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「ガリレオ」的人文科学!? [息抜き!?]

 私は,自分が見ているテレビやら読んでいる本(特に小説,映画,ドラマ)にもの凄く影響されやすいのです。

 タイトルからも分かるとおり,月9「ガリレオ」。私の友人に熱烈な福山ファンがいるのと,私の友人にこのドラマで福山が演じるマニアック科学者そっくりな人がいるのとで,このドラマは珍しく第2回から毎回見ているのです。

 昨日,主人公,天才物理学者「ガリレオ」こと湯川学教授(演ずるは福山雅治)が言っていました。

「全ての結果には原因がある。それらを結びつける合理的理由も。」と。

 変わり者で,ひたすらあらゆるものの因果関係を科学的に解明しようとするマニアックな福山。かっこええわーーーーー。

 さて,そんなガリレオに触発されて,今日は,人文科学つまり「文系」の世界における合理的科学的ものの見方,ひいては道徳,天皇制まで,について私の持論を述べたいと思います。

 

 まず,なぜこんな日記を書きたくなったかというと,最近の言説の中に,

「近代合理主義で人間の心が荒廃した」

「合理的科学的思考ばかりに走って,人は功利主義になった,自分勝手になった」

「合理主義,科学信仰によって,伝統や旧き良きものがないがしろにされている」

「伝統主義に回帰しなければだめだ」

「理屈抜きに道徳律を叩き込むことが必要だ」

といったものが無視できないくらい目立つからです。

 優秀な科学者(数学者)藤原正彦氏ですら,「科学には限界がある。論理には限界がある。」ということを「国家の品格」の中で言っています。(藤原さん自身は科学や論理の役割と絶えざる発展が必要なことを身に沁みて分かった上で言っているにちがいないけど,私は「こんな一般向け文庫本のなかで,こんな雑な言い方して,大多数の国民が,文字通り,科学や論理の価値や営みの重要性を軽んじるようになったらどうするの?」と少し怒り!です。)

 私は,こういう言説に,オレ流「ガリレオ」的見地から徹底的に抵抗します。

 物理などの自然科学(理系)だけでなく,人文科学つまりいわゆる「文系」の世界にも,福山「ガリレオ」が言うように必ず,ある結果には原因があり,そこには合理的に説明のつく理由がある科学的・合理的見地から徹底的にそれを解き明かそうとすることが必要であるということです。

 まず,一般に「伝統」「風習」「道徳律」といわれるものも,大抵,それが成立し,維持されていることについて合理的な理由があります。科学的な思考によって極めて簡単に解明できます。

 「伝統」や「道徳」というものを,「科学」「合理性」と矛盾するとか対立すると考える考え方自体ナンセンス。

 当たり前ですが,生物は遺伝子による複製によって種を保存していくわけで,人間もまさにそうなわけで,前の世代が生きてきた環境の中で次世代が次の時間を生きていくわけです。

 だから,前の世代が作ってきた「伝統」が,人類にとってよりよく生きるための知恵だとすれば,次世代も,その「伝統」が有効なうちはそれに従っていくのが極めて合理的な生き方と言えます。

 「伝統」を全てぶち壊して違うやりかたをするということは極めて不安定で,不合理な在り方です。

 ゆえに「伝統主義」=はじめに伝統ありき,ではなく,人が生きるうえでの合理的選択によって「伝統」を継承するというのが極めて当たり前のことなのです。もちろん,「伝統」の中身が次第に変わっていくのもまた合理的なことです。

 「道徳律」について言えば,「不貞をはたらくな」というようなことも,その「律(ルール)」を守ること自体に目的があるわけではありません。

 世界各地どこでも,またいつの時代でも,これ(不貞)によって刃傷沙汰になったりなんやかんや,みんなが大変な目に遭ってきたはずです。それがなければ,当事者も子どももみんな幸せだったのに…ということがいやというほど繰り返されてきたのに…という話でしょう。

 結局,もちろん性欲や好奇心、はたまた自然な恋愛感情(これ一番大変そう…)など不貞を肯定する要素もあるけれども,それとリスクやデメリットなどを比較考量したときに,平均的な結論として,「なるべく不貞をはたらかないほうが(心の平穏も含めて)期待値としては得をする(幸せになれる)」ということになった。だいたいそんなもんだと理解します。極めて合理的,科学的思考法に根ざしているでしょう?

