コロナで変わったこと~その5 スポーツ、音楽、文化 [時事ニュースから]
仕事や日常生活の基本的なことが変わりましたが、人々の楽しみ、娯楽も変わりました。
5 スポーツ、音楽、文化
「不要不急」という言葉には私は本当に違和感がある。
それは、10年前の新型インフルエンザのときからだ。
人の営みに、不要不急なものとそうでないものがあるのか?本当に。
例えば、衣食住そのものというのは「要」「急」なのであろう。
歌を歌ったり、野球をしたり、ゴルフをしたり、パチンコにいく、映画に行く、これは「不要不急」に分類されるのが一般的だろう。
では、トレーニングをする、温泉浴をするというのは?「不要不急」と言われそうだが、トレーニングはリハビリの意味を持っているかもしれないし、温泉も温泉療法かもしれない。
そうすると、歌やドラムなども、人によって、治療・セラピーの意味を持っているかもしれない。
よくよく考えていくと、「不要不急」とそうでないものとの境界など本当にあるのか?ということになる。
たとえば、4月5月は裁判が止まった。
つまり、多くの裁判というのは「不要不急」だったということだ。
私は訴訟を扱う弁護士の仕事は、社会に欠かせない基本的なインフラだと思っていたが、どうやら「不要不急」に分類されたらしい。
コロナ感染拡大の原因と言われる「夜の街」。
接待を伴う飲食店に行くことは「不要不急」の代表のように言われる。
本当にそうか?
色んな人が生きていく中で、その場所を必要とする人がいるから存在するはずだ。
客であれ、そこで働く人であれ。
そんなことはちょっと考えればすぐわかる。
私は、およそ人の営みに「不要不急」なものはない、と思う。
さて、4月5月、まだコロナの正体がよくわからず、「不要不急」かどうかはさて置いて、あらゆる人の動きをいったん止めて、フリーズして感染拡大のスピードを遅らせよう、というのは納得のいく話だった。
そこで、スポーツや音楽イベントが中止されたのもやむを得ない。
でも、そのときから私はいつまでもそういうわけにはいかない、と思った。
NO MUSIC NO LIFE という言葉がある。
音楽は、ライフラインなのだ。
水道・電気ではないが、音楽は人が生きるうえでなくてはならないもの。
だから、4月5月は、ライブはなくても、みんなスマホに入っている音楽で過ごした。
スポーツもそうだ。
人が生きるうえでエネルギーチャージをしたり、健康を維持するために必要なものがスポーツだ。
健康維持するための音楽・スポーツをいつまでも封じられたら、コロナに感染しなくても病気になってしまう。
プロ野球、コンサートの「生」観戦は、とても貴重なものだ。
何が良いのだろう?
一つには、超一流のアスリート、ミュージシャンのプレーを体感できること。
だがそれだけではない。
日ごろ色んな立場で過ごしている人々。学生、社会人、無職の人。また、仕事の上では対立するような立場にあるかもしれない人。これがみな一緒に、同じ瞬間を、同じ喜びを共有する。
そのことが素晴らしい。
共に生きている、と感じあえることが素晴らしい。
だから、やはり、人が集まらなければならない。
昔からそうやって人は、エネルギーを互いにチャージしあって生きてきた。
6月から少しずつ、スポーツ、音楽、舞台もライブが戻ってきた。
コロナ感染防止対策、また、世間からの目などの課題を乗り越えて、関係者の努力は並大抵ではなかったはずだ。
本当にありがたいと思う。
さて、そんな中で、4月、5月に音楽で感動したことがある。
世界的ジャズピアニストの小曽根真さんが、毎日、Facebook Live でライブを配信したことだ。
約50日にわたった。これは画期的だった。
鑑賞している人の数が画面上でリアルに更新され、互いがチャットのやりとりをしながら音楽を楽しむ。
自分の「友人」が参加していることも表示される。
ああ、あの人も一緒に聴いているんだな、と感じられる。
最終日は1万人を超え、上に書いたリアルのライブのように、同じ瞬間を、同じ喜びを共有している実感を得られた。
完全に無料のライブだが、お金を払っても惜しくない価値があった。
