私の灘中受験記 [私の灘中受験記]
今年もGWがやってきた。
GWになると、昨年から、私のブログ記事の中で、灘校文化祭のことを書いた記事のアクセス数が急増するようになった。母校の文化祭がこれだけ人気があることは本当に嬉しい限りだ。
さて、母校の思い出は数限りなくあるのだが、私にとって最もインパクトの大きい母校の思い出の1つは、在学中(私は高校だけ)のほかに、12歳のときの中学受験にあるので、それを書いてみようと思う。
田舎育ちで塾通いなど無縁の小6生が、入試まで半年もない2学期になって突然思い立ち、約3ヶ月間にわたって両親とともに家で試行錯誤しながら勉強し、灘中受験に挑んだ話である。
時は1987年、バブルもはじける前、第二次ベビーブーム世代が12歳となり、阪神間では中学受験熱、塾通いが異常な盛り上がりを見せていた時代。でも私の周りは、そんな「熱」など遠い異世界の話だった。
客観的には「記念受験」にしか見えずとも、どっこい本人は本気で受かるつもりだった…
受験の成功体験などは、私の場合、今となっては、なんだかあんまり書きたいものではない。なので、中学受験記だけである。
私は篠山市で小学校生活を送った。
大袈裟ではなく日々野山をかけめぐる生活をしていた。
今の阪神間で中学受験をする子供たちとは対照的に、小6の夏休みなどはプールに草野球、友達の家に集まってのファミコン、夜はナイター観戦に明け暮れた。夏休みを謳歌した。
私は小6の夏休み頃に中学受験をしようと正式に決めた。
篠山市から近い中高一貫の私立の進学校は三田市にある三田学園。
そのあたりまでが通学圏内だと思っていたので外の選択肢があるとは知らなかった。
そのころ、母の友達で阪神間にいる人がおりそこの息子さんが神戸の私学に行っているという話を聞き、そのあたりで「灘中」という学校の存在を知った。
たぶん、夏から秋ころ、家の中で話をしていたときだったとおもう。
父は、灘中を受験してはどうか、と言い出した。
父が言うには、12歳の中学受験などは通過点にすぎずその後が大事、だから、合格できるところを受けるよりはチャレンジすることのほうがよい。大学に進学するのだって、別に私学に行かずとも公立からでも十分いけるのだから、と。つまり、灘中受験というチャレンジをしよう、というコンセプトだ。
私は、父の言う意味では、灘中を受けてみたいと思った。「一番難しい」これが心惹かれた。
ただ1つネックがあった。私が住んでいた篠山市の公立中学校は当時、男子全員丸坊主という校則になっていたのだ(当時は神戸市もそうだった)。私は丸坊主はどうしてもいやだった。なんとなく「丸坊主を避けるために三田学園を受験したい」と考えていた。
三田学園を受験したら確実に合格するかのような話しぶりになっていたが、それも大いに怪しかった。何しろ、私は小6の秋まで中学受験問題を見たこともなかったのだから。
小6の秋ころになって、中学受験問題集(今も書店にある「実力突破」という本)を、国語、算数、理科、社会各1冊ずつ取り組むことになった。
灘中受験か三田学園受験かは一応「保留」のまま。
問題集をやった。国語はまだしも、他の教科の問題は半分も正解できないのに驚いた。都会の子どもはこんなものが解けるのか!と思って本気でびびった。
「間違えた問題をもう一回繰り返せば完璧になる。」という父のアドバイスで、2回目をやったものの、算数や理科の計算問題はちんぷんかんぷんだったので、数学教師だった父に一つ一つ教わってなんとか「へーそうなるんや」と分かったくらいだった。
父曰く、算数の中学入試問題について「これは小学校の範囲では解けない。中学の1次方程式から連立方程式まであたりまでの習得が必要だ。」とのことで、父が中学校用の数学教材のうち「こことこことここの単元」と印をつけてくれたところをやることになった。これは中学入試問題に比べると意外と簡単ですすっと身についた。
小6の秋深まる頃、家が三田市に引っ越すことが決まった。「孟母三遷」みたいな話でもあるが、これは実に偶然によるもので、たまたまその時期三田市の公団宅地分譲の抽選に当選したのだ。
聞くところによると三田市の公立中学校は丸坊主ではないらしい。
そこで、私は、「安心して中学受験に失敗できる」ことが判明し、迷いがなくなり、灘中受験を決めた。
とはいえ、サーカスの曲芸などではなく勉強だから、やれば受かるはず、と根拠はないが思っていた。
