャープペンシルを禁止する理由は乏しいかも知れません。
なので、この場合は、申出したらOKになるかもしれないし、今後ルール変更になるかも分かりません。
制度とか法律が世の中に追いついていない、というときに、こういう「形式」と「実質」のずれが起こり易いものです。
さて、今回の最高裁判決では、「形式」と「実質」との両方を検討した結果、「花押を書く」では自筆証書遺言に必要な「押印」にならない、ということになったわけです。
なお、自筆証書遺言については過去の最高裁判決で、「指印」はOKとされています。こちらは「花押を書く」のと違って、「押印」と認められています。判断の基準は今回の判決と同じことが書かれている箇所がありますので、法学部生の方などは参照されておかれると良いと思います。
あと、実際に遺言をすることを考えられる方は、次の点をご注意願います。
よく言われることですが、遺言をする場合、自筆証書の作成は方式が整っていないと無効になる恐れがありますから、一定の遺産があって確実に遺言通りになるようにしたい場合は、公正証書遺言にされることをお勧めします。
神戸シーサイド法律事務所
弁護士 村上英樹
花押は「かおう」と読みます。
私もよく知りませんでしたが、要するに、漢字を崩した手書きのサインであるとのことです。
ネットで検索すると、戦国武将や歴代首相のものもあって、それはそれで格好いいもののようです。
ところで、遺言のうち、公正証書で作成するものではなく、自分で書く自筆証書遺言については、民法で方式が厳格に決まっていて、方式に従っていないものについては効力がありません。
民法968条1項には
自筆証書によって遺言をするには、遺言者が、その全文、日付及び氏名を自書し、これに印を押さなければならない。
と定められています。
この「印を押」す、というのが、「花押を書く」でもいいか?という問題です。
最高裁は、ダメだ、という判断を下しています。
ここで、この最高裁の判断を題材に、法律問題を考えるときに役に立つ考え方の一つを紹介してみたいと思います。
それが、
「形式」面と「実質」面を分けて考える
ということです。
これは、法律問題に限らず、政治の問題や人々の間の利害調整や色んな問題を考えるときの一つの視点です。
法律問題で言えば、
「形式」 法律の条文や、条文に書かれた文言(もんごん)、手続が正しいか、など
「実質」 法律の目的、趣旨(「こころ」のようなもの)、価値判断(「何を大切にするか」)など
というイメージです。
それでは、今回の最高裁判決の一部を下に引用します。
(引用開始)
花押を書くことは,印章による押印とは異なるから,民法968条1項の押印の要件を満たすものであると直ちにいうことはできない。
そして,民法968条1項が,自筆証書遺言の方式として,遺言の全文,日付及び氏名の自書のほかに,押印をも要するとした趣旨は,遺言の全文等の自書とあいまって遺言者の同一性及び真意を確保するとともに,重要な文書については作成者が署名した上その名下に押印することによって文書の作成を完結させるという我が国の慣行ないし法意識に照らして文書の完成を担保することにあると解されるところ(最高裁昭和62年(オ)第1137号平成元年2月16日第一小法廷判決・民集43巻2号45頁参照),我が国において,印章による押印に代えて花押を書くことによって文書を完成させるという慣行ないし法意識が存するものとは認め難い。
以上によれば,花押を書くことは,印章による押印と同視することはできず,民法968条1項の押印の要件を満たさないというべきである。
(引用終わり)
この引用部分を題材に、「形式」「実質」を分析してみます。
まず、「全部形式論じゃん!」という意見を持つ人もいると思います。
もちろん遺言の方式の話ですから、基本的に「形式論」の要素があります。
ただ、その中にも、「形式」面にスポットを当てた部分と、「実質」面にスポットを当てた部分があり、これを分けて読めれば、判決文の読み方がグッと違ってきます。
1 まず、この部分は「形式」面の検討です。
「花押を書くことは,印章による押印とは異なるから,民法968条1項の押印の要件を満たすものであると直ちにいうことはできない。」
「形式」において○か×か。
少しわかりにくいですが、「『直ちに』いうことはできない」は△~×という感じです。
「花押を書く」というのを、「押印」と解釈するのは、絶対にない解釈とは言えないが、普通にそのように解釈されるものでもなかろう、というくらいの判断です。
2 で、後の部分は「実質」面の検討になります。
「そして,民法968条1項が,自筆証書遺言の方式として,遺言の全文,日付及び氏名の自書のほかに,押印をも要するとした趣旨は,遺言の全文等の自書とあいまって遺言者の同一性及び真意を確保するとともに,重要な文書については作成者が署名した上その名下に押印することによって文書の作成を完結させるという我が国の慣行ないし法意識に照らして文書の完成を担保することにあると解されるところ(最高裁昭和62年(オ)第1137号平成元年2月16日第一小法廷判決・民集43巻2号45頁参照),我が国において,印章による押印に代えて花押を書くことによって文書を完成させるという慣行ないし法意識が存するものとは認め難い。」
ここは、なぜ、自筆証書遺言に「押印」が必要か?を論じています。
「押印」を必要とした法の趣旨「こころ」です。
「重要な文書については作成者が署名した上その名下に押印することによって文書の作成を完結させる」というのが日本の慣行だ、だから自筆証書遺言には「押印」が必要だと民法が定めているのだ、ということです。
