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友チョコ [息抜き!?]

 今日は、セント・バレンタインデーですね。

 昔は、バレンタインデーといえば、女の子が、手作りのチョコを、決死の覚悟で、意中の男の子に渡す日だと、そういうイメージで私は思っていました。

 私の方も、バレンタインデーといえば、2月14日から15日まで日付が変わるまではバレンタインデーなので、最後の最後まで希望を捨てずに、「起こるべき何か」を待っていたものです。

 が、そんなイメージは昭和っぽいのでしょうか。


 最近は、「友チョコ」なるものがあり、「義理チョコ」とはまた違って、

同性同士でも友達のしるしとして渡す

というようなことがあって、随分、バレンタインデーもまったりした感じになっているようです。

 
 バレンタインデーのほうは、「競争社会」から「成熟社会」になってきた、ということなのでしょうか。
 
 あるいは、何かにかこつけて、単に「チョコ」が食べたい(あげたら、きっと戻ってもくるし)だけ?


 いずれにせよ、皆様、ハッピー・バレンタイン!!

色んな人の、色んな夏にエールを~夏の甲子園終わる~ [息抜き!?]

 夏の高校野球も終わると、秋が近く、夏もそろそろ終りという感じがしますね。

 午前中に終わった高校野球の決勝戦というのも新鮮でした。

 優勝した日大三高の強力打線、見事でした。あんなに破壊力抜群の強さを身につける、その過程はどんなものだったのでしょう。

 光星学園の準優勝、地元兵庫の東洋大姫路の活躍や、八幡商業が帝京相手に土壇場で満塁ホームランで逆転した試合などなど、実に見どころ満載でした。(もっとも、最近は、負けた側に注目がいくようになって、例えば、帝京の投手などは、それはそれは今回の経験が貴重な経験になって更に力を伸ばすことになるんじゃないか、そうなって欲しい、などなど。)

 (お盆の間などは特に)川上ジュリアさんの歌を日に何回も聴いたので、耳にこびりついて、今も頭をまわっています。

 甲子園に出た球児たちは、まさに、表舞台、今一番陽に当たる舞台に立っていた、そういう夏だったわけです。


 が、色んな人の色んな夏があります。

 甲子園の球児のような表舞台ではないのですが、たとえば、野球をするにしても、いつか甲子園に出ることを夢見て、一生懸命に練習に励んでいる選手たちが、その何千倍?もいるわけです。

 また、どうしても、日本では野球が花形ですが、他のスポーツ、文化、芸能、色んな分野で、夏休みにしかできない取り組み、練習、修行をしている人がたくさんいるわけです。

 受験生も夏休みが大きな勝負所。毎日、何時間も勉強するのは大変でしょう。
 
 自分のやりたいことに向かって、力をつける、その絶好の機会が、夏休み期間ですね。
 そういう夏を過ごせる人は幸せです。
 
 でも、人それぞれ色んな状況があり、生活基盤が失われたままだったり、病気や怪我と闘っていたり、そういう夏を過ごしている人もいることでしょう。
 それでも、明日への希望、自分の思い描く「夏」が過ごせる日への希望に向かって、一歩でも進んでいたら、と思います。


 私が弁護士業をする意義というのを思うとき、人の憂いを出来るだけ取り除き、又は緩和して、たとえば高校球児たちのように、それぞれに「貴重な夏」を人々が心置きなく過ごせるようにするサポート、ということなのだろうと思います。

 というのは、正直言うと、私は、甲子園の派手さ、球児たちの陽の当たりっぷりがうらやましいのです。うらやましくて仕方ないのです(未だに)。
 そして、それに比べ、私の日々していることは、(大部分の人が同じですが、)例えば机に座っての仕事であったりするわけで、もちろん地味なのです。
 正直、昔は、その地味さに耐えるのが限界で、いつもギリギリ耐えているという感覚でした。
 そんな性格で仕事が勤まるのか、と思いました。
 が、弁護士になるときに、「例えば人がお祭りで笑っていられるような条件を整える」ことに喜びを見出せば、やっていけるだろう、と考えたのでした。

 その原点をこれからも。でやっていきたいと改めて思いました。

総選挙の終りに思います。 [息抜き!?]