年内くらいに、中学受験問題集を各教科一冊ずつを終わらせた。
私は「これで中学受験を極めた」と言っていたと思う。
父が神戸に行った際に、灘中過去問5年分を買ってきてくれた。このとき、灘中入試に社会はなく、国語、算数、理科の3科だと知った。遅っ!そんな受験生は少ないだろう。
年末年始くらいから本番と同じ時間で灘中過去問をやり始めた。
今は年が明ければすぐ、1月中下旬に阪神間の中学入試があるが、私の頃はもう少し後だったと思う。
灘中過去問をやってみると、私がやった中学受験用問題集よりも難しかった。
何より時間が足りない。特に算数が。
国語は、そうは言っても国語。常識的に解ける問題も結構あった。でも、「ことわざ」「慣用句」がたくさん聞かれるのは大変だった。たくさん間違えた。
理科は、生物の知識問題のほかはまあまあできた。複雑そうに見えるものの、「解けるように上手く作ってあるな」という感じで、灘中に入りたいと思える入試問題だった。生物の知識問題はできなかった。田舎育ちの私は動物、植物はほとんど見たこともあるし、植物の多くは(普通食べないものも含めて)食べたことがある(註 危険なので絶対真似しないで下さい!)が、名前は知らなかった。蜜を吸いまくった「ツツジ」すら名前は知らなかった。
過去問5年分をこなした。
算数は、難問ばかりだった。難問も全て、父が解き方を解明した。父はそれを一つ一つ私に伝授してくれた。たぶん塾で教える解法と違うだろうが、方程式を駆使したりしなかったりして、ともかくも全て解けていた。それでも私には自分で解けそうもないものが多かったが、一応それで良いことにして、やった年度の問題を解き直してから、次の年度に取り組んだ。すると点数は上がっていった。
灘中入試は500点満点。私は、だいたい、平均して、合格最低点よりも20~30点足りない内容だった。最後にやった1年分だけ合格最低点ギリギリくらいの点数が取れた。
「合格の確率は五分五分や」と父がコメントし、私もそう思いつつ入試日を迎えた。
ところが悪いことに前日に私は風邪をひき38度近い熱を出した。
これは大変、神に見放された、と思っていたが、当日になったら、熱っぽいものの熱は37度と少し。
試験に影響するほどではなさそうでほっとした。神は私を見放していなかった。
篠山市から朝早く電車に乗って、2時間。灘中に向かった。
灘中の国語対策のために1週間前に買った「マンガことわざ辞典」で最後の知識補充をしながら。
灘中に着いて驚いた。
私の通っていた小学校よりも古い校舎で、木造の机と椅子がひっついた特殊な机でしかもボロボロに穴が空いている。
しかし、灘中受験生たちはみな眼光が鋭く賢そう(に見えた。実際には、何年か後にクラスメイトになった人たちの中には、「くまもん」にも負けない癒し系男子もいた)。
この子たちと一緒に中学生活を送りたい、と強く思った。
灘中入試は2日間。1日目に、算数(問題数が多い)、国語(語句の問題が多い)、理科。2日目に算数(問題は少ないが骨のある問題)、国語(読解中心)。
1日目の試験が始まった。
国語と理科はバッチリできた、と思った。
しかし、算数が大変だった。家で過去問をやっていた時となんだか勝手が違う。どの問題をやってみても正解にたどり着けず、時間だけが過ぎていく、ピンチ。これはピンチと思っている間に、あと1分。問題数16あるうちの13個くらいが空欄。
私は、明日の奇跡の大逆転合格につなげるため、悪あがきで13個くらいの回答欄に「1」とか「7」とか適当な数字を書いて埋めた。
が、正直、どよーん、とした気持ちで篠山に帰った。
あとで、受験塾でバイトをしたときによく分かったが、中学受験の算数にはある種の定石みたいなものがあり、算数は思考力だと言っても、前提知識として知らなければ知っている者に比べてどうしても時間を食ってしまう、というものがそれなりにあった。
さらに言えば、灘は、「定石」だけでも解けず、その上でさらにひとひねり、「ひらめき」や「発想の転換」を要求する問題を出す。
父は、連立方程式までをマスターし、後は要するに四則演算(+-×÷)の組み合わせだから、柔軟に考えれば何とかなるよ、と言っていた。私も、都会の塾に行っている子と違って「知識」はないから、柔軟な思考力で勝負!と考えていたが、本番では苦しかった。