 

 なので,私は,結局において,「伝統」や「道徳律」に真っ向から逆らうことは少ないでしょう。そればかりか,大概,「モラリスト」として振る舞うようつとめるでしょう(つとめますが,現実には,その通り出来たり出来なかったりでしょうが,それは「道徳!」「モラル!」と言っている人でも同じことです)。

 なんでって,それは合理的で,そのほうが得をする,又は幸せになるだろう,というオレ流合理的思考にもとづきます。

 

 繰り返しますが,要するに言いたいのは,

「日本人の心が荒廃したのは,西洋の合理主義科学主義をありがたがって取り入れて,伝統や道徳をないがしろにしたからだ」

ってのがインチキだということです。たとえば,「日本人の心が荒廃した」一例として,

「電車の中で女性が平気で化粧している。見苦しい。」

というのが挙げられたとしましょう。いやよくあげられます。

 アホか!と。こんなの合理主義科学主義的見地から観れば,合理主義科学主義的思考が不十分だからこんな振る舞いがあるんだ,と私なら断言します。

 つまり,化粧というのは,たとえば,口紅などは体の内臓への入り口である口の周辺などに科学的な物質を塗り込んだりすることを含むが,それを,ばい菌などがうようよ飛び散っているだろう公共の電車の中で行う場合は,一緒にばい菌を塗り込むことになる確率が高いだろう。また,化粧品自体に,ばい菌が混入する恐れも避け得ないだろう。きっと家庭で同じことを行うより不衛生だろう。(ただ,この私の「なんちゃって科学的考察」は,極めて素人判断でアヤシイ。)

 もっと大きな理由はこう,「いわゆる身だしなみという行為を自宅を出る前に完了していない」ということを敢えて頻繁に周囲にアピールすることは,何かの得になるだろうか。それに引き換え,家を出る前の時間を確保するために数十分早起きをすることは,そんなにデメリットの大きいことであろうか。

 そこらを合理的科学的思考を巡らせたら,電車に乗ってから化粧をするのはやめよう,家を出る前に化粧を完了させる時間を確保しよう,となるだろうと思います。

 

 電車で化粧など大したことではありませんが,ライブドア事件・耐震偽装事件・NOVAの社長の会社私物化…についても,同じようなことが言えるでしょう。

 例えば,「不正が今ばれていない」ということと,それを続けて将来もばれずに上手くやっていけるということは全くイコールではない。そればかりか社会時代の進歩を計算に入れれば,いつかは破綻が来る。合理的に考えれば当たり前のことです。

 昨日の「ガリレオ」見た人なら,殺人犯・香取くんの残した胸のアザと同じことといえばピーンでしょう。

 

 さて,話は飛びますし,エラいテーマにいきます。

 「象徴天皇制」

 日本国憲法のなかで,極めて「不合理」な制度のように一見みえます。ホリエモンもそういう考えで「不要」と言っていたのでしょう。

 が,私に言わせれば,好き嫌いや,良いか悪いかべつとして,象徴天皇制は,「不合理」な制度・伝統主義的な「非科学的」遺物にみえて,その実は,極めて,合理的・科学的なシロモノという見方もできると思っています。今日言うのは,アメリカの日本占領政策に役立つという以上の意味です。

 それ以前の日本は,国家権力に直結する意味での「天皇制」だったわけです。天皇は神格をもっていた。それが戦前の教育等によって刷り込まれ,天皇を精神的な支柱に感じている人はやはり多かった。

 西洋の市民革命等~の歴史を見ても分かるように,王政を完全に廃して共和政になったとき,その変化に頭が十分ついていかなかった国民の中には,今はない「王」的なものを求める気持ちが残り(それが王政が復古する原因になったり,ヒトラー崇拝になったり),それが,「反動」の原因にもなってきたといえる。

 つまり,歴史における「物理」的な見方をすると,「王政」を抜け殻も残さず取っ払った場合は,その直後~しばらくの時期においては常に反動の危険にさらされるだろう。

 ハイ!ここで,みなさん,上の下線部に注目されたとおもいます。

 そうです。「抜け殻」。すなわち,国家権力に全く関わらない「王政の抜け殻」。それは「象徴天皇」です。それまでの時代に培われた人々の心に,反動のきっかけとなる「明確な心にポッカリ空いた穴」を空けない工夫ともいえます。

 「象徴天皇」がいることで,なるほど,昔は権力者としての天皇がいたんだなあ,それが民主主義の世になって権力がなくなって「象徴」になったんやなあ,と多くの国民が実感しつづけることができたのでしょう。

 戦後~今まで60年間において,こういう形で,国民主権をうたう日本国憲法が象徴天皇制を置いてきた意味は,極めて合理的に説明が出来るとおもいます。多の立憲君主制国の在り方も同様でしょう。(※ただし,憲法の平等原則の重要な例外,また,皇族の人権に関しては大いなる制限があることなど,「不合理な側面」も見逃してはなりません。)