 
 私も、ちらちらとニュース等に接していましたが、AKBの選挙結果が発表されたそうです。

 一位になった前田敦子さんという人は、さすがに、感じが良くて可愛らしいと思います。
 が、私も歳を取ったということなのか、他の人を見ても、感じが良くて可愛らしいように見えます。

 ともかくも、ファンの間、あるいは、投票権を持つ人の間では、とても盛り上がったそうです。
 知り合いに、「私にも投票権ってあるの?」と聞いたところ、「CDとかを買ったら、投票権がもらえるのですよ。」と教えられました。
 なんでも、応援したい女の子に何票も投票するため、CDを何枚も買う人もいるとか。
 すごいものです。

 
 しかし、思えば、投票行動というのは、それに関われば確かにわくわくしたり、主体的にモノを考えたり、興味を深くすることができます。

 思い出すのは、子どもの頃、プロ野球オールスターファン投票に、はじめて、ハガキで応募したときのこと。

 小学3年生くらいの時、「野球百科」みたいな子ども向けの本を読んでいて、オールスターファン投票は誰でも出来る、子どもでもできる、ハガキを所定の宛先に送ればよい、というのを見て、次の春が来たときに、一生懸命書いて出したのです。

 私は、めったに球場にいくことはないので、球場での投票というのは機会がないと思っていたので、ハガキで出せることを知って、大いに喜んでいたのです。

 私は、実に一生懸命考えました。
 半日は優につぶしました。

 ハガキに、鉛筆で何度も書いては消しての繰り返しでした。

 阪神ファンである自分がいます。

 でも、そもそも野球が好きなので、他球団でも優れた選手はちゃんと見極めていたい、という自分がいます。

 そして、ハガキの中に、「セ・パ 9ポジションずつ」として計18人を要領よく書くレイアウト能力が欠けている自分と(好きな選手1人だけでも投票できるのだと思いますが、せっかくだから全部出したかった)。

 「セ 3塁手 掛布雅之」だけはすぐに書けました。
 しかし、その上下の欄を書いたり、消したり。「篠塚は嫌いな巨人だけど、考えてみると、味があるなぁ。やっぱ、セカンドは」とか。
 
 よく考えてみると、パリーグの選手を余り知らないな、と思うと、新聞を何日分か引っ張り出してきて、「近鉄の大石って良い選手だなあ」などとつくづく感心してみたり。

 ということは覚えているのですが、果たして、グチャグチャに書いたハガキを本当に投函したのかどうか、それはよく覚えていません。
 

 とまあ、こういうわけで、「選挙」「投票」は一大イベントであり、お金がかかることでもありますが、普段と違って、じっくり考えるきっかけになり得るわけです。
 うまくすれば。

 それなので、確かに、「新空港を作るか」とか、「原発をどうするか」といった事柄については、直接民主制的制度(つまり住民投票)を積極的に活用するのも意義があるだろう、と改めて思いました。
 そのとき、その時点での多くの人の投票行動そのものが正しいかどうかは分からないのですが、多くの人が真剣に考えるきっかけを与えるということそのものにも大いに意味がありますね。
 もちろん、「選ばれた代議員によってじっくり議論する」(間接民主制)の良さも活かし、直接の住民投票の良さも活かし、良いところをミックスしてやっていくべきものでしょうけど。

 

  

灘校文化祭 [息抜き!?]

 5月3日に、おそらく18年ぶりくらいに、灘校(灘中学校、灘高校)の文化祭に行ってきました。

 その内容のバラエティ豊かさに改めて感心するとともに、私の在学中と違って、小学生と親子連れの多いこと、人気のコーナー(「砂金掘り」「科学マジック」「占い」など)には行列が出来ていることに驚いたりしました。

 そして、そんなことより何より、やはり、自分が、高校生時代を過ごした場所に行ってみたことが、自分の忘れていた気持ちや感覚を呼び覚ましてくれた部分があります。

 端的に言うと、元気をもらった、と。

 先生があれやこれや余計なことを言わず、生徒個人個人の内なるエネルギーを大切にする校風が健在であることが、わかりました。

 文化祭の各コーナーで活発に活動していた灘校生の、活動性、創意工夫、それから、(世間から見ればやや意外かも知れないが)サービス精神に溢れる姿は、実に頼もしいと思いました。(それと忘れてはならないのが、文化祭で表に出てこない生徒にも、たまたまそのとき気乗りがしなかっただけで、実は、潜在的にはエネルギーを秘めている生徒がたくさんいる、ということ。)