家で落ち着いてやれば「柔軟な思考力」が十分働いたのでそこそこ対応できたのだが、何せ、学校以外の場所でテストを受けたのは始めてだ。きっと、一気に熱が上がってしまったのだろう。頼みの「柔軟な思考力」は空回りしてしまったようだ。
「練習量の差」を痛感した。
篠山に帰り、病院に行って、薬をもらって飲んで明日に備えた。
2日目。父は、「1日目は今年は特に難しかったのだろう。2日目勝負だ。」と励ましてくれた。「難しかったと言っても、あの1日目の算数ではほぼ0点だ。さすがに厳しいが、済んだことは仕方ない。一縷の望みでもあれば。」と私は内心思いながら、再び神戸へ。
私は完全に開き直っていた。
今日の算数と国語で両方とも満点くらいを出す以外に合格はない。
開き直って、澄み切って、怖いくらいの心境だった。
算数と国語ともほぼ完全に力を出し切った。国語の詩がちょっと意味不明だったが、それを除いて、両方とも、自分としては、「満点だろう」という感触だった。
もしかしたら届いたかもしれない?と自分では思っていた。
試験が終わり校舎から出たとき、見知らぬぶっといおばちゃんに突然抱きしめられた。
「あんた細いのに、ようがんばったねぇ。」
びっくりした。神戸って、都会って怖いところだ、と思った。
でも、私の中で、灘中受験生という猛者たちとの闘いは本当にハードだった。血湧き肉躍る体験ではあったが、気圧されたほうが強かった。
翌日(だったとおもう)。合格発表は、私は学校があったので行かず、母に見に行ってもらった。
学校から帰ってきて、私は母から結果を聞いた。
「あかんかったわ。」
私は、ほんの少しくらいは「合格していたら」と思っていただけにさすがにショックだった。
灘中は、入試の得点を公表する。合格ラインは結局例年と変わらず7割程度だった。
私の得点は合格最低点より52点下。過去問練習と比べてもかなり悪い。
国語と理科は7割弱(合格ラインの少し下)。しかし、算数は200点中80点(4割)。2日目算数は80点は堅いと思っていたら、1日目は0点か…
「よくがんばったんちゃう?」
と母は声を掛けてくれたが、私は、神戸で見た灘中受験生たちの姿を想像しながら「鍛え方の違い」だと痛感した。
私はたかが3ヶ月程度の試行錯誤の受験勉強、都会の子たちは1年間みっちり塾へ行ってトレーニングを積んだのだろう、その鍛え方の違いが結果に出た、と。(後で知ることになるが、都会の子たちは、1年間みっちりどころか、大抵は、小5から2年間はみっちり塾通い、毎週復習テストがあり毎月模試があり、灘中の入試問題を10年分以上、さらに塾の先生が作る予想問題もばっちりやり尽くしていたのだそうだ。「模擬試験」なるものを一度も受けることもなく本番を迎えた私とは大違い。ちくしょう!仕方ない、素直に負けを認めよう。)
塾通いするかどうかはともかく、本番で力を発揮するには、本番前にそれ以上の力が出せるようにしておく必要があるのだ。それだけの備えがなければならないのだ。
父のすすめた「チャレンジ」はまさに、(父の意図したところかどうかは知らないが)このようにして私が向学心を持つきっかけになった。
この受験体験で得た感触は、今に至るまで本当に私にとってかけがえのないものになっている。3年後、私は灘高受験でリベンジを果たしたのだが、そのこと自体よりも、12歳の時にチャレンジが出来た、ということが、その後ずっとの「ともかくやってみよう」精神につながっているのがありがたい。
今も、阪神間や首都圏で、中学受験をめざして小4から小6くらいの子たちが、日夜勉強に励んでいる。
私は、できれば小学生時代は一杯遊んで一杯食べて一杯寝て、少年野球などに明け暮れるのが良いと思っているが、しかし、私が歯が立たなかった算数の問題をスイスイ解けるまでに頭のトレーニングを積んでいる子たちのことは素直に凄い、と思う。
よく、中学受験のための「詰め込み」などと言われる。確かに、「ことわざ」とか「生物」とか社会の問題は知識を詰め込む面がある。避けられない。
しかし、受験塾でも、たとえば、算数にしても「何も考えず解き方を暗記せよ」などという指導はしていない。むしろ、厳しい塾ほど「解き方の『意味』も含めて自分のものにしなければ、応用問題になったときに歯が立たない」とくどいくらいに言う。
だから、子どもが、自分の意思でもって取り組めば、中学受験のための勉強は、ちゃんと頭のトレーニングになるし、そこで鍛えられた論理的思考力などは一生の宝物になる。