音楽も本当は「生」でこそ、というのは変わらない。
だが、新しい形ももっと普及していくのではないか。
リアルタイムのライブであればオンラインも、十分、入場料のとれる形になることを実感した。
GOTOトラベル、GOTOイート。
これは確かに、コロナで痛手を受けた観光、飲食への救済として、ニーズのあった支援策だ。
だが、次の業種はどうだろう。
スポーツジム、ライブハウス、映画館、美術館、博物館…
コロナで大変な痛手を受けているが、支援をほとんどうけていない。
上記の通り、スポーツ、音楽、芸術は人が生きる上で必要なものだ。
スポーツジム、ライブハウスは、確かにクラスターが発生するなどのことがあり、感染防止対策が重要だ。
だが、映画館、美術館、博物館などは、そこで飛沫を飛ばしまくる人はまずいない。
今の「GOTO」があるのなら、「GOTOスポーツ」「GOTOアート」「GOTOカルチャー」があっても良いはずだ。
さて、私はスポーツは、日々のジムでのトレーニング、野球、ゴルフをする。
4,5月にすべて中断したが、6月ころから復活した。
4,5月中は「なわとび」をしていた。
ジムでマシンを使って体が動かせるようになったとき、本当に体中に血が流れている感じがした。
草野球は、コロナ前は「勝ち負け」や自分の成績にもこだわる気持ちがあったが、コロナ後に久しぶりに対外試合をしたとき、本当に野球できることそのものの喜びを実感した。
ただ、試合後の整列の時、にこやかに相手チームの選手に握手を求めに行ったとき、相手チームの選手が戸惑っていた(それでも3人握手してくれた)のが、「ああコロナ下では握手はしないのか。さびしいことだ。」と感じた出来事だったが。
ゴルフは本来人が集まらないので安全なはずだが「自粛」ムードだった。
「誰と誰との、どういう経路での感染を防ぐのか」が分かってきてからは、ゴルフ場は盛況だ。
人が密集しない山、海、大自然の中はそもそも気持ちがいい。
「コロナを避ける」ということは「人の密集を避ける」ことだから、大自然の良さを感じに行く、というのが大正解。
今回は、まとまりのない話になったが、人が生きる上での「栄養」は、一見「不要不急」なように思えるものに沢山ある。
「コロナにかかって死なない」ために生きているのではない。
憲法13条にも幸福を追求する権利とある。
4,5月あらゆるものをストップさせたことによって、かえって、スポーツ、音楽などのありがたみを実感できた。
良い方向に向けていくにはこう考えたらどうだろう?
スポーツにしても、部活などでは、もう「仕事」であるかのように、勝利至上主義的になってしまう状況もあったはずだ。これは、勝負事の場合どうしてもそうなりがちなことである。誰が悪いわけでもない。
けれども、スポーツ本来の機能は、人を健康にすること、人生の喜び・彩りになることだ。
強制的にストップさせられて、その後、練習を再開したときの感動が新しい原点になるのではないか。
音楽・芸術も、どうしても商業主義的な要素に強く影響されて、本来やりたかったことができない状況がもともとあったはずだ。
コロナ下での制限された中での活動、また、苦労して再開したときの活動で感じられた、音楽・芸術本来の喜びのコアな部分。
今は痛手を受けていても再興していくときに、「本質的な喜び」からの再構築ができるのではないか。
音楽・芸術にビジネスが介在することも当然ではあるが、その在り方の再構築によって、もっと多くの人々の心から求めるものが滑らかに行き渡る世の中になるのではないか、と思う。
4,5月は「モノクロ」の世の中だった。
それを経験したからこそスポーツ、音楽、文化の「彩り」の大切さ、その「彩り」の本質を感じられた。
これ活かして、すぐには難しいが、やがてより豊かな「彩り」の世界に、と思う。
以上、今回は、私の大好きなスポーツ、音楽とコロナについて書きました。
それにしても、文化・芸能という分野は、コロナ下で苦しい立場に置かれているのに支援の対象から外れていることは良くない、と思います。
まだそこまで支援の手が回らない、ということかもしれませんが、何か自分にもできることを考えていきたいです。