 そして、例えば、図書部のコーナーには、震災に関する本の紹介や、部員が、大震災について考えることなどを書いた掲示などもありました。
 私も、なるほどと考えさせられるものがありました。

 大震災があって、原発事故は続いている。
 これからの社会は、直接的にはエネルギー問題をめぐって、もっと深くは、「人が何を追い求めて生きるか」そのものに近い問題について、根本的に考え直し、やっていかなければならないのは間違いありません。

 今ほど、知恵が求められている時代はないでしょう。

 時代は変わり、学歴競争がそのまま人生の勝ち負けとは限らない時代になり、そして、大震災・原発事故があり、このような時代の中で、(このような見事な文化祭をつくりあげられる力を持った)灘校生やOBが、自分たちの持っている活力と知性を、校是である「精力善用」「自他共栄」の精神で活かしていくことに物凄く意味があるはずだ、と思いました。

 たとえば、

原発のない社会で、人間らしく、健康で文化的な生活を送りたい

という多くの人々の希望を実現するのに、色んな知恵がいるのは間違いありません。

 が、知恵を尽くせばやがて出来ることも間違いないと思います。


 こういうことのために自分の知恵を使うことは、きっと、家族や先生方をはじめ周りの人々の協力の御陰で、

とても自由で居心地良く、自分の興味のあることに心のままに打ち込める、最高の環境で学ぶことが出来たことに対する恩返し

ということだと思います。

 もちろん、灘が特別というわけではなく、それぞれの学校(母校)に、それぞれの特徴があり、それぞれに最高の環境であるに違いありません。(上記の「灘」の特色は、大きな長所を生みますが、反面短所もある。)
 そしてそれぞれ違った特色のある知恵、特色のあるエネルギーを持ち寄り、補い合えば良いのです。

 私も、元気をもらいました。
 そして、最近はとにかく、日々否応なくやらねばならないことに追われる傾向が強かったですが、自分の願う社会に近づくために、できるだけ創造的に自分らしく力を発揮していきたい、という気持ちを呼び覚ましてもらった気がします。

 今ずっと考えているテーマは、要するに価値観の転換、であって、ちょっと簡単には書くことが難しいので、ブログ更新も滞っていたし、自分の日々の活動も自分の思いにぴったりすることが見つけづらく滞っていたのですが、「一歩一歩前に」「少しでも形に」という意を持って、これから、仕事そのものの中で、ブログで、発信していきたいと思います。

2012/10/19追記
 この記事は震災の被害が余りに大きく、また、その中でも、原発による被害の先が見えない状況の中書いたものです。
 なので、「脱原発」に引きつけた文章になっています。
 私の考えは、研究の意味で原発研究は継続すればいいが、実用レベルの大規模な原発に関しては一旦廃止方向で考えるしかないのではないか、というものです。
 ですが、灘校文化祭を取り上げたこの記事を、私の原発政策についての主義主張の助けにする、というのは本意ではありません。(そのように受け取られかねない表現なので、あえて、追記をしました。)

 原発をどうするか?という問題について、色んな考え方があり、もちろん、「脱原発」方向ではない考えの人も、それぞれに真剣に日本の将来や、国民の幸福、安全を考えておられるものと思います。
 例えば、灘校生や灘校OBの方が、「脱原発」方向でも、あるいは、原発を維持していく立場であっても、また、原発政策や原発の技術に関わる立場にあっても(あるいはそうでなくても)、それぞれに、灘校の校是である「精力善用」「自他共栄」の精神で、知恵を絞って、そして、人ひとりひとりへの愛情をもって、将来の在り方を創っていって欲しい、と願っています。

 

囲碁のすすめ [息抜き!?]