ただ、塾の先生が「本質の理解が大事」と指導したとしても、生徒のおかれた環境、つまり、課題が多すぎたり、受けている授業の内容が難しすぎたり、毎週・毎月繰り返されるテストですぐに成績を上げることを無理に求められたりすると、大変だ。
あっぷあっぷの状態に陥ると、先生の言うことを聞いている余裕はなく、生徒は仕方なしに「理解無しの手っ取り早いテクニック暗記」に走ってしまうことがある。そして、勉強する際の一種の「悪い癖」が身につくとやっかいだ。
覚えるようなものではないところを覚えて済ませようとすると、その後の中高大での勉強で苦労するし、大人になっても苦労する。
こういうのが「受験の弊害」「競争の弊害」だ。(塾が悪者のように言われる。が、実は、私の経験では、塾講師自体がこれに一番悩まされている。私の経験では、こういう状態にならないように生徒や親をもっていくのはどうしたらいいか?に一番心を砕いたと思う。)
だから、「競争万歳」では教育を語れない。負の面の余りの大きさは無視できない。
そうならないように、中学受験の子どもに関わる大人、親や塾講師、家庭教師などがしっかり配慮してあげたいものだと思う。子どもの一生に関わることだから。
ともかくも、受験について理念的に「良い」とか「悪い」とか言っても、現に、受験生は受験勉強に1年なり2年なり3年なり費やすことには違いない。それが人生のどの時期か(12歳か15歳か18歳か、それ以上か)は人によって異なる、それだけだ。
だから、その受験勉強期において、出来るだけ、精神的に良い状態で、力を培って発揮できるような勉強ができるように周りの大人が配慮することが大事だな、と感じる。
私は幸いだった。中学受験は、本当に気楽に、ただ自分の力を試す「チャレンジ」が出来た。親からのプレッシャーは全く無く、(運良く丸坊主のプレッシャーからも解放され)、純粋なチャレンジができた。だから、自分なりに力を伸ばせたし、向学心も得た。
自慢話はつまらないので不合格体験記を書くコンセプトだった。が、これが意外と自慢話になってしまったことをお詫びしたい。
問題集1冊と過去問を解いて「中学受験を極めた」と豪語して神戸へ出て行った「井の中の蛙」は、鍛えに鍛えられた都会の猛者たちの前に、ものの見事に敗れ去った。
その絵を思い浮かべて、笑ってもらえたら、と思う。
灘校生の多くは、灘中受験に成功した人たち。私の体験から言えば、難関の灘中受験に成功するのは、「やらされている」勉強ではたぶん不可能。
だから、自分の内なるパワーをもって受験勉強に臨むことができて、力をつけることが出来た、さらに結果もついてきた、という人たちだから恵まれている。
その恵まれているところ、持てる力を、自分のためだけでなくて、自分が本当に良いと思えることのために存分に活かして欲しい、とOBとしては大いに期待するのです。
そんな灘校生の姿を見に、今年も、少しの時間でも灘校文化祭を観に行こうか、と思っています。
村上英樹(弁護士、神戸シーサイド法律事務所)
GWになると、昨年から、私のブログ記事の中で、灘校文化祭のことを書いた記事のアクセス数が急増するようになった。母校の文化祭がこれだけ人気があることは本当に嬉しい限りだ。
さて、母校の思い出は数限りなくあるのだが、私にとって最もインパクトの大きい母校の思い出の1つは、在学中(私は高校だけ)のほかに、12歳のときの中学受験にあるので、それを書いてみようと思う。
田舎育ちで塾通いなど無縁の小6生が、入試まで半年もない2学期になって突然思い立ち、約3ヶ月間にわたって両親とともに家で試行錯誤しながら勉強し、灘中受験に挑んだ話である。
時は1987年、バブルもはじける前、第二次ベビーブーム世代が12歳となり、阪神間では中学受験熱、塾通いが異常な盛り上がりを見せていた時代。でも私の周りは、そんな「熱」など遠い異世界の話だった。
客観的には「記念受験」にしか見えずとも、どっこい本人は本気で受かるつもりだった…
受験の成功体験などは、私の場合、今となっては、なんだかあんまり書きたいものではない。なので、中学受験記だけである。
私は篠山市で小学校生活を送った。
大袈裟ではなく日々野山をかけめぐる生活をしていた。
今の阪神間で中学受験をする子供たちとは対照的に、小6の夏休みなどはプールに草野球、友達の家に集まってのファミコン、夜はナイター観戦に明け暮れた。夏休みを謳歌した。
