テルマエ・ロマエで人権を語る!? [息抜き!?]
観たかった映画、観てきました。
もう、阿部寛が主人公というだけでも想像してつい笑けてくる、というくらい楽しみにしていました。
実は原作マンガは読んだことがないのですが、映画、実に面白かったです。
きっと原作マンガはさらに(?)素晴らしいに違いない、と思います。
お話しは、こんな感じ
(ウィキペディアより あらすじ)
舞台はハドリアヌス帝時代、西暦130年代の古代ローマ[注 2]。浴場を専門とする設計技師ルシウス・モデストゥスは、革新的な建造物が次々に誕生する世相に反した昔ながらの浴場の建設を提案するが採用されず、事務所と喧嘩別れしたことで失業状態に陥ってしまう。
落ち込む彼の気を紛らわせようとする友人マルクスと共に公衆浴場に赴いたものの、周囲の騒々しさに耐えかね雑音を遮るため湯中に身を沈めたルシウスは、壁の一角に奇妙な排水口が開いているのを見つけ、仕組みを調べようと近づいたところ、足を取られて吸い込まれてしまう。不測の事態にもがきながらも水面に顔を出すと、彼はローマ人とは違う「平たい顔」の民族がくつろぐ、見たこともない様式の浴場に移動していた。
ルシウスが見た「平たい顔族」とはアジア系有色人種の未来の姿、すなわち現代日本人であり[注 3]、ルシウスは浴場を使ったタイムトラベラーとなっていたのだった。これ以降、ルシウスは自分の意志とは無関係に度々「平たい顔族」の風呂へ訪れては、古代ローマと現代日本の世界を行き来し、それが自らの創意工夫によるものではないことに若干の後ろめたさを感じつつ、そこで得たアイディアをローマでの浴場設計・運用考案に活かし、浴場施設専門の空間プロデューサーとして名声を勝ち得ていく。
(抜粋終わり)
主人公ルシウスは大変真面目であり、「曲がったことが嫌い」な性格で、使命感・責任感のかたまりのような人物です。
ですから、タイムワープして、現代日本の風呂(銭湯や家庭浴室)を見て、20世紀や21世紀の文明を見るのですが、常に、
「何だこれは!ローマの文明を凌駕している!」
と驚きつつ、「敗北感」を感じ打ちのめされている、という人物です。
例えば、シャンプーハット1つをとっても、
「顔が濡れていない!この冠に、そのような機能まで備えられていたのか!」
と驚愕するのです。
さて、しかし、ここで私は仕事のことに結びつけて考えてしまいました。私は決してルシウスのような気質ではないのですが、ブログを書く段になって、つい仕事と結びついてしまいました。
テルマエ・ロマエで、主人公ルシウスは、約2000年後の浴場の技術を見て、それを自分の生きる時代に適用していったのです。
これが、
浴場 ではなくて 人権 だったらどうでしょう!
というのを考えてしまったのです。
これは恐ろしいことを考えてしまいました。
つまり、ルシウスが、テルマエ・ロマエ(浴場技師)ではなくて、法律家か何かだったして、タイムワープして、現代日本の社会を見て、日本の憲法や法律を見たとしたら・・・
「何と言うことだ!『法の下の平等』などと書いてある。」
「何と、奴隷がいないではないか。」
「『表現の自由はこれを保障する』とは。そのようなことで国を維持するとは一体どういう仕組なのだ!」
「生活保護という制度まであるのか!」
「捕まったとき、お金がなくても、弁護人がつけられるのか!」
と驚愕の嵐のはずです。
しかも、おそらく古代ローマよりは、多くの人が丁寧に扱われており(要するに基本的人権の保障)、幸福について配慮されているという状態を見て、ルシウスは、自分の今までの価値観がガツンと衝撃を受け揺さぶられるるのを感じ、
「世界に冠たるローマは、この『平たい顔族』(日本人)よりも社会の仕組において劣っているのではないか」
と考えはじめ、悩んでしまうに違いない。
そうして、古代ローマに戻ったルシウスは、
奴隷制の廃止
身分制の廃止
基本的人権の保障(人の基本的な自由、つまり、移動の自由、職業の自由、表現の自由、学問の自由、結婚の自由などなどを認めること)
みんなに文化的な最低限度の生活の保障をすること
などを古代ローマで実現しようと、真剣に活動し始めるでしょう。
しかも、どちらかといえば「曲がったことが嫌い」なルシウスは、「上手く立ち回る」ことなどできない。
たちまち、皇帝はじめ支配階級に目を付けられ、危険分子として捕らえられてしまう。
「今改心するなら命だけは許してやるぞ」
といわれても、自分に嘘をつけないルシウスは、考えを曲げない。
ルシウスは処刑されるのか!?