 私は、去年から、30過ぎの手習いで、囲碁をはじめました。

 やりはじめて約1年半、週1回、先生に指導碁をしてもらったりしながら、ようやく初対面の人とも、初段を名乗って打って遜色ないくらいになれた感じです。
 
 ところが、しかし、ちょっと街の碁会所に出かけても、そこに居る人たちの多くは、高段者(4段とか5段とか、それ以上とか)なので、恐れ入ります。

 囲碁の内容に関わることは、書き出すときりがないし、囲碁をしない人には分からない話になってしまうのでちょっと横に置きます。

 とりあえず、やって良かったな、というのは、何より

老若男女問わず色んな人と関われる 特に年齢差のある人でも、親しみを感じられるようになる 

ということです。

 囲碁そのものをいくら勉強しても、それ自体は、私の仕事そのものの足しには直接にはならず、むしろ、余り熱心過ぎると「囲碁にうつつを抜かしている」ということになろうかと思います。
 
 が、全く別の意味で、仕事に役に立っています。

 それは、特に、年齢差がある、つまり、私より相当高齢の方の相談や依頼を受けて話をするときに、その相手のことを親しい存在として見ることが自然に出来るようになった、ということです。

 私にとって、仕事以外で、触れあうのは、

碁をこよなく愛するおじいちゃん

のような人が増えました。

 その御陰で、仕事でであう相談者の方を見ても、

「碁が好きなおじいちゃん」みたいな感じの人

このおじいちゃん(おばあちゃん)も、もしかしたら、碁が好きな人かも知れないな

という感じで、自然と親しみを感じることが多くなりました。

 これまでは、私は、「親身に話を聞かねばならない」という職業倫理のようなものを意識していたと思うのですが、そういうことを意識せずとも、「できるだけ親身になろう」という気持ちに自然になりやすくなったということは、仕事する上でも実に楽なことなのです。

 世代など関係なく人と接すると言っても、やっぱり、自分が日頃接する機会の多い年代の人については共感しやすく、そうでなければ難しいところは誰でもあると思います。
 性別だって、それで、つきあいの幅が分かれてしまうところもあるでしょう。

 ところが、そういう垣根をある程度取っ払ってくれたツールが、私にとっての囲碁。

 高齢の方だけでなく、10年ほどまえからは、アニメ「ヒカルの碁」の影響もあり、碁を打つ子どもが相当増えています。
 今20歳前後の若い方は、「第1次ヒカル世代」で、たくさん碁を打たれる人がいます。
 なので、そういう若い人ともふれあえます。

 今年は、

小学生の女の子にコテンパンにやっつけられたことが何度もあり(こっちがハンデをもらってもコテンパンですから。リベンジするのが来年の目標)、 高段者のおじいさんに「なかなか良い碁を打たれるようになりましたな。」と褒められたこともまれにあり(ハンデなしで打てるようになるのが来年の目標)、 週1回教わる師匠にはいつも丁寧に指導して頂いて(師匠の指導の懇切さに、私は自分の仕事での在り方を顧みること多々あり)、色んなものを得た感じがあります。

 老若男女楽しめる囲碁は、人との距離を近づけるツールとして、オススメです。

 人に優しくしよう!と意気込むのではなく、「優しくなれる」ということに繋がる財産、とでもいうのでしょうか。そんなものが得られる気がします。

 とはいえ、対局中は、一杯「いじわる」を応酬しあうのですが。それで、私はすぐ顔に出る(「なんてことをしやがる」という顔など)のが悪い癖であったりするのですが。
 それも、盤を挟んだ人間模様、という味わい、ということで・・・。 

明日できる喧嘩は今日するな [息抜き!?]

 今朝午前2時までサッカー観戦で寝不足の方、お疲れ様です。私もです。
 
 今日のタイトルは、そういう人向けであり、かつ、何か今日の生活の中で「イラッ」とする場面を迎えた場合に備えての言葉。
 というより、私向け、かもしれません。

 私は、元々、喧嘩っ早い面もあるのですが、今日は、特に、喧嘩は避けよう、と思います。

 多分、喧嘩になりそうなとき、今日は相手も寝不足でしょうから、いったん喧嘩になると無用に拡大しかねない。

 なので、ともかくも、今日はこれでいこう、と思います。

 しかし、仕事の性質上、常に、いつ、それを許してくれない場面が来るかも知れない、というのが辛いところではありますが、「モノ言わねばならぬ時」でも出来るだけ喧嘩にならないように(普段以上に)気をつけよう、と思います。

つい7年ほど前のころのこと~裁判官の「お説」を思う [息抜き!?]