私は小6の夏休み頃に中学受験をしようと正式に決めた。
篠山市から近い中高一貫の私立の進学校は三田市にある三田学園。
そのあたりまでが通学圏内だと思っていたので外の選択肢があるとは知らなかった。
そのころ、母の友達で阪神間にいる人がおりそこの息子さんが神戸の私学に行っているという話を聞き、そのあたりで「灘中」という学校の存在を知った。
たぶん、夏から秋ころ、家の中で話をしていたときだったとおもう。
父は、灘中を受験してはどうか、と言い出した。
父が言うには、12歳の中学受験などは通過点にすぎずその後が大事、だから、合格できるところを受けるよりはチャレンジすることのほうがよい。大学に進学するのだって、別に私学に行かずとも公立からでも十分いけるのだから、と。つまり、灘中受験というチャレンジをしよう、というコンセプトだ。
私は、父の言う意味では、灘中を受けてみたいと思った。「一番難しい」これが心惹かれた。
ただ1つネックがあった。私が住んでいた篠山市の公立中学校は当時、男子全員丸坊主という校則になっていたのだ(当時は神戸市もそうだった)。私は丸坊主はどうしてもいやだった。なんとなく「丸坊主を避けるために三田学園を受験したい」と考えていた。
三田学園を受験したら確実に合格するかのような話しぶりになっていたが、それも大いに怪しかった。何しろ、私は小6の秋まで中学受験問題を見たこともなかったのだから。
小6の秋ころになって、中学受験問題集(今も書店にある「実力突破」という本)を、国語、算数、理科、社会各1冊ずつ取り組むことになった。
灘中受験か三田学園受験かは一応「保留」のまま。
問題集をやった。国語はまだしも、他の教科の問題は半分も正解できないのに驚いた。都会の子どもはこんなものが解けるのか!と思って本気でびびった。
「間違えた問題をもう一回繰り返せば完璧になる。」という父のアドバイスで、2回目をやったものの、算数や理科の計算問題はちんぷんかんぷんだったので、数学教師だった父に一つ一つ教わってなんとか「へーそうなるんや」と分かったくらいだった。
父曰く、算数の中学入試問題について「これは小学校の範囲では解けない。中学の1次方程式から連立方程式まであたりまでの習得が必要だ。」とのことで、父が中学校用の数学教材のうち「こことこことここの単元」と印をつけてくれたところをやることになった。これは中学入試問題に比べると意外と簡単ですすっと身についた。
小6の秋深まる頃、家が三田市に引っ越すことが決まった。「孟母三遷」みたいな話でもあるが、これは実に偶然によるもので、たまたまその時期三田市の公団宅地分譲の抽選に当選したのだ。
聞くところによると三田市の公立中学校は丸坊主ではないらしい。
そこで、私は、「安心して中学受験に失敗できる」ことが判明し、迷いがなくなり、灘中受験を決めた。
とはいえ、サーカスの曲芸などではなく勉強だから、やれば受かるはず、と根拠はないが思っていた。
年内くらいに、中学受験問題集を各教科一冊ずつを終わらせた。
私は「これで中学受験を極めた」と言っていたと思う。
父が神戸に行った際に、灘中過去問5年分を買ってきてくれた。このとき、灘中入試に社会はなく、国語、算数、理科の3科だと知った。遅っ!そんな受験生は少ないだろう。
年末年始くらいから本番と同じ時間で灘中過去問をやり始めた。
今は年が明ければすぐ、1月中下旬に阪神間の中学入試があるが、私の頃はもう少し後だったと思う。
灘中過去問をやってみると、私がやった中学受験用問題集よりも難しかった。
何より時間が足りない。特に算数が。
国語は、そうは言っても国語。常識的に解ける問題も結構あった。でも、「ことわざ」「慣用句」がたくさん聞かれるのは大変だった。たくさん間違えた。
理科は、生物の知識問題のほかはまあまあできた。複雑そうに見えるものの、「解けるように上手く作ってあるな」という感じで、灘中に入りたいと思える入試問題だった。生物の知識問題はできなかった。田舎育ちの私は動物、植物はほとんど見たこともあるし、植物の多くは(普通食べないものも含めて)食べたことがある(註 危険なので絶対真似しないで下さい!)が、名前は知らなかった。蜜を吸いまくった「ツツジ」すら名前は知らなかった。
過去問5年分をこなした。