 さて,権力としての天皇制→国民主権 の移行が,国民の思考と感覚にほぼ完全に定着したとき,上のような「象徴天皇」をそれでも置く必要があるのかないのか?それは,それからの国民が決めることです。ホリエモンの考え方もアリだろうし,違う考え方(象徴天皇制に私が記したのとは別の合理的な意義を見出す考え方)もあるだろうとおもいます。

 

 伝統や習慣…そういったものには,その前提となる条件(環境,時代背景)において本質的な部分が引き続いているならば,それを続けていくことが,人がより良く生きる合理的な知恵だということになることが多い。だから,大抵は,伝統を大事にすることはよいことです。

 ただし,前提条件が変われば,その伝統を守ること→そのひとと周りの幸せ という因果関係が合理的に説明がつかなくなることもあります。そういうときは,「伝統」とされるものであっても,批判的精神をもって見つめ直し,福山「ガリレオ」流に,原因と結果の合理的理由のつながりをチェックしなおさなければなりません。

 また,もう一つの注意点は,「伝統」が誰の利益のための「伝統」だったか?の点です。これが,たとえば,封建社会において権力者の利益を守るために一般庶民に押しつけられた「伝統」だったしたら,それは,現代では通用する前提条件を失っていると言えるでしょう。

 

 現代は,個人個人ひとりひとりが最大限価値を持つとされる社会です。そういう思想を多くの人が支持して成り立っている社会のはず。少なくとも建前は。

 ごっちゃにされるのは,「個人が幸せになるために他人を犠牲にする(他人の迷惑を顧みない)」身勝手を「個人主義」である,「個人主義の弊害!」などといわれる点ですね。

 だけど,これは私に言わせれば不合理! 「個人主義の弊害!」などではなく,ただの不合理。

 他人に迷惑を掛け自分が得をする行為を続けることは,他人にも同じ態度を誘発する。これ必然。だとすれば,つまるところ,「迷惑掛け合い合戦」を永遠に続けなければならず,さらにそれに勝利し続けることでしか,自分個人の幸せは達成できない。これは相当困難だし,そのプロセスに無駄な労力を要する。しょうもない。

 幸せになりたいならこんなの「不合理」じゃないっすか!?

 ハイ!ここ。これをお互いやめましょう,合理的にそれぞれ幸せにくらしましょう,ってのが,「公共の福祉」(日本国憲法12,13条)=人権どうしの衝突を調整する原理。

 個人尊重主義から当然,あなたも私も大切,だから,他人のこと考えてがまんするところはがまん,って極めて合理的じゃありません?これが日本国憲法の基本的なスタンス。

 それなのになんで,「個人尊重主義」「人権尊重主義」が,「そのせいで国民が身勝手な振る舞いをするようになった」に繋がるのですか?

 福山「ガリレオ」流に言えば,

「それは全く論理的じゃない。」

の一言です。

 

 道徳教育強化が叫ばれたり,「規範意識,規範意識」と声高に唱える政治家がいたり。まだそれだけ言うなら,それもまあがんばったらいいんじゃない?とも言えます。

 が,

「科学主義や合理主義ばかり重んじられたせいで,また個人主義のせいで,伝統がないがしろにされ,道徳が乱れ,美しい心がなくなった」

というような言説に至ったらもうありえん!!とおもいます。

 

 道徳の根本について,かの有名な数学者パスカルは,これもかの有名な「人間は考える葦である」のパンセのなかで,

「それゆえ我々の尊厳はすべて思考のうちにある

我々が立ち上がらなければならないのはそこからであって

我々の満たすことのできないところからではない

だから我々はよく考えるように努めよう

ここに道徳の根源がある

と言い残していますね(超有名で,私が紹介するまでもありませんが)。

 このパスカルの言葉は極めて当たり前のことであって,「道徳」もなにも,天から降ってこないとすれば人間の思考からしか産まれようがないわけであって,誰も異論を挟む余地がないとおもいます。

 
 だから,私はこう思う。

 

 道徳教育の強化ですか?それは結構,やればいい!!

 ただし,もし,やるならホンモノの道徳だ。つまり,個々の人間の合理的思考に根ざしたものの考え方の集大成である道徳のことだ。

 そして,「道徳律」といわれるものを科学的合理的に批判的に検証し,それが,私達がよりよく生きるために有用なものであるか否かを確かめる道徳の勉強だ。 (もちろん,当たり前のことだが,学ぶ者の年齢に応じる内容でなければならないが。)

 道徳を科学する,そういう視点での道徳教育の強化なら,余分な時間があるなら大いにやればいい。

 「そんなの『道徳』じゃない!!」というか!?

