東京高裁は先月29日の決定で、「法制度制定時に、人為的な操作による出生が想定されていなかったからといって、我が国の法秩序の中に受け入れられない理由とはならない」とした上で、「向井さん夫妻が双子の法律的な親となり、実子として養育することが、子供の福祉に最もかなっている」と判断。同区長に出生届を受理するよう命じた。
しかし、法務省は従来、「民法の解釈上、母子関係は出産によって生じ、代理出産による母子関係は認められない」との立場をとっており、高裁決定を検討した上で、許可抗告を行うよう同区に指示していた。
(引用終わり)
今日のタイトルで書いたとおり,東京高裁は,
「法律のために人があるのか,人のために法律があるのか」
について,とても分かりやすく,納得できる判断をしました。
上記ニュースの
「法制度制定時に、人為的な操作による出生が想定されていなかったからといって、我が国の法秩序の中に受け入れられない理由とはならない」
の箇所です。
私流に言い換えてみますと,
「民法太郎」(法律を擬人化してみました 後日追加 ただし日本民法だけと考えると正確さを欠くかもしれません。民法太郎は、日本の民法のほか、外国法、外国判決の承認に関する法規定を含んだ存在と理解願います。本日記末尾参照。)いわく,
「俺は古い人間(法律)だからよぉ。代理出産なんてものは,想定外だったんだよ。だから,俺は代理出産については一言も何も言ってないよ。
けれど,俺の考え方はこうだ。
家族法っていうのは,ひとりひとりを大切にする,特に,幼い子どもっていうのはその子の幸せを一番に考えてやらにゃあならんわけよ。
俺はそういう考えで出来ている。けども,言い訳させてくれ,代理出産なんて知らなかったし,想定外だったから,書かなかっただけなわけだ。
俺が代理出産を知っていればって?
そりゃあ,あれよ。
色んな事情でそういう方法をとるしか仕方ない人がいて,この場合,産まれた子どもが,確かに高田・向井さんの精子・卵子からうまれたって言うことで,代理母の人だって高田・向井さんの子どもだってことで異存がないっていうんだろ?
それで,なんで,高田・向井さんの「子ども」じゃないって言わなきゃならないんだよ!?
高田・向井さんの子に違いないよ。そりゃあ。
俺がそういう子は「子」じゃないって言ってたって?
そうじゃないって!!そんな方法を予想してなかったから,何も言ってなかっただけだよ。
俺の「こころ」を取り違えちゃ困るよ。」
ということでした。
私はこの高裁の裁判にとても納得したのでした。
が,このたび,法務省・品川区の対応はどうしてでしょう?
従来からの,出産という事実がないと母子関係を認めないを貫くことの「安定」という価値を重んじたのでしょう。
それで何も困らない人たち(多くの人たち)はそれでいいと思います。
でも,高田・向井さんにとっては,自分たちの子が届けをこの国で受けてもらえないということがいかに悲しいことか?
たくさんの人々の事務を処理しなければならない行政が,「制度の安定」という価値を重んじて裁判で争うということ自体は,仕方ないことで,一概に否定されることではありません。
でも,高裁の上のような判断が出たのですから,「裁判所も認めたんだから,高田・向井さんの,具体的な幸せに沿うように気持ちよくやってあげようよ。」と受け入れたら良かったのに,と思います。
この度の最高裁への許可抗告には,正直,
「そこまでするか?」
という気持ちです。
(後日 追記)
この日記を書いた後にはっきり知りましたが、この事案は、高田・向井さんの子であるとされた外国における確定判決をわが国で承認するかの問題だそうです。
ですので、上の「民法太郎」については、わが国の「民法」だけのことといえば不正確であって、日本の民法、外国の民事法、外国判決の承認に関する法規定・法解釈をすべて含んだ存在を「民法太郎」である、と考えていただければ、と思います。
読者の方のなかには、司法試験受験中の方もいらっしゃると思いますので、補足します。母子関係について、日本民法の現在の通説は「分娩という事実について母子関係を決する」です。今後の議論あるいは立法によって将来は流動的かもしれませんが、現時点においては、そういう整理でOKだと思います。