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映画「闇の子供たち」~出演 宮﨑あおいさんほか

 たぶん、生まれて初めて、一人で映画をみてきました。この映画は一人でも多くの人に見ていただきたい映画です。といっても、神戸シネカノンでは23日(明日だ!)までになってしまいましたが,全国ではこれからも順次上映だそうです。




 動機の70%(いや、正直言えば97%くらい)は私が宮﨑あおいさんのファンであることですが、内容もとても気になりました。

 
 タイの子供たちの話です。
 臓器売買や幼児売春の犠牲になる子供たちのことを描いた映画です。映画そのものはフィクションですが、臓器売買も幼児売春も、実際にあることだそうです。
 原作は本です。
闇の子供たち (幻冬舎文庫)

闇の子供たち (幻冬舎文庫)

  • 作者: 梁 石日
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2004/04
  • メディア: 文庫



 
 世界には、とてつもない貧富の差があります。
 高いところから低いところへお金が流れることがあります。
 そのときに、お金で何を買うか、です。

 ホリエモンは人の心は金で買える、と言いました。

 この映画は、心を買う、なんてなまやさしいものではありません。

 
 子供の命をお金で買う

という話です。この映画の臓器売買は、脳死などではなく、健康体の子供の心臓を誰かがお金を出して買う、という話です。また、幼児売春もまた、おぞましいもので、それ自体がおぞましいという話にとどまらず、それによって命をいとも簡単に奪われる酷い話です。

 しかし、実は、この映画が描こうとするのは、臓器売買や幼児売春をする人間が最低だ、そういう「人間のクズ」を排除すればよい、などという単純な話ではありません。 
 たとえば、臓器売買の話では、臓器提供を受けるのは、日本人のお金持ちの子ども。
 ですが、その子どもは心臓の病で余命半年で、両親も何とかして子どもの命を救いたいと必死。
 そんな中での話です。
 それは、そんな臓器売買を仲介するような輩が…と言っても、そのような「輩」自身も、生活のためにやっている…

 さらに話を広げれば、

金で命を買う

というのは、資本主義社会においては、誰でも多かれ少なかれやっていることです。
 
 例えば、危険物の処理や高所での作業など、本来はたいていの人が怖いからやりたくないわけですが、誰かがやらなければならない。0.00…%の命をそこで売っている、ともいえます。

 日常の食べ物だって、

ある人は、高い金を出して、高級スーパーの野菜を食べる

ある人は、低い金額で、農薬づけの恐れのある野菜を食べる

これだって、金で命の何%かを買っているのです。

 
 だからって、お金や貧富の差がない「完全平等社会」を作ろう、という話ではありません。
 大事なことは、そのことについて、自覚があるか無いか、ということではないか、と思います。

 
 実は、この映画、最後にとんでもない結末が用意されています。
 何でわざわざそんな結末にしたの?といいたくなるような結末。
 なのですが、それが象徴的に言いたいことが、単に世の中にはとんでもない輩がいる、というだけの話ではないということを表しているように思えました。この結末は、さすがにネタバレが過ぎるので、ここでは言えませんが。


 資本主義、市場経済というのが、全てにおいて悪であるとは思いません。そればかりか、むしろ、市場経済がない場合に、どうすれば上手くいくのか、かつての社会主義国を見ても、未だ十分な成功例は見あたらないと言えましょう。それは、ある意味、市場経済でなければ出来ないことを示しているとも言えます。
 なので、私たちは、おそらくこれからも長いこと(少なくとも私の一生においては)、市場経済や資本主義社会とつきあっていくほかないのはほぼ間違いないと言えるでしょう。
 ですが、資本主義という仕組み自体に「命の搾取」というべき非人間的な効果をうむ側面があることは確か。
 そして、程度の大小はあれ、自分も何らかの形で、金で自分や家族の生存にとって有利なものを買って暮らしている以上、誰かの「0コンマ00…何%かの命」の上に生きているということ。
 
 ですから、私からすれば、市場が万能であり、自由競争に委ねれば世の中大概全てのことが上手くいくとか、頑張ったものが報われるとか簡単に言えてしまう人の神経は全然分かりません。