 自己破産事件というのは、ここ10年ほどはとても多い数になっている。

 いわゆるバブルがはじけた平成2,3年ころの後、すぐに自己破産事件が急増したわけではなく、みな不景気の中で耐えに耐えてがんばってきたが、平成7年の阪神大震災もあり、平成10年頃からは非常に多い数になった。

 昔は、主婦やサラリーマンの自己破産事件での裁判所の対応も厳格というか丁寧というか、大層なものであった。
 書類から見て明らかに自己破産であることは間違いなくても、「破産決定のための審尋」(この人は支払出来ない状態です、と裁判所が宣言するための面接のようなもの)と、「免責決定のための審尋」(「この人は、仕方がないから、とりあえず借金を返さなくて良いことにしてあげよう」と裁判所が決定するための面接のようなもの)との2回、破産する人は裁判所で裁判官と1対1で面接しなければならなかった。

 それが、やがて、そんなことをしていたら処理しきれないくらいの破産事件の数になって、書面から明らかなものは、面接は1回で、それも集団でやるようになった。
 これが大体5~7年前ころのことか。
 今は、その面接もなく、結局、書類からして明らかな簡単な破産事件は、破産者が裁判所に直接赴くこともなく終わる。書類から見て裁判所が突っ込みどころがある事件だけ、破産する人は呼び出される、という仕組みになっている裁判所が多い。

 今日は、ちょっと息抜きに、ここ10年くらいの中での昔の話をしてみたい。

 まず、8~9年くらい前、私が弁護士になったばかりのこと、このころは、自己破産事件でも、裁判官自らがとても時間を掛けて、懇切丁寧に、あるいはとても大層に、事件を扱っていたこともあった。
 裁判官と破産者(一般の消費者)の面談が1時間を超え、「ふだんの食材はどこで買っているの?」「まさかあなたの収入で、イ○リスーパーで買っているの?」とか、そんなことまでやるか?というくらいの丁寧さで、事件が処理されていたことがあった。
 私は代理人として付き添っていて、正直もう勘弁して下さいよ、と思っていたが、今思えば、時代を感じさせる出来事かもしれない。

 7~5年前ころ、「集団面接」になったころはもっと味のある場面があった。
 破産を申し立てた人が集団で、一室に集まり、裁判官と面接する。
 面接と言っても、1人1人に声を掛けるわけではなく、裁判官が書類の山を指さして、「みなさんの事情は、ここに書いてある書類にあるとおりですね?違っている人がいたら手を挙げて下さい。」と言うが、だれも手を挙げない。
 裁判官は、「では、書類の通りということを前提に裁判所が判断をします。」と言い、面接の本旨は終り。
 このころ、私は、つい数年前の面接と比べて実に合理化された、と思ってとても嬉しかった。
 しかし、味があるのはこの後である。
 裁判官は、このような「形ばかり」の手続きで終わってしまうのに、やはり皆、物足りない気持ち、又は、若干の後ろめたさ(裁判官らしい生真面目さからくるものと思われる)があるようで、この後に、各裁判官なりの「お説」があることが多かった。
 私は密かにこの「お説」は楽しみにしていた。
 ある裁判官の、破産者への「お説」はこう。

「みなさん、今後は収入と支出をしっかり見直して、自分で管理して下さい。小泉改革が進められていますが、小泉改革で国民生活が良くなるわけではありません。あなた方1人1人の収支が改善されるなんてことはありません。自分で収支管理ができなければ、また同じように借金を作ることになりますから、宜しくお願いします。」

 また、ある裁判官は、
「みなさんは、収入に見合った支出になるように心がけて下さい。この間テレビを何気なくつけたら、芸能人が一ヶ月で○円で生活するという番組をやっていました。私なんか、感心してしまいました。やっぱり工夫すれば節約だって出来ます。今まで使っていなかった頭をちょっと働かせることで、みなさんの家計も変わるかもしれません。そんなに簡単に変わらないにしても、借金する前に、ちょっと頭を働かせて、改善できることがないか、そういう心がけが大事です。」