民法は、重要文書は「ハンコ押して完成」という日本の慣行を重視している、ということです。
ですが、日本で「花押を書くことによって文書を完成させるという慣行」があるとは認め難い、から、民法968条1項の趣旨(こころ)から考えてもやっぱりダメ、という判断です。
「花押」というサインをして完成、というのは、ハンコと違って、日本での一般的な慣行とは言えない、という判断です。
判決文には書いてありませんが、そもそも「花押」を知らない人も多いわけで、日本全体で一般に通用しているとまで言えないし…という感じでしょう。
以上の通りで、「形式」面でみた場合は△~×という感じで、「実質」面でみると×、結局、花押を書くことでは自筆証書遺言に必要な「押印」とは認められない、という判決になっています。
上にも書きましたが、
「形式」面、「実質」面を一旦わけて、両方考えてみる
というのは、物事を考える上で役に立つ見方なので、法学部生の皆さんはもちろん、そういう思考方法に馴染みのない方は少し意識してみられると、ニュースを見るのでも、日常の仕事でも新しい発見があると思います。
なお、世の中の進歩や変化の中で、難しい、微妙な問題になることの多くは、例えば、
「実質」面で考えると ○
だが、
「形式」面で考えると ×
というように、「実質」からのアプローチと「形式」からのアプローチで結論が反対方向に行きそうな場合です。
例えば、試験で持ち込み許可物件として
「ボールペン、鉛筆、消しゴムに限る」
とあったとして、では
「シャープペンシルはOKか?」
というような問題です。
「形式」的には「×」なのでルールとしてはアウトなのかも知れませんが、意味から考えて、シャープペンシルを禁止する理由は乏しいかも知れません。
なので、この場合は、申出したらOKになるかもしれないし、今後ルール変更になるかも分かりません。
制度とか法律が世の中に追いついていない、というときに、こういう「形式」と「実質」のずれが起こり易いものです。
さて、今回の最高裁判決では、「形式」と「実質」との両方を検討した結果、「花押を書く」では自筆証書遺言に必要な「押印」にならない、ということになったわけです。
なお、自筆証書遺言については過去の最高裁判決で、「指印」はOKとされています。こちらは「花押を書く」のと違って、「押印」と認められています。判断の基準は今回の判決と同じことが書かれている箇所がありますので、法学部生の方などは参照されておかれると良いと思います。
あと、実際に遺言をすることを考えられる方は、次の点をご注意願います。
よく言われることですが、遺言をする場合、自筆証書の作成は方式が整っていないと無効になる恐れがありますから、一定の遺産があって確実に遺言通りになるようにしたい場合は、公正証書遺言にされることをお勧めします。
神戸シーサイド法律事務所
弁護士 村上英樹
2016-06-07 17:55
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コメント(4)
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少し違うけど、最近読んだ本に、「事実関係が不利ならば法律に訴えよ。法的に不利なら事実関係に訴えよ。事実関係も法的にも不利な場合は、大きな声で喚き散らせ」というのがあって笑いました。
形式面と実質面に分けて考えるのは、落ち着いて判断するためには大切なことだと思います。
by 心如 (2016-06-09 09:54)
心如さん コメントありがとうございます。その本の文章、面白い表現ですね!でも、結構当たっていると思います。
by hm (2016-06-10 14:42)
まとまったわかりやすい解説ありがとうございます。
これも日記に取り上げているテーマの一つです。
柔軟性とも関わります。
「実質」 法律の目的、趣旨のほうをどちらかというと気にしていました。
ですが自民党の暴走みてると考えさせられました。
良くも悪くも法律とかルールは柔軟ですよね。
憲法のお話の時も書かせてもらってますが好ましくないほうにも柔軟ということです。
基本的人権の尊重は書かれていますが具体的に明確でしょうか。
忘れられる権利とか制定時に想定しなかった人権へも対応の可能性があります。
ですがマイナンバー・秘密保護法など人権制限の可能性があるものまで解釈でまかり通ります。
また日記に詳しく書いていますが答弁には賞味期限があります。
(良くも悪くも)
どんなに説明されても無駄で条文に明記がすべてと思ってしまいます。
最近やっと動いたヘイトスピーチ規制ですが保守派はヘイトスピーチ容認方向なので規制に消極的・自由重視の人は保守派による言論の自由規制への不安から消極的(あくまで単純化)でおくれたともいわれます。
うち自身も自民政権に権限与えるのは不安を感じます。
「ルール守れ」で校則(条文)にそぐわない生徒が居づらくなる空気は実質がどこかにいったことも要因かもしれません。
実質と形式
個々への配慮がもっとできるようになるなんかいい関係にならないのでしょうか?
by ayu15 (2016-06-24 09:44)
あゆさん
そうですね。人権を制約したりする法律は、おっしゃるとおりできるだけ「明記」すべきです。
そうでないと萎縮効果が生じてしまいますもんね。
by hm (2016-06-28 14:12)