算数は、難問ばかりだった。難問も全て、父が解き方を解明した。父はそれを一つ一つ私に伝授してくれた。たぶん塾で教える解法と違うだろうが、方程式を駆使したりしなかったりして、ともかくも全て解けていた。それでも私には自分で解けそうもないものが多かったが、一応それで良いことにして、やった年度の問題を解き直してから、次の年度に取り組んだ。すると点数は上がっていった。
灘中入試は500点満点。私は、だいたい、平均して、合格最低点よりも20~30点足りない内容だった。最後にやった1年分だけ合格最低点ギリギリくらいの点数が取れた。
「合格の確率は五分五分や」と父がコメントし、私もそう思いつつ入試日を迎えた。
ところが悪いことに前日に私は風邪をひき38度近い熱を出した。
これは大変、神に見放された、と思っていたが、当日になったら、熱っぽいものの熱は37度と少し。
試験に影響するほどではなさそうでほっとした。神は私を見放していなかった。
篠山市から朝早く電車に乗って、2時間。灘中に向かった。
灘中の国語対策のために1週間前に買った「マンガことわざ辞典」で最後の知識補充をしながら。
灘中に着いて驚いた。
私の通っていた小学校よりも古い校舎で、木造の机と椅子がひっついた特殊な机でしかもボロボロに穴が空いている。
しかし、灘中受験生たちはみな眼光が鋭く賢そう(に見えた。実際には、何年か後にクラスメイトになった人たちの中には、「くまもん」にも負けない癒し系男子もいた)。
この子たちと一緒に中学生活を送りたい、と強く思った。
灘中入試は2日間。1日目に、算数(問題数が多い)、国語(語句の問題が多い)、理科。2日目に算数(問題は少ないが骨のある問題)、国語(読解中心)。
1日目の試験が始まった。
国語と理科はバッチリできた、と思った。
しかし、算数が大変だった。家で過去問をやっていた時となんだか勝手が違う。どの問題をやってみても正解にたどり着けず、時間だけが過ぎていく、ピンチ。これはピンチと思っている間に、あと1分。問題数16あるうちの13個くらいが空欄。
私は、明日の奇跡の大逆転合格につなげるため、悪あがきで13個くらいの回答欄に「1」とか「7」とか適当な数字を書いて埋めた。
が、正直、どよーん、とした気持ちで篠山に帰った。
あとで、受験塾でバイトをしたときによく分かったが、中学受験の算数にはある種の定石みたいなものがあり、算数は思考力だと言っても、前提知識として知らなければ知っている者に比べてどうしても時間を食ってしまう、というものがそれなりにあった。
さらに言えば、灘は、「定石」だけでも解けず、その上でさらにひとひねり、「ひらめき」や「発想の転換」を要求する問題を出す。
父は、連立方程式までをマスターし、後は要するに四則演算(+-×÷)の組み合わせだから、柔軟に考えれば何とかなるよ、と言っていた。私も、都会の塾に行っている子と違って「知識」はないから、柔軟な思考力で勝負!と考えていたが、本番では苦しかった。
家で落ち着いてやれば「柔軟な思考力」が十分働いたのでそこそこ対応できたのだが、何せ、学校以外の場所でテストを受けたのは始めてだ。きっと、一気に熱が上がってしまったのだろう。頼みの「柔軟な思考力」は空回りしてしまったようだ。
「練習量の差」を痛感した。
篠山に帰り、病院に行って、薬をもらって飲んで明日に備えた。
2日目。父は、「1日目は今年は特に難しかったのだろう。2日目勝負だ。」と励ましてくれた。「難しかったと言っても、あの1日目の算数ではほぼ0点だ。さすがに厳しいが、済んだことは仕方ない。一縷の望みでもあれば。」と私は内心思いながら、再び神戸へ。
私は完全に開き直っていた。
今日の算数と国語で両方とも満点くらいを出す以外に合格はない。
開き直って、澄み切って、怖いくらいの心境だった。
算数と国語ともほぼ完全に力を出し切った。国語の詩がちょっと意味不明だったが、それを除いて、両方とも、自分としては、「満点だろう」という感触だった。
もしかしたら届いたかもしれない?と自分では思っていた。
試験が終わり校舎から出たとき、見知らぬぶっといおばちゃんに突然抱きしめられた。
「あんた細いのに、ようがんばったねぇ。」
びっくりした。神戸って、都会って怖いところだ、と思った。
でも、私の中で、灘中受験生という猛者たちとの闘いは本当にハードだった。血湧き肉躍る体験ではあったが、気圧されたほうが強かった。
翌日(だったとおもう)。合格発表は、私は学校があったので行かず、母に見に行ってもらった。