はりつけにされ、火をかけられる寸前の阿部寛・・・
というような感じで、現代日本の法制度を見ることは、ルシウスにとって、決して幸せではないシナリオの幕開けになりそうです。
つまり、現代の法制度はその根本に、ある考え方があります。
この考え方は、今は当たり前かも知れませんが、歴史の中では、全く当たり前ではないのです。
「人は生まれながらにして、幸福のために保障されるべき権利を持っている。」
「人ひとりひとりを大切にすることが全ての基本である。」
といったことは、日本国憲法(個人の尊厳。憲法13条など。)に限らず、近代の立憲主義に基づく各国の憲法で書かれていることですが、圧倒的に長い過去の歴史の中で「非常識」だったはずです。
でも、御陰で、私たちが幸せに近づけているのは事実。
もちろん、ルシウスがさらに長く現代日本に滞在すると、
「何と言うことだ!憲法で『奴隷的拘束』が禁止されているというのに、この労働者は何だ。古代ローマの奴隷と変わらぬ扱いを受けているではないか!」
という場面に出くわすことになるかも知れません。そうなると、タイムワープ先の現代日本でも、ルシウスは闘ってしまうかも知れません。
ともかく、そのようなときにも、「憲法や労働基準法に反している!」と闘う武器が存在するのです。これは、古代ローマの人民は持っていない武器です。
上のようなことを考えると、ちょっと怖いところがあります。
もちろん、社会制度や人権保障についても、現代も発展途上の段階にあります。
今の世の中だっておかしいことがいっぱいあります。
上の話で、私の空想の話で、「法律家版ルシウス」が20世紀後の法制度を見てしまった、というほど極端でないにしても、何かのきっかけで
少し先の将来のあるべき人権保障の形
が見えてしまった人というのがいたらどうでしょう。
結局社会は、人権保障という要素だけではなくて、色んな人の利害対立のもとになりたっていますから、「将来のあるべき人権保障のかたち」が進歩的であればあるほど、それが自分の利益に反するという人からは攻撃されます。
だから、「将来のあるべき姿が見えてしまった人」は大変な目に遭うことも多いのです。
「将来のあるべき姿が見えてしまった」というのは、きっかけとしては、今の社会における歪みの被害に遭った(たとえば公害被害など)ことなどが多いと思います。要するに、タイムトラベルはしませんが、自分や、家族、大切な人の特殊な経験から、「こんな世の中おかしいやん!!」ということにはからずも気づいてしまった人というのは、「見えてしまった人」になることがあります。
その中で、「世の中を変えよう!」と強力に動き出す、という人もいるはずです。
最初は、「非常識だ」とか言われ、既存の利益を奪われると考える人から攻撃されることがよくあります。意外と世間も冷たい、そいうこともよくあります。
でも、そういう人が、世の中から冷ややかな視線をうけつつも叫び続けたことが、50年くらいして実現する、ということも実に多いです。
私は、幸いにして、今のところ、余り特別な経験をしていないので、人権保障をより行き届かせるにしても「一歩ずつでよい」、一気に無理をしても実現しない、という感覚でいやすいです。
そういうスタンスだと、そんなに極端な迫害は受けにくいですが、やっぱり、社会を進歩させる原動力にはなりにくい。
非難覚悟で、少数でも、未来はこうあるべきと信じて強く言い続ける、そういう人々の存在があってこそ、未来の多くの人たちの幸せもあるのでしょう。
というわけで、浴場の設計等と違って、法の在り方や人権についての進歩ということを考えるならば、現代社会において、少数派であって、今すぐには「非常識」と扱われそうな意見についても、
もしかしたら、ルシウスのように未来を見てきた人の意見かも知れない
というくらいに思って、一度はしっかり耳を傾けるべきではないか、と思います。
村上英樹(弁護士、神戸シーサイド法律事務所)
昔のおはなしみてその時代想像してみたらいいこともあるけどやはり影に人権を考えてしまいます。
「常識」 「目の前の現実に現実的対応」 「今の自分らの経済」などから「保守派」とその時代の「非常識」な改革派との攻防が見えたりします。
多くの人の深刻な犠牲の上に今の人権があるんだなあと思ったりします。
絶対戻して欲しくないです。
今でも宗教右翼・道徳右翼などにいじめられる人がいます。
この人たちがそういうの気にせず普通に生きれる社会はいつになるんでしょう??
私たちが「昔は奴隷とか人権おくれてたんですねえ~」
というように未来の人が今の社会見て同じようなこと思う日が来るんでしょうか?
どこかの知事や某野党や某世論みてると夢物語にみえることもあるんです。
by ayu15 (2012-06-18 22:27)
あゆさん、ナイスコメントありがとうございます。
確かに、絶望しそうになることもありそうですが、長い目でみれば良い方向になってゆくことは信じられると思っています。
by hm (2012-06-20 19:46)
Lobyさん、心如さん、ナイスありがとうございます。
by hm (2012-06-20 19:48)