 こんな感じである。
 前者の例など、国家公務員たる裁判官が、ときの首相である小泉氏の改革で国民生活がよくならない、なんて言っていいのか?と思ったけれど、しかし、その裁判官なりにその人個人のものの見方で真面目に集まった人に語りかけている姿などは、実に味のある光景だった。
  
 
 裁判官の「お説」は、刑事事件でも、判決言い渡しの後に時々ある。
 一つの見方としては、裁判官が上から目線で民に語りかける、ということで「えらそう」な態度というきらいもある、とはおもう。だいたい、「お説」には手続法の根拠が何一つない。まったくの「雑談」である。
 でも、司法の世界には、刑事訴訟法にも民事訴訟法にも破産法にも根拠が存在しない、裁判官の「お説」というものがある(というか自然に出てくる)くらいの「遊び」の部分があるほうが味があってよいのではないかな、という気もする。
 私なんかは、逆に、つい「お説」をぶってしまう裁判官の姿に、ああ、裁判官も自分たちと同じ人間なんだなあ、という風な親近感を覚えてしまったりするから。

井伊直弼のたてた茶を、「うまい」といった篤姫は [息抜き!?]

 とてつもなくすごい、のではないか、と思った。

 先々週のNHK大河ドラマ「篤姫」。

 幕末、大老井伊直弼が反対派を次々粛正する「安政の大獄」。
 水戸藩・薩摩藩の者が多く捉えられ、情け容赦なく処罰された。

 篤姫は薩摩出身であることもさることながら、井伊の問答無用のやり方に腹を立てていた。
 篤姫はたまりかねて、井伊と「差し」で話し合う。

 その席上、井伊が篤姫に茶を点てて差し出し、これを篤姫が飲んだ。

 篤姫は、「悔しいが・・・」と前置きののち、「これほどおいしい茶を飲んだことがない」と井伊の茶を褒める。
 この篤姫の裏表のないところが井伊の心をも揺るがすのだが、私もこれはすごいことだ、と思った。

 これはとてつもなくすごい。

 嫌いな相手がやることでも、「坊主にくけりゃ袈裟までにくい」とはせず、なるべく「やったことそのもの」を率直にみて良し悪しを考えたい、とは常日頃私が思っていることだ。
 自民党がすることでも共産党がすることでも、良いことは良いのだし、悪いことは悪いのだ、ということである。

 だが、篤姫のお話は、ドラマゆえであろうが、すごい。
 「お茶の味」を点てた人間が分かっていながら、点てた人間へのその時点での評価と切り離して評価した、というところがすごい。
 そんなことは確かに常人にはまずできないのではないか、と思う。
 
 「味覚」であるから。
 一つの感覚であるから、飲むときの精神状態等々と完全に分離不可能だからである。

 単純な話しが、井伊直弼は嫌いであるが、井伊はとてつもなく足が速い、というのであれば、井伊が100mを9秒台で走るのを見て「すごい」と評価することは可能であろうし、だれも異存がない。

 対して、お茶の味を評価できる、これはすごい。
 私が普通に思うところでは、美味しい等の「快」の感覚を得ようとすれば、対象物に対して、「開かれた」心持ちがなくては、「快」の感覚をえることは難しいだろう。
 
 ということは、篤姫は、忌み嫌う井伊と対面しながら、井伊の点てた「茶」に対してはかなりの度合い「心を開いて」、すなわち「味わう心の準備をして」飲んだ、ということであろう。
 井伊は悪いが、茶には何の罪もない、という心境で臨んだ、ということか。

 生きている中で、色んな意味で、人を「色づけ」したり、先入観で見たりする。
 そういう「色眼鏡」「先入観」は、確かに、色んな意味で便利だし、省エネにもなる。
 だからそれなりに必要なものではある。
 でも、反面、「見えにくいが本当は良いもの」がそこにあっても、見えなくしてしまうのが「色眼鏡」や「先入観」。
 篤姫とまでいかずとも、自分を出来るだけ元気な状態にして、出来るだけ、「裸眼」で人を見て、地位や見かけで判断するのではなくて、その人の持っている良いところ、その人の言うことに理があるか、そういったところを素直に見ていければ、より心豊かに生きられる、そんな風に思った。 

