面白かったです。
神戸女学院の先生の内田樹さんのブログを元ネタにした本です。
私は読書をするとき、読み返したいフレーズのある頁の下の角っこを折っておくのが癖なのですが、折り目だらけになってしまいました。
内田さんの文章は、実にしなやかに、色んな主義主張、考え方の典型的な枠組みを客観視(自分の思考も客観視)しながら、物事の本質に迫っていくという書きぶりで、大変ためになりました。
個別の項目においては、私と全然考えの違う項目もありますが、ものの考え方の姿勢について、読んでいてとても心地良い文章でした。
とくに印象に残った部分を下に記します(ほかにもたくさんの箇所がありますが、ほんの一部だけ)。
(以下引用)
【教師について】
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だから、学校の先生がすることは畢竟すればひとつだけでよい。
それは「心身がアクティヴであることは、気持ちがいい」ということを自分自身を題材にして子どもたちに伝えることである。 「気持ちよさ」は知識や技能を持っているので「まことに便利だ」という仕方で表現してもよいし、推論や想像で思考が暴走するのは「ぞくぞくする」という仕方で表現してもよいし、体の潜在能力が発現して「わくわく」している状態で表現してもよい。
要するに教師自身の心身がアクティヴな状態にあって、「気分がいい」ということだけが確保されれば、初等中等教育の基礎としては十分なのである。
…
【神戸女学院について】
…
本学は関学のときと同じく、日本社会における「外部」との通路であり続けることをその歴史的使命としている。そのためにも、学生たちを現在の社会において支配的な価値観に追随し、競争的に社会的上昇を遂げるように仕向けるべきではない。むしろ、そのような現代社会のありようにつよい違和感を覚えている学生たちを迎え入れ、彼女たちが学外にいるときよりも学内にいるときの方が心身の平安と開放感を得られるような「逃れの街」であることのうちに使命を見出すべきである。それが私の結論である。
…
【日本について】
タイトル 辺境で何か問題でも?
(村上註・日本は1894~1945年をのぞき、常に「辺境」の「属国」であったことを述べて)
…「辺境」は(自分が辺境だという意識を持ち続けるならば)「中央」を知的に圧倒することができる。日本の歴史はその逆説を私たちに教えている。
…(中略)…
だから私が申し上げているのは、属国でいいじゃないか、辺境でいいじゃないか、ということである。
せっかく海に囲まれた資源もなんにもない島国なんだし、人類史以来地球上で起きたマグニチュード六以上の地震の二〇%を一手に引き受けている被災国なんだし。
おのれを「上位文化」の下位にあるもの、「述べて作らず」の祖述者のポジションに呪われてあるものとして引き受けるとき、日本のパフォーマンスは最高になる。
ある種の「病」に罹患することによって、生体メカニズムが好調になるということがある。だったらそれでいいじゃないか、というのが私のプラグマティズムである。
「属国」であり、「辺境」であることを受け容れ、それがもたらす「利得」と「損失」についてクールかつリアルに計量すること。 病識をもった上で、疾病利得について計算すること。
それが私たちにとりあえず必要な知的態度であろうと思う。 …
(引用終わり)