 だが,ちゃんとやれば,その結果が,今我々が常識的に思うレベルでそんなに「不道徳」なものにはならないと私は思う。むしろ,住みよい社会の実現つまり,モラルある社会の実現に繋がるはずだ。

 

 もちろん「道徳教育!!」「規範意識!!」と叫ぶ人の多くは私と全く発想が違うんでしょう。すべて「まずは従ってみよ」式を徹底せよ,「なぜ?」と問うからダメになる,式の考えが多いんでしょう。

 教育再生会議などの今の「道徳教育強化」を言う流れも,そういう傾向の論者の影響と思われます。

 

 ここで私はこう思います。

 ある道徳や伝統について,「まずは従え」「なぜと問うな」というのは,かなり昔は,時代背景を考えればそれがそれなりに合理性を持っていたのだろう。つまり,基礎教育が行き渡らず,多面的な合理的思考・科学的思考をせよ,と庶民に言っても無理だった前近代(!?)の時代においては,下手に考え出すと迷い混乱するだけで「道徳」の真の意味に到達できないことはおろか,(自分の幸せにとっても)極めて不合理な行動を多くの人がやり出す恐れが強かったのだろう。

 しかし,戦後は,個人尊重主義(憲法13条)のもと,ひとりひとりに「文化的な生活」(憲法25条)を保障し,9年の義務教育の機会を保障した(憲法26条,教育基本法)日本国憲法のもとの社会。この時代に,うえの「それなりの合理性」は当てはまらないし,「庶民は多面的な合理的思考科学的思考が出来ない」ことを前提にしてはならない。

 前提条件が変わったのだ!

 9年も日中の時間の大半を使って,言語や数学ほか多教科を学ぶシステムの中で,合理的思考・科学的思考をだれもが持ちうることを前提にすべきは当たり前だし,そこで得た論理的思考力を活用して「道徳」を科学し,「与えられる」「従う」「道徳」ではなくて,自分で合理的説明がつく(又は「今はわからなくともいつか合理的説明がつくと分かるんじゃないかな」くらいには思える)ほんものの道徳を身につける基礎を作ることが大切だ。

 ただし,前の記事でも述べたが,教育の成果にはもちろん個人差があり,またスパンとしても,特に人格に関わるものなど,学校卒業時に完成するはずはない。一生のなかで徐々に,「ようわからん道徳」が「考える道徳」になるにすぎない,ということに違いない。

 だからまあ「ようわからんうちは,一応『道徳』と言われるものに従っとけ」ってのも大概正しい在り方とも言える。

 というと「なあんや~~ 村上センセも案外フツーの人ですね。」とか「結局,モラルにしばられてるんですね。」「やっぱり従えっていうんですね,ガッ~カリ!!」と言われるかもしれない。

 言われて結構!

 しかし,私が言いたいのは,学校教育について,「与えられる道徳」「従う道徳」など強調するよりも,学校を出てから世の中にでて色んな出来事にであうなかで,「ようわからん道徳」を自分の頭で合理的科学的に検証し,自分なりに解釈して,「自分がより幸せに生きる知恵としての,考える道徳」に変えてゆける基礎力,つまり言語的思考力,論理的思考力などといった基礎的能力を育てることに主眼を置くべきだ,ということである。

 だから、「道徳」を教科にするとか、「道徳」の時間を増やすなどという短絡的アプローチではなく、自分の頭で考えるきっかけを作るとか、自分の頭で考えるためのツールを育てるとかを、「算数」「国語」「理科」「社会」などの教科の中でやっていくことこそが、ホンモノの道徳につながるだろうと思うのだ。

 

 そのほうが一人一人の人間が,自分の頭で生き,発展する力になる。

 繰り返すが,そのほうが,人が生きるためにする思考(知恵)としての道徳になる。真に内容のあるモラルの高い社会になる。

 

 さて,最後に,極めて単純に言おう。

 

 ボーイズビーガリレオ!!

 ガールズビーガリレオ!!


