もうすぐ、関電管内の全原発が停まりますね。

 この記事を読まれている方にも、色んな考え方、立場の方がいらっしゃると思います。

 しかし、それを超えて、ここ何十年か関電管内で原発が一基も動いていないという瞬間はなかったけれど、そういう状態が訪れるということそのものは、特別なことです。もちろん、大地震・原発事故、深刻な被害のせいでこうなったのですから、とても残念なことです。
 
 
 ただ、何事も、頭の中で想像するのと、実際にそうなっているのとは大違いですね。

 「もし原発が停まってしまったら」というのと「現に停まっている」のと。

 「現に停まっている」を前提に、「再び動かすのか」「もう動かさないのか」「できるだけ動かさないのか」を、自分のこととして国民みんなで考えていきたい、という風に思います。

 放射能の問題は、その影響がどこまでか本当のところ分かっていない、というところが重要だと私は思います。
 余りな言葉で危険を煽り立てるような週刊誌の見出しは、「本当に、人の安全という視点で記事を作っているのか?」と逆に疑ってしまいます。
 ですが、綺麗な言葉で「正しく恐れよう」というコピーにも、はっきり言って、色んな人が共存して生きてる中で、仮に「『正しく恐れる』態度はこの態度」というスタイルが存在したとしても、それをあらゆる人に要求するのは現実問題として不可能でしょう、といわざるを得ません。
 私は、「人心を混乱」させているのは、本質的には、放射能の危険をあおる言説などではなく、放射能について本当のところよく分かっていないことが多い、という要素でしょう。

 それが証拠に、いわゆる教養レベルが高いとされている人が、「1msv/年程度の被曝ならば、くよくよせずに、(抵抗力を失わないため)楽天的に暮らしておればよい」という説明を、一応受け容れたとしましょう。「頭」では。
 でも、その人の家族に妊婦や乳児がいたとしたとき、もし、その人に被曝の心配がない地域に引っ越すだけの条件(お金など)が十分にあったら、「1msv/年程度の被曝ならば、くよくよせずに、楽天的に暮らしておればよい、という説明は分かったけれど、やっぱり、気になることは気になるから、引越(疎開)しておこう」となるものではないでしょうか。「心」はそう動いても不思議ではないでしょう。

 そして、本当のところ、上の人の「頭」と「心」のどっちが正しいかは??です。また、被曝量がその人にとって「1msv/年」という前提自体だって、色んな要素が絡まり合い、本当のところ怪しいかも知れません。

 きっと、生きているというのは、放射能問題に限らず、「よく分かっていないこと」の上に成り立っているのだと思います。
 安全か、危険かも。インフルエンザのマスクの効果一つ取ったって、考え方は人それぞれ。
 それに、例えば、私はスキーなど大好きですが、結構危ないスポーツです。
 だから、他のリスクと比べて放射能問題が特別ではない。
 これ自体は、論理的に正しそうです。

 でも、現実に、人は、放射能問題は特別に考えている、それはどういうこと?

 他のリスク要因と比較したとき、放射能リスクは、人の心からして、受け容れられていない、とも言えるのではないか、と思います。
 
 もし、「電気を享受してきたのに、リスクは受け容れないなんておかしいじゃないか」などと理屈で言われても、心が「受け容れない」ものをどうしようもないのではないか、という気がします。

 じゃ、将来、「放射能リスクを、この範囲では受け容れよう」という人々の合意ができるのでしょうか?「えらいさん」の世界での合意ではなく、庶民1人1人というレベルでの合意という意味で。
 私は、難しいと思います。でも、それが無理なら…、という気がします。


 原発問題は、絶対の答えがある問題ではなく、人々が決める問題だと思います。

 が、私としては、

・ もし、仮に日本で事故の危険が1000年に1度(今回の大津波?)の確率である、というのならば、私の一生を仮に80年と見積もっても、「12.5分の1」の確率で国の原発事故による被害に影響される、というのだから、それは受け容れられない。怖がりな?私にとって、この確率は高すぎる。

・ 原発をフル稼働させなければならないほどのスピードでの便利さの追及は、私はいらない。幸せのポイントは、きっと違うところにある、という気がするから。

・ 原発に人が関係する以上、私が避けたいと思う放射能被曝を誰かが(作業する人などが)受け容れている。そのことを、今まで余り気にしなかったけれど、一旦気になってしまったので、もう気にしないことには出来ない。

・ 核廃棄物の処理について道筋がちゃんとできていないのでは?

・ 脱原発で心配なのは、国際的経済競争に対して日本が立ちおくれてしまい、私たちの周りが貧しくなり、幸せでなくなること。でも、この言説は本当?仮に、当たっている部分があるとしても、これはより本質的には「脱原発」だけでそうなるというものではないのでは?もっと大きな要素によって決まる部分が大きい問題では?

・ そもそも原発は安いのか?(今の時点で見積もって)

という風に今のところ思い、「脱原発」を望むし、きっと、スピードはどうなるにせよ日本はその方向に向かうだろうと思います。そのスピードが、次なる原発事故よりも速くあるように、と思います。
 
 私は、科学の歩みそのものは愛しています。純粋にわくわくする気持ちもあります。だから、核「融合」炉(今の原子炉よりも遙かに大きなエネルギーを生む可能性がある。但し、制御がもっと難しい。)だって、現実のものになったらいいなあ、という気持ちもあります。
 なので、それへの歩みも続けて欲しいと思っています。
 でも、1人1回しかない人生(命)との優先順位は間違ってはいけません。
 だから、危険のない範囲で、その歩みをすすめていってほしい。大学の実験炉等で、絶対周囲に危険が及ばない範囲でやってほしいです。実用化まで何百年かかってもいいですから。

 結局、イケイケドンドンの時代ははっきり終わり、これからは、もっと丁寧に、人の命や心と寄り添いながら色んなことを進めていく時代に入っていかなければならないのでしょう。(本当は、そのことを、私も含めこの国の割と多くの人が、心では大分前から感じていたのでは?)

 というようなことを、「原発が停まる」ニュースに思います。