蛇足のような説明だが、「少数者の人権(を尊重すること)は少数者のためになるだけではなく、多数者のためになる」というのがタイトルの意味である。
 
 多分私の創作だが、自らの心に刻み続けたい言葉である。

 
 昨日、用があって、神戸元町の大丸周辺を歩いた。

 ルミナリエで、相当な人が出ていた(私の用事はルミナリエとは関係ない)。

 それとともに、県警の雑踏警備がかなり目立つ形で行われていた。警官も、ちゃんと緊張感をもちながら職務をしておられたように見えた。

 雑踏警備を見れば、雑踏事故のことを思う。

 イベントの雑踏事故により命が失われたことがあり、そのとき、被害者の方や弁護団の方が、一生懸命に、将来雑踏事故が起こらないように、ということを訴えられていたことを思い出す。
 
 そのことがあってこそ、今のルミナリエのような手厚い雑踏警備があるのだと思う。

 その時点において、国民多数から見れば、被害者の方は少数。しかし、その少数者の声を聴き、少数者の立場に思いを馳せることは、多数の国民の安心・安全に繋がる。

 自分が今たまたま強者あるいは多数者の側にいるとしても、いつ何時、弱者ないし少数者の立場になるかわからない。
 例えば、今日はピンピンしていても、明日、病気や事故で身体機能が損なわれるかもわからない。
 そんなときでも、そのアンラッキーのダメージが最小になるような社会がいい。

 人ひとりひとりがかけがえのない存在だという前提に立ち、他人の立場を想像する。
 それが私たちのよって立つ法の精神(憲法13条のいう個人の尊厳)である、と思い、日々の仕事を通じてそれに少しでも役立ちたいと思う。

 
 ルミナリエの雑踏警備の方々へ。
 寒い中、職務は大変でしょうが、どうぞ、多数の参加者の生命身体の安全のために、宜しくお願いします。