いじめ自殺問題などもあり、教育はこのままでいいのか、どうすればいいのか、ニュースにもなっている。
教育基本法改正についてどう思いますか?
「良くなるか悪くなるかわからんけどさぁ、今のままじゃダメだろうだからさぁ、とりあえず変えてみたら?」という人もいるだろう。だが、
この問題だけはそれは出来ない。
後戻りできないんだ。
なぜなら、自由にものが言える、自由にものを考えることができる社会が徐々に殺された挙句には、もう、
「あの改革は間違っていたから、やり直そう」
ということすらできなくなるからなんだ。
教育の場で、各先生が自分の良心に従ってほんとうのことを子どもに教えられて、また、子ども達も自分の頭で物事を考えるだけの力を身につけ、自主的な精神が養われれば、
「この国のあり方を、自分達の頭で考えて決める」
そういう社会が生き残っていくだろう。
だが…。
1 今回の「改正」案は、愛国心をはじめ、いわゆる「徳目」を上から押し付けすぎている。
2 そして、「個人の尊重」が一番大切なはずなのに、それと「公共の精神」がまるで同列か、あるいは、「公共」の方が上かのように規定されようとしている。
3 さらに、教育の内容にまで国がどんどん介入できるような規定になっている。
何かがヘンだ。
上の1,2,3をそれぞれ見ても、「何があかんの?」という人もいるかもしれない。
でも、上の1,2,3全部足したとき、そして、教員の免許更新制や学校間でも競争を…というのをあわせたとき、
権力が言うことに従わない教師は生かさない
国が決めた一定方向の教育を徹底する
ということが、杞憂ではなく、現実の危険性になるのだ。
中国で国家による反日教育が行われているということを耳にする。
それがどこまで真実かはさておいて、そんなことを聞けば、
「もし本当なら,そんな一方向の、自由のない押し付け教育はおかしいよなぁ。教育の自由や表現の自由のない国って嫌だなぁ。」と思うのが普通だろう。
さらに言えば、北朝鮮は,紛れもなく押しつけ国家の最たるものだろう。
不幸なことに、戦前の日本もそうなってしまった。挙句の果てに、小学生で終戦を迎えたうちの事務所のボスによると、最後は、学校はみな「修身」か「労働」だけになってしまったらしい。(ボス曰く「算数や国語、理科などが学べるだけ今の子どもは幸せなものだ。」と)
基本法が変わった次の日からそうなるわけはない。だが、徐々にそちらへ近づくことは間違いない。イヤではないか?
私は、基本的な自由のもとで、私たち自身の「芽」を育て、社会が間違った方向にいこうとしても自分達の頭で考えてそれを正してくれる「たのもしい、かしこい子どもたち」を育てる教育が死ぬのが一番いやだ。
そうなったら、誰もおかしいことをおかしいと言えなくなるから、国の末期症状になる(今、北朝鮮を見ていれば本当に感じる。が、あの国だって、さすがに朝鮮停戦の最初からああではなかったはずだ。教育も歪められているのだ。)
いじめがある、犯罪がある。だから「公共ルールを」「規範を」それ自体は異論ない。
だが、出発点は、個人の尊重でなければならない。
「個人」と言っても、ツンケン・自分勝手のことではない。
「ひとりひとりをかけがえのない存在として大切にすること」
「ひとりひとり」は自分だけではない。他者もだ。おともだちも、見知らぬ人も、日本人も、外国人も、男も女も、強者も弱者も、かけがえのないオンリーワンだ。
そうやって、他人ひとりひとりへのイマジネーションを大切に育ててやれば、公共ルールや規範だって、上からの「押し付け」ではなくもっと納得して身につけられるはずだ。
また、「自由」の意味を、色んな実践を通して、自由を自分や他者の幸せのために「生かす」ためにはどうすればいいかをしっかり学ばせることが出来れば、「自由のはきちがえ」も克服にむかう。
「規範」をただただ盲目的に守るだけではなく、自分で自分のあり方をコントロールする「自律」できる子どもを育てることに真剣に取り組まなければならない。
もちろん、「軍隊式」のようにスッキリと簡単に秩序が保たれはしないだろう。
だが、自由のなかで自分の心と戦い現実と戦い、自分のあり方を見出していくことこそ、本当の意味で、その子の将来に繋がるはずではないか。(灘,関学や神戸女学院,甲南女子…神戸の私学に多い自由な校風だって、ただの放任ではなくて、狙いはそういうものだと思う。自由を「生かす」ことに気づくのは、大人になって、ずっと後かもしれないが。それでもいいじゃないか。誰でも、一生学び続けるものじゃないか。)
今の教育基本法は、「かけがえのないひとりひとり」から出発して、自分でものを考え、「自律」する(自分で自分の行動をちゃんとコントロールする)力を育てよう、と謳っている。
安直に「上からルールを押し付けよう」ではなくて、もういちど「かけがえのないひとりひとり」を大切に出来ているか、そこから「自主」「自律」の力を育てることが出来ているか、それを考えてみよう。
「押し付け」より時間も労力もかかるだろうが、だが、それに真正面から向かうことこそホンモノだ。
ともかく、ひとりひとりをまず大切にしようじゃないか(だが甘やかすこととは違う)。自分がかけがえのないものだ、大切にされているという実感のある人間は、そう滅多に無茶なことはしないはずだ。だが、そういう実感のない人間は?
それなのに、教育基本法「改正」案は、上からビシッとやることばかりを強調して、方向性を間違っていると思う。
そして、「愛国心」などを基本法にまで書いて、強調しすぎるのは危険だ。なぜならそういう抽象的な言葉の中身は、どうしても権力が都合のいいものを押し付けることが多いからだ。
楽天的な私でも、こういうことには敏感にならざるを得ない。
「自由が生きる社会」の範囲でなら改革は積極的でいいし時に間違ってもいいが、「自由を封じる」方向への動きは後戻りできない。
だから、これだけは反対だ。
(補足) 実際の子どもへの対応の場面において,たとえば,ルールやマナーという「かたち」から入るということ自体は,私はいけないとは思わないし,むしろ,小さいうちなどは必要なことでもあるように思う。 私自身も子どもに対してやっていることだ。 だが,それは,子どもひとりひとりを見た上でその方法が一番いいとおもったときに取る手段の一つだ。 つまり,子どもを前にして,教師や親が,その子にとって何が真に必要かを考えて,判断して行うべきことだ。 だから,国や教育長にそのとおりしなさいと言われてやるようなことではない。でも,基本法に「徳目」ばかり書いてしまうと,そんな風に「天下り式」になってしまい,ただ上からの指示を守ることに意識が集中して,肝心の子どもが置き去りにされるだろう。 教育基本法は,教育の憲法とも言われ,具体的「手段」をあれこれ言う法律ではなくて,理念や目的を定める法律だ。 「手段」としての「かたち」重視は方法論的にはアリとしても,それを理念や目的を歌う基本法の問題にまぜこぜにしてはだめだ。 そんなことをすると,一番大事なものが分からなくなる,狂ってくる,と思うのだ。 |