学校から帰ってきて、私は母から結果を聞いた。
「あかんかったわ。」
私は、ほんの少しくらいは「合格していたら」と思っていただけにさすがにショックだった。
灘中は、入試の得点を公表する。合格ラインは結局例年と変わらず7割程度だった。
私の得点は合格最低点より52点下。過去問練習と比べてもかなり悪い。
国語と理科は7割弱(合格ラインの少し下)。しかし、算数は200点中80点(4割)。2日目算数は80点は堅いと思っていたら、1日目は0点か…
「よくがんばったんちゃう?」
と母は声を掛けてくれたが、私は、神戸で見た灘中受験生たちの姿を想像しながら「鍛え方の違い」だと痛感した。
私はたかが3ヶ月程度の試行錯誤の受験勉強、都会の子たちは1年間みっちり塾へ行ってトレーニングを積んだのだろう、その鍛え方の違いが結果に出た、と。(後で知ることになるが、都会の子たちは、1年間みっちりどころか、大抵は、小5から2年間はみっちり塾通い、毎週復習テストがあり毎月模試があり、灘中の入試問題を10年分以上、さらに塾の先生が作る予想問題もばっちりやり尽くしていたのだそうだ。「模擬試験」なるものを一度も受けることもなく本番を迎えた私とは大違い。ちくしょう!仕方ない、素直に負けを認めよう。)
塾通いするかどうかはともかく、本番で力を発揮するには、本番前にそれ以上の力が出せるようにしておく必要があるのだ。それだけの備えがなければならないのだ。
父のすすめた「チャレンジ」はまさに、(父の意図したところかどうかは知らないが)このようにして私が向学心を持つきっかけになった。
この受験体験で得た感触は、今に至るまで本当に私にとってかけがえのないものになっている。3年後、私は灘高受験でリベンジを果たしたのだが、そのこと自体よりも、12歳の時にチャレンジが出来た、ということが、その後ずっとの「ともかくやってみよう」精神につながっているのがありがたい。
今も、阪神間や首都圏で、中学受験をめざして小4から小6くらいの子たちが、日夜勉強に励んでいる。
私は、できれば小学生時代は一杯遊んで一杯食べて一杯寝て、少年野球などに明け暮れるのが良いと思っているが、しかし、私が歯が立たなかった算数の問題をスイスイ解けるまでに頭のトレーニングを積んでいる子たちのことは素直に凄い、と思う。
よく、中学受験のための「詰め込み」などと言われる。確かに、「ことわざ」とか「生物」とか社会の問題は知識を詰め込む面がある。避けられない。
しかし、受験塾でも、たとえば、算数にしても「何も考えず解き方を暗記せよ」などという指導はしていない。むしろ、厳しい塾ほど「解き方の『意味』も含めて自分のものにしなければ、応用問題になったときに歯が立たない」とくどいくらいに言う。
だから、子どもが、自分の意思でもって取り組めば、中学受験のための勉強は、ちゃんと頭のトレーニングになるし、そこで鍛えられた論理的思考力などは一生の宝物になる。
ただ、塾の先生が「本質の理解が大事」と指導したとしても、生徒のおかれた環境、つまり、課題が多すぎたり、受けている授業の内容が難しすぎたり、毎週・毎月繰り返されるテストですぐに成績を上げることを無理に求められたりすると、大変だ。
あっぷあっぷの状態に陥ると、先生の言うことを聞いている余裕はなく、生徒は仕方なしに「理解無しの手っ取り早いテクニック暗記」に走ってしまうことがある。そして、勉強する際の一種の「悪い癖」が身につくとやっかいだ。
覚えるようなものではないところを覚えて済ませようとすると、その後の中高大での勉強で苦労するし、大人になっても苦労する。
こういうのが「受験の弊害」「競争の弊害」だ。(塾が悪者のように言われる。が、実は、私の経験では、塾講師自体がこれに一番悩まされている。私の経験では、こういう状態にならないように生徒や親をもっていくのはどうしたらいいか?に一番心を砕いたと思う。)
だから、「競争万歳」では教育を語れない。負の面の余りの大きさは無視できない。
そうならないように、中学受験の子どもに関わる大人、親や塾講師、家庭教師などがしっかり配慮してあげたいものだと思う。子どもの一生に関わることだから。
ともかくも、受験について理念的に「良い」とか「悪い」とか言っても、現に、受験生は受験勉強に1年なり2年なり3年なり費やすことには違いない。それが人生のどの時期か(12歳か15歳か18歳か、それ以上か)は人によって異なる、それだけだ。