5 スポーツ、音楽、文化
「不要不急」という言葉には私は本当に違和感がある。
それは、10年前の新型インフルエンザのときからだ。
人の営みに、不要不急なものとそうでないものがあるのか?本当に。
例えば、衣食住そのものというのは「要」「急」なのであろう。
歌を歌ったり、野球をしたり、ゴルフをしたり、パチンコにいく、映画に行く、これは「不要不急」に分類されるのが一般的だろう。
では、トレーニングをする、温泉浴をするというのは?「不要不急」と言われそうだが、トレーニングはリハビリの意味を持っているかもしれないし、温泉も温泉療法かもしれない。
そうすると、歌やドラムなども、人によって、治療・セラピーの意味を持っているかもしれない。
よくよく考えていくと、「不要不急」とそうでないものとの境界など本当にあるのか?ということになる。
たとえば、4月5月は裁判が止まった。
つまり、多くの裁判というのは「不要不急」だったということだ。
私は訴訟を扱う弁護士の仕事は、社会に欠かせない基本的なインフラだと思っていたが、どうやら「不要不急」に分類されたらしい。
コロナ感染拡大の原因と言われる「夜の街」。
接待を伴う飲食店に行くことは「不要不急」の代表のように言われる。
本当にそうか?
色んな人が生きていく中で、その場所を必要とする人がいるから存在するはずだ。
客であれ、そこで働く人であれ。
そんなことはちょっと考えればすぐわかる。
私は、およそ人の営みに「不要不急」なものはない、と思う。
さて、4月5月、まだコロナの正体がよくわからず、「不要不急」かどうかはさて置いて、あらゆる人の動きをいったん止めて、フリーズして感染拡大のスピードを遅らせよう、というのは納得のいく話だった。
そこで、スポーツや音楽イベントが中止されたのもやむを得ない。
でも、そのときから私はいつまでもそういうわけにはいかない、と思った。
NO MUSIC NO LIFE という言葉がある。
音楽は、ライフラインなのだ。
水道・電気ではないが、音楽は人が生きるうえでなくてはならないもの。
だから、4月5月は、ライブはなくても、みんなスマホに入っている音楽で過ごした。
スポーツもそうだ。
人が生きるうえでエネルギーチャージをしたり、健康を維持するために必要なものがスポーツだ。
健康維持するための音楽・スポーツをいつまでも封じられたら、コロナに感染しなくても病気になってしまう。
プロ野球、コンサートの「生」観戦は、とても貴重なものだ。
何が良いのだろう?
一つには、超一流のアスリート、ミュージシャンのプレーを体感できること。
だがそれだけではない。
日ごろ色んな立場で過ごしている人々。学生、社会人、無職の人。また、仕事の上では対立するような立場にあるかもしれない人。これがみな一緒に、同じ瞬間を、同じ喜びを共有する。
そのことが素晴らしい。
共に生きている、と感じあえることが素晴らしい。
だから、やはり、人が集まらなければならない。
昔からそうやって人は、エネルギーを互いにチャージしあって生きてきた。
6月から少しずつ、スポーツ、音楽、舞台もライブが戻ってきた。
コロナ感染防止対策、また、世間からの目などの課題を乗り越えて、関係者の努力は並大抵ではなかったはずだ。
本当にありがたいと思う。
さて、そんな中で、4月、5月に音楽で感動したことがある。
世界的ジャズピアニストの小曽根真さんが、毎日、Facebook Live でライブを配信したことだ。
約50日にわたった。これは画期的だった。
鑑賞している人の数が画面上でリアルに更新され、互いがチャットのやりとりをしながら音楽を楽しむ。
自分の「友人」が参加していることも表示される。
ああ、あの人も一緒に聴いているんだな、と感じられる。
最終日は1万人を超え、上に書いたリアルのライブのように、同じ瞬間を、同じ喜びを共有している実感を得られた。
完全に無料のライブだが、お金を払っても惜しくない価値があった。
音楽も本当は「生」でこそ、というのは変わらない。
だが、新しい形ももっと普及していくのではないか。
リアルタイムのライブであればオンラインも、十分、入場料のとれる形になることを実感した。