 が、自由競争万歳論者にそう言えば、鋭い相手なら必ずこうかえってきます。
「お前だって、金のかかる教育を受け、金を出して(汚染米ではない)『出所の分かる米』を買い、海外旅行でも自分より貧しい人がせっせと働いている高級ホテルで王様のようなリゾートを楽しんでいるじゃないか。ええ格好して、『貧富の差が非人間的だ』とか言えるのか。」と。
 そうです。その通りです。
 全く、言っていることとやっていること一貫しません。
 その意味では、このような貧富の差による非人間的な出来事を告発する映画に出ている宮﨑あおいさんだって、「偽善者」だ、というひねくれた(?)見方だってあり得ます。
 そういう矛盾を見ると、その方が逆に「汚く」見える、「いやらしく」見える、という人もいると思います。それはある意味で純粋な見方であるとも思います。
 
 けれども、人間が考える生き物である以上、「自分が生きる」ということと「理念としてどうあるべきか」ということと、それは常にその狭間で生きるものではないでしょうか。
 それを簡単にスッキリさせようとする発想こそが私には危険をはらむとおもいます。

「自由に生存競争すればよい、勝ち残ったものが生き残る社会であればそれでよい。敗者への慈悲など偽善だ、無用だ。」こんな割り切り方はもちろん危険です。

「貧富の差や資本主義社会の構造を反映するあらゆるものを排除する。ぜいたくも一切しないし、誰にもさせるべきではない。つつましくとも皆平等であるという理念を曲げてはならない。」これも危険なようにおもいます。人間が持つ側面(本能や欲望など)を考えたとき、何か余りに無理を強いるような気がするし、また、これでは統制だらけで味気ない社会になってしまうのではないか、とも。

 単純な答えなど無い。
 割り切れぬものをかかえ、悩み・迷いを大切にし、自分に可能な範囲で他者を思い遣る、それを積み重ねる、ちょっとずつのものを良い条件にいる人たちが持ち寄る、そんなことでしか仕方ないのだ、と思います。

 だから、例えば私が、この映画「闇の子供たち」を見て、何かの機会に、ちょっとのことでも貧困に苦しむ社会の子どもたちに対してしてあげられることがあれば何かちょっとでもしてあげたい、という気になったことに意味がある、とおもいます。

 仮に、偽善~うそくさ~という見方をされるような面があったとしても、やっぱり、この映画のように、金のために命が買われる非人間的な社会現象を告発するような映画は応援したい、と思います。
 
 そして、こう思いました。
 昔の学生運動のように「資本主義打倒!」とかいう気は私にはありません。そんなこと実行できそうにもないし、仮に実現したら、その社会で私がちゃんと生きてゆけるのかも不明です。
 が、資本主義の構造が持つ、放っておけば、非人間的な命の搾取(まさにこの映画のような)にさえ繋がりかねない危険な部分には、目を見開いて、自分に出来る限りで抗しながら、うまく資本主義社会と付き合っていきたいものだ、と。
 
 そう、私は、自分の生活は最優先に考えながら、の超ヌルい「貧富の差縮小」論者です
 ですが、革命的な「貧富の差縮小」「貧富の差解消」論者が多数になるとも思えない以上、私のような「超ヌル」の「貧富の差縮小」論者、(もう少しは真面目な)「ヌル」い「貧富の差縮小」論者が増えてゆくことが、きっと一番現実的に世界を少しでもより人間的なものに近づけるために有効ではないか、と思います。
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shira

 そのことに自覚があるかないか。
 もう、ほとんどそれだけだという気がしますね。
 この自覚というのは、生活がわりと恵まれていることに対する「後ろめたさ」みたいなもんと考えればいいでしょうか。
 そういう後ろめたさを失うと、人間とことん堕落します。状況をどんどん悪化させちゃいます。
by shira (2008-09-23 11:59) 

hm

shiraさん

 ナイス・コメントありがとうございます。
 その通りでしょうねえ。本当に。
 shiraさんの言われる、堕落・状況悪化は、まさに、世界経済の現在の状況ではないかと思います。
 現在の世界経済の危機的状況を招いた人間たちに「人間性への配慮がない」ことだけならシステムそのものは破綻しないかもしれませんが、そこからさらに、shiraさん言われる「堕落」の挙句「経済的利益を追うことそのものについてですら合理的思考が出来なくなる」ということによって、状況を悪化させ、破綻をもたらし…
 
by hm (2008-09-23 21:58) 

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