タイトルに書いたとおりですが、痴漢えん罪事件が多くある根本は、これまで、多くの裁判所、裁判官に「わからないことはわからないという勇気」がなかった、ということに尽きます。

 もちろん「被告人が痴漢をおかしたかどうか、わからない」と正直に言う勇気です。わからないことは、正直に、わからないと言うべきだ、ということです。

 裁判所、裁判官は、当然責任感から来るものですが「物事をハッキリ白黒つけなければならない」という思いを持っています。それを期待されているわけですし。こういう責任感はもちろん必要なことではあります。

 しかし、日本国憲法、刑事訴訟法は、「わからないことでも、無理矢理白黒ハッキリつけなさい」とは書いていません。

 痴漢という犯罪が卑劣で許すまじものであることは、当たり前のことです。ただ、そのことと、確たる証拠もないのに「多分この人やったのではないかなあ」というレベルで、疑問も残るのに、無理に「有罪」判決を出さなければならないということとは全然別問題です。

 刑訴法の立場は次の通りです。これは、たった1人のえん罪も生まないためにそうするものです。(あなたが、濡れ衣を着せられる立場になったらたまらない、ということを想像してもらえれば、刑訴法の立場に多くの人は賛成するでしょう。)

 「犯罪行為があったかどうか 合理的疑いが残らない 程度に証明された」 ならば有罪であって、そうでなければすべて無罪

です。

 つまり、証拠から見て、

A  この人がある犯罪を犯したに違いないと確信できる状態                 → 有罪

B  この人がある犯罪を犯した可能性も多分にあるけれど、確信はできない。疑いもある。→ 無罪
  (「よくわからない」ところがある、ということです。)


C  この人がある犯罪を犯した可能性もあるが、可能性は低い。               → 無罪
 
D  この人は間違いなくやっていない。                              → 無罪

と、こういうことです。
 今までは、痴漢事件などでは、Bの部分について、「よくわからない」ところが残っていることに目をつぶって「有罪」が出されていた傾向があった、と私も思います。
 最高裁の今回の判決が、上のABCDのように、本来の刑訴法の立場、「疑わしきは罰せず(被告人の利益に)」に忠実な司法を取り戻すきっかけになることを期待します。




(以下に、今日のニュース引用)

 痴漢事件 最高裁初の逆転無罪 「司法への不信ぬぐえた」
産経新聞(04月15日03時22分)