GOTOトラベル、GOTOイート。
これは確かに、コロナで痛手を受けた観光、飲食への救済として、ニーズのあった支援策だ。
だが、次の業種はどうだろう。
スポーツジム、ライブハウス、映画館、美術館、博物館…
コロナで大変な痛手を受けているが、支援をほとんどうけていない。
上記の通り、スポーツ、音楽、芸術は人が生きる上で必要なものだ。
スポーツジム、ライブハウスは、確かにクラスターが発生するなどのことがあり、感染防止対策が重要だ。
だが、映画館、美術館、博物館などは、そこで飛沫を飛ばしまくる人はまずいない。
今の「GOTO」があるのなら、「GOTOスポーツ」「GOTOアート」「GOTOカルチャー」があっても良いはずだ。
さて、私はスポーツは、日々のジムでのトレーニング、野球、ゴルフをする。
4,5月にすべて中断したが、6月ころから復活した。
4,5月中は「なわとび」をしていた。
ジムでマシンを使って体が動かせるようになったとき、本当に体中に血が流れている感じがした。
草野球は、コロナ前は「勝ち負け」や自分の成績にもこだわる気持ちがあったが、コロナ後に久しぶりに対外試合をしたとき、本当に野球できることそのものの喜びを実感した。
ただ、試合後の整列の時、にこやかに相手チームの選手に握手を求めに行ったとき、相手チームの選手が戸惑っていた(それでも3人握手してくれた)のが、「ああコロナ下では握手はしないのか。さびしいことだ。」と感じた出来事だったが。
ゴルフは本来人が集まらないので安全なはずだが「自粛」ムードだった。
「誰と誰との、どういう経路での感染を防ぐのか」が分かってきてからは、ゴルフ場は盛況だ。
人が密集しない山、海、大自然の中はそもそも気持ちがいい。
「コロナを避ける」ということは「人の密集を避ける」ことだから、大自然の良さを感じに行く、というのが大正解。
今回は、まとまりのない話になったが、人が生きる上での「栄養」は、一見「不要不急」なように思えるものに沢山ある。
「コロナにかかって死なない」ために生きているのではない。
憲法13条にも幸福を追求する権利とある。
4,5月あらゆるものをストップさせたことによって、かえって、スポーツ、音楽などのありがたみを実感できた。
良い方向に向けていくにはこう考えたらどうだろう?
スポーツにしても、部活などでは、もう「仕事」であるかのように、勝利至上主義的になってしまう状況もあったはずだ。これは、勝負事の場合どうしてもそうなりがちなことである。誰が悪いわけでもない。
けれども、スポーツ本来の機能は、人を健康にすること、人生の喜び・彩りになることだ。
強制的にストップさせられて、その後、練習を再開したときの感動が新しい原点になるのではないか。
音楽・芸術も、どうしても商業主義的な要素に強く影響されて、本来やりたかったことができない状況がもともとあったはずだ。
コロナ下での制限された中での活動、また、苦労して再開したときの活動で感じられた、音楽・芸術本来の喜びのコアな部分。
今は痛手を受けていても再興していくときに、「本質的な喜び」からの再構築ができるのではないか。
音楽・芸術にビジネスが介在することも当然ではあるが、その在り方の再構築によって、もっと多くの人々の心から求めるものが滑らかに行き渡る世の中になるのではないか、と思う。
4,5月は「モノクロ」の世の中だった。
それを経験したからこそスポーツ、音楽、文化の「彩り」の大切さ、その「彩り」の本質を感じられた。
これ活かして、すぐには難しいが、やがてより豊かな「彩り」の世界に、と思う。
以上、今回は、私の大好きなスポーツ、音楽とコロナについて書きました。
それにしても、文化・芸能という分野は、コロナ下で苦しい立場に置かれているのに支援の対象から外れていることは良くない、と思います。
まだそこまで支援の手が回らない、ということかもしれませんが、何か自分にもできることを考えていきたいです。
2020-12-19 20:10
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