 ときに、「色眼鏡」と言っても、最近はサングラスにも色んな種類のものがある。
 私が今年買って愛用するのも「偏光レンズ」のサングラス。光の乱反射を防ぎ、対象物がくっきり見える。たとえば、水中の魚などは、サングラスをかけたほうがよく見えるくらいだ。
 実は(悪者のように言われる)「色眼鏡」のほうも、必要なものをしっかり見るように進化しているらしい。
 
 要は、物を見よう、感じよう、人の話を聞こうとする姿勢。
 同時に、そのうえで、そこで得た情報なり考えを、ちゃんと自分の頭で考えて、自分なりに処理していく、これが大事だと思う。
 
 

おおタカラヅカ!~星組 スカーレット・ピンパーネル [息抜き!?]



 タカラヅカみてきました。

 この演目すばらしい。ユーモアあり、ワクワクするストーリーで、感動の結末・・・

 まだこれから公演を見に行く人のために、ネタバレ記事は書きません。

 しかし、よかったー。

 タカラヅカ見るなら、この演目は超おすすめです。


 時代は、フランス革命のまっただ中。
 1789年の革命によって、人民のための政治が実現するかに見えた。
 が、革命指導者ロベス・ピエールら率いるジャコバン党は、革命後の外圧などの混乱の中、貴族らを次々と断頭台荷送り、粛正を厳しくし、しだいに恐怖政治を敷くようになる。
 そんな中、無実の命を救うべく活躍する謎のスカーレット・ピンパーネル!!

 
 この時代・・・
 例え、どんなすばらしい理想を掲げて革命を成し遂げようとも、権力を握ると権力を維持するための事情が出てくる。
 フランス革命のロベス・ピエールも同じ。
 まだ「人民の立場から、権力を縛るシステム」が確立されていなかった時代、人民のための革命政府さえも人民を抑圧したのだ・・・

 ということで、個人個人の幸福を実現するためには、「権力を縛るシステム」がいかに必要なものか、よく分かります。
 そしてこの「権力を縛るシステム」こそが、近代~の憲法に課せられた役割であったわけです。
 そう、この「権力を縛るシステム」として憲法をつくり、権力者といえどもこれはやっちゃいけないよ、という約束、これこそが「立憲主義」。
 日本国憲法の役割の最も重要な点も、この「立憲主義」なのです。
 
 「立憲主義」。
 コイツのせいで、スカーレット・ピンパーネルのような怪傑が活躍する場がなくなった・・・じゃなくて、コイツのおかげで、スカーレット・ピンパーネルのような怪傑がいなくても、無理無体に人が権力者の都合で殺されるというような目に遭わずに済むようになったのだ・・・
 
 ・・・なーんてことを、この演目を見ながら考えている人は珍しいだろう、ヘンな人だろう、とか思いつつ、私のタカラヅカ観劇は、感激とともに幕を閉じたのでした。

マリオカートが面白いわけ [息抜き!?]

 
マリオカートWii(「Wiiハンドル」×1同梱)

マリオカートWii(「Wiiハンドル」×1同梱)

  • 出版社/メーカー: 任天堂
  • メディア: Video Game



 
 大人も子どももハンドルを握ると熱くなる!

 家庭用ゲーム機wiiで発売されているこのゲームは面白い。私も、このゲームをやり出すと熱くなる。私が中学生くらいからのロングランシリーズ作である。

 マリオは、ご存じ、スーパーマリオのマリオである。

 マリオや、弟ルイージ、敵の怪物クッパやピーチ姫などのキャラクターが、カートやバイクに乗ってレースをするゲームである。

 F1レースのようなレースゲームかとおもいきや、それだけではないおもしろさの秘訣がある。

 
 現代では、インターネットで自宅にいながらにして、「全国のおともだち」と同時に対戦できる。12人で、人間同士でレースをするのだからこれは熱い。

 しかし、当然12人のうちには、走りの上手い人もおればそうでない人もいる。それでも、技量に関わらず誰でも一緒に戦え、熱く盛り上がることができる。

 サーキットを3周のレースであれば大抵1週目上位にいる人が、2週目も3週目もリードを広げてゆくのだろう・・・というのが普通のレースゲームだが、マリオカートはそうはいかない

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