だから、その受験勉強期において、出来るだけ、精神的に良い状態で、力を培って発揮できるような勉強ができるように周りの大人が配慮することが大事だな、と感じる。
私は幸いだった。中学受験は、本当に気楽に、ただ自分の力を試す「チャレンジ」が出来た。親からのプレッシャーは全く無く、(運良く丸坊主のプレッシャーからも解放され)、純粋なチャレンジができた。だから、自分なりに力を伸ばせたし、向学心も得た。
自慢話はつまらないので不合格体験記を書くコンセプトだった。が、これが意外と自慢話になってしまったことをお詫びしたい。
問題集1冊と過去問を解いて「中学受験を極めた」と豪語して神戸へ出て行った「井の中の蛙」は、鍛えに鍛えられた都会の猛者たちの前に、ものの見事に敗れ去った。
その絵を思い浮かべて、笑ってもらえたら、と思う。
灘校生の多くは、灘中受験に成功した人たち。私の体験から言えば、難関の灘中受験に成功するのは、「やらされている」勉強ではたぶん不可能。
だから、自分の内なるパワーをもって受験勉強に臨むことができて、力をつけることが出来た、さらに結果もついてきた、という人たちだから恵まれている。
その恵まれているところ、持てる力を、自分のためだけでなくて、自分が本当に良いと思えることのために存分に活かして欲しい、とOBとしては大いに期待するのです。
そんな灘校生の姿を見に、今年も、少しの時間でも灘校文化祭を観に行こうか、と思っています。
村上英樹(弁護士、神戸シーサイド法律事務所)
2013-04-30 19:42
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いやあ、実にいい記事でした。こんな経験がおありとは。後半の部分はなまじっかの教育関係者よりずっと鋭い指摘で参りました。
by shira (2013-05-01 22:29)
shiraさん
ナイス・コメントありがとうございます。
外から見るのと、自分が講師をして、中学受験、学習塾の中を見るのとで随分景色が違いました。十把一絡げに良い悪いを言うことはできない、と思いました。
塾に通う子やその親が、塾や受験生活といかに上手につきあえるか、が大きなポイントだったように感じました。
子どもたちが、ネガティブな気持ちから解放されて、(受験には成功する人も失敗する人もいるのは必然としても)自分の力を伸ばせたことを素直に喜べ、一生を生きていく力につながる学びができるようにしてあげたいな、と思います。
高校受験、大学受験でも基本的に同じですね。
by hm (2013-05-02 11:04)
成功した話って、意外に役に立たないものです。どんなに謙虚に語っても、他人は自慢話をなかなか本気で聞きませんから… 失敗談と、その失敗をどう乗り越えたのかという話は、単に成功した話と違って耳に入りやすいし、参考にもしやすいと思います。
貴重なお話を記事にして頂き、有り難うございました。
by 心如 (2013-05-03 12:58)
傷害罪になるようなことを学校が強制するなんて・・・。
どう考えても納得できないです。
これもある意味契約の自由問題と思えます。
条文気に入らないなら契約するなと・・・
なんか広い意味でのパワハラ?
http://life-ayu.blog.so-net.ne.jp/2013-04-24
勉強の仕方もまるでわからず落ちこぼれたうちには灘はまったく無縁です。
勉強そのものもいいけどやり方を身につけとけばちがってたかもと思ったりします。
by ayu15 (2013-05-07 12:30)
心如さん
ナイスコメント有り難うございます。
大人が、子どもに失敗させないように、ということばかり考えるのは、可能性を狭めること、と思います。
安心して失敗から学べるようにしてやること、それも大人の務めではないか、と思います。
ayuさん
ナイスコメント有り難うございます。
勉強の内容そのものも大切ですが、勉強の仕方を学ぶということはもっと大切とも言えますね。
勉強に嫌な思い出をつくらないような学校の在り方がよいですね。
by hm (2013-05-07 14:09)
いや~とても面白かったです。
とてもためになりました。
高校受験編はどこに書かれているのでしょうか?
是非読みたいです!
by 名無しさん (2014-11-28 16:15)