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ayu15

う~ん。よくわかんないです。
ふと思い出すと、

天皇制について「ゲルニカ」でスペインの取り上げてます。王の権力というより取り巻き右翼の人達が王様の名前利用してるようです。http://blog.so-net.ne.jp/life-ayu/2007-11-04

道徳は自民党の新聞に恐ろしい事が書かれてました。
http://blog.so-net.ne.jp/life-ayu/2007-11-06-1

自然科学と人文科学ですが、ある先生が本物の科学者は限界をわかっていると言ってました。自然科学をおかしな使い方する人文科学の人達(政治関係とか)がいておかしくなるとかだそうです。’(例・環境問題対策)

個人主義は、小泉さんのお手本のアメリカが本場らしいです。
by ayu15 (2007-11-07 11:01) 

hm

>ayuさん
 
 そうそう,例えば戦争も,天皇自身が主になってしたことでなくて,右翼の人たちが主となってやったこと,だと色んな本に書いてありますね。
 んで,「名前を利用する」というのは,なぜ意味があるかというと,その「名前」の持ち主には権力があるからなんですよね。(世の中の「名義貸し」はみんなそう。権力とか免許を持っている人が「名前を貸す」のですね)

 本物の科学者,というのは,やはりどこかで謙虚であり続ける人なのでしょうね。だから,「限界は存在し得る」という考えは当然持っているでしょう。ただし,実際には「限界」というものを見たことがないわけで,だから決して「俺は限界を分かっている」とは言わないでしょうが。

 道徳について極端な考えの持ち主は確かに自民党の中でも少数派でしょう。でも,その他の自民党議員だって,そういう変な道徳主義(?)が怖いということについて鈍感な人が多いんじゃないでしょうか。そういうの,もうちょっと真面目に考える,または,敏感になってもらう必要があるとおもいます。
 
 アメリカ型個人主義もヨーロッパ型個人主義(?)も,みな,私には全然抵抗ないです。また,日本の伝統とも全然矛盾しないいし仲良くやっていけるシロモノだろう,と思っています。
by hm (2007-11-07 11:36) 

 すんません、長い記事なんで後回しにしてて、今日やっと読んだんですけど、いいじゃないっすか〜!
 私は基本的に科学万能主義です。つーても、私が言う科学ってのは、自然科学・人文科学(含哲学)・社会科学すべて含めてです。
 日本だけなのかどうか知りませんが、科学っつーと科学技術だと思われちゃうフシがあるんですけど、文系だって科学ですし、理系あっても技術は科学じゃありません。
 「科学的なるもの」ってのは、私が思うには、
 感覚を過信せず、理論的に攻める。
 想像に頼らず、検証をする。
 安易に信じず、疑いを大事にする。
 感情に走らず、理性的に考える。
 証明できないものは、断定しない。
 つまり、科学こそ、「謙虚」に他ならないと思うんです。
 科学的な考え方を否定するのは、傲慢を肯定することだと、そう思います。
 
 
by (2007-11-09 21:35) 

hm

shiraさん

 ありがとうございます。


>つまり、科学こそ、「謙虚」に他ならないと思うんです。
>科学的な考え方を否定するのは、傲慢を肯定することだと、そう思います。

 まさにこういうことが言いたくて書いた記事です。
 たとえば、私なんぞが「科学には限界がある」なんておこがましくて言えない、と思うのです。いや、人類の科学が到達しえない領域はありうるとしても、少なくとも、私が生きている間の人類の科学的営みは限界などにぶちあたりっこない。
 ま、感情や本能に任せて生きるが楽で、科学も論理もめんどーくさいわけです。だから、私も怠りがちになるのですが、しかし人間らしい幸せのために、なるべく科学的にものを見る態度を持とう、とつとめることは大切だと思いますね。
by hm (2007-11-10 16:38) 

tamara

こんにちは、はじめておじゃまします。竹を割ったような文章に感心しています。(こんなに長く、熱く書いていらっしゃることにも・・)
私も、科学と合理的であること、それに伝統も道徳もとても大切なものだと思います。
それらの言葉に「似非」が付くとおかしな事になりますが。
そして、誰がどう使うかですごく違ってしまいますね。
議論はかみ合わず、説明するのも面倒になり・・私はすぐに、もうや〜めた、という気分になってしまいます。
ガリレオ、時々私も見ていますよ。
by tamara (2007-11-29 00:05) 

hm

>tamaraさん

 maiさんのところから飛んでときどきブログを拝見していました。
 
>そして、誰がどう使うかですごく違ってしまいますね。

 本当に仰るとおりです。
 私はほんものの科学の効用というのは,科学も人間の営みによって産み出された以上人ひとりひとりの尊厳に資するものだ,そうでないと意味がない,と思っています。
 特に,アインシュタインや,ラッセル,湯川秀樹氏らがこぞって核兵器廃絶運動に取り組んだこと,これは科学と人間の本質を考える上で欠かせないものに迫ることだと思っています。
by hm (2007-12-04